東瀛小評  推薦文章


林思雲 「中国の民族性から見る中日関係――中国人の“避諱”観念と虚言」
原題:「従中国的民族性談中日関係――中国人的避諱観念与〔言荒〕言」

                                     2003年6月28日執筆 各種中国語ウェブサイトに掲載
                                               
 (邦訳2005年3月27日)

  中国人と日本人は外見はほとんど同じである。ともに漢字を使用する。しかし、私は中国人と日本人が思考様式、価値観、人生観において著しく異なることを自らの日本での生活を通じて痛感する。これが「中国の民族性から見る中日関係」という題を掲げる理由である。
  思考様式、価値観、人生観というものは、その民族の持つ特性、つまり民族性の表れである。中国人にも民族性があり、日本人にも民族性がある。しかし両国の民族性には大きな違いがある。そしてこの違いが少なからぬ場面で、互いの誤解や無理解の原因になっている。両国の間では近年、歴史問題をめぐって摩擦が発生しているが、私はこのことについても両国の民族性の違いが互いの正確な理解を妨げていると思う。  
  例えば日本人はよく、中国人は嘘を平気でついたり事実を誇張すると言う。中国人が嘘をついたり事実を誇張したりする傾向が日本人より強いのは、客観的に言って確かにそのとおりであろう。しかし、日本人のほとんどが中国人がなぜ嘘をつくのかやなぜ事実を誇張するのかについては理解していない。もし日本人が、中国人は相手を騙すためにそうしているのだとしか考えていないのなら、それはとんでもない誤りである。中国人は自分のためでない嘘をつく場合も多いからだ。彼らは家族や国家のためにも嘘をつく。いわゆる“愛国的嘘”といわれるものだ。  
  こう言うと、どうして嘘をつくことが国家のためになるのか分からないと言う方がきっといらっしゃるだろう。これを説明するには中国の儒教とは如何なる物かから説き起こす必要がある。

  長い歴史の間、中国人は儒教の思想体系の中に漬かっていた。日本でも江戸時代には朱子学が官学とされて知識人はこぞって儒学を学んだが、日本人には孔子や朱子の教えは学問でしかない。しかし中国人にとっては孔子や朱子の教えは宗教である。だから中国では“儒学”ではなく“儒教”と呼ぶ。  
  宗教である以上、行動規範もしくは道徳を課す。儒教の根本は忠・孝・礼・仁であるが、そのほかに“避諱〔金谷注・忌避〕”という重要な項目がある。  
  辞典を引いてみると、“諱”とは「隠す」という意味である。“避諱”とは、恥となる物事を隠すことだ。自分の恥ではなくて他人の恥をである。  
  『論語』に、中国人の“避諱”とはどのようなものであるかを見事に表している逸話がある。ある人が孔子に、「私の村にはとても正直な人物がいて、父親が他人の羊を盗んだ時にそれを告発しました」と言った。孔子は、「その人物を正直とは思いません。父は子のために隠し、子は父のために隠す、これが本当の正直というものです」と答えた〔金谷注・『論語』「子路第十三」〕。  

  『春秋』は、孔子が魯国の史官〔金谷注・歴史を記録する役人〕の文書をもとに編纂した歴史書だといわれている。『春秋穀梁伝』〔金谷注・『春秋』の注釈の一つ〕 によれば、孔子は『春秋』を編むに当たり、“尊者の為には恥を諱(かく)し、賢者の為には過(あやまち)を諱し、親者の為には疾(あしきこと)を諱す”という原則を立てたという。現代語に訳すと、「偉大な人物についてはその人物の不面目な事柄は隠し、優れた人物についてはその人物の過失を隠し、自分の血の繋がった親族については欠点を隠す」である。つまり、避諱の本質は、自分以外の誰かのためにその誰かの恥を隠すことなのである。そして、他の誰かのために隠すとは他の誰かのために嘘をつくということに繋がる。つまり、伝統的な中国の道徳においては、他人を守るために嘘をつくことが非難されない、それどころか奨励されているということである。  
  伝統的な中国の考え方では偉大な人物の恥部や優れた人物の失敗はできるかぎり隠蔽するのが道徳的な行いとされる。これは逆に言えば、偉大な人物の恥を暴いたり優れた人物の失敗をあげつらったりすることは道徳にはずれるということだ。現代の中国では国家がいわば偉大な人物である。だから国の恥になることや過ちを隠すことが中国人の基本的な義務の一つとなっている。国家の威信を護るために嘘をついたりデマを飛ばすのは推奨や賞賛に値する行為なのである。  
  日本人はいざ知らず、真相を暴露すれば国家の威信を傷つけるような場合、中国人なら十中八九、真相を隠す道を選ぶ。そしてその中には嘘をつく者が必ずいる。  

  西洋で創造された諸学問のうち、最も重要な意義を有するのは科学だろう。科学は真理の探究、真実の追求を唯一の目的とする。
  中国に科学が誕生しなかった最大の原因の一つは避諱の文化だと、私は考えている。中国人にとって真実はさして重要ではないからだ。偉大な人物や国家や自民族の名誉のほうが重要であって、必要とあらば真実などはどこかへ放り出してそちらを護る。  
  西洋の歴史研究者は歴史の真相を明らかにすることを歴史研究の任務と見なすが、中国の歴史研究者は国家の威信を擁護することを第一の任務と考える。中国の歴史学者の編算する史書では、“偉大で、栄光ある、いつも正しい”国家の形象を樹立するために、不都合な事実は隠蔽されるか改竄される。  
  偉大な人物や優れた人物のためにどうして“避諱”が行われねばならないか。これには中国人の独特な世界観が関わってくる。西洋においては人間は平等であるが、中国では昔から一貫して人間は不平等な存在である。ただし、この不平等は才能に関するものではなくて、もっぱら道徳面における不平等だ。中国人は伝統として、人間を道徳的な水準で“君子”と“小人”の二種類に区別する。“君子”とは“忠孝礼仁”の徳目において高い水準にあり、物質的な利益に惑わされない人間のことだ。“小人”は“忠孝礼仁”の徳目において程度が低く、かつひたすら物質的利益を追求する人間のことである。君子の中でもさらに抜きん出たレベルの人間が“賢人”、最高に達した人間が“偉人”である。  
  歴史は“乱世”と“知世”の二つの時代が交替循環するものだというのが、中国人の伝統的な歴史観である。“乱世”が出現するのは小人が権力を握るからであり、“治世”が出現するのは君子が権力を握るからだという中国人の世界観から見れば、国家を運営する上での肝要は“君子を重用し、小人を遠ざける”ことになる。偉人や賢人に国を任せれば国は安寧を長らく保つことができ、乱世の出現を防ぐことができると、儒教は教えている。  
  しかしながら偉人や賢人は神ではない。当然ながら過ちも犯す。だから彼らが過ちを犯した時には、それを隠し、彼らの威信を傷つけないように努めなければならない。  
  偉人や賢人のために隠すことの目的は、彼らの威信を護るためである。この考え方を裏返せば、彼らの功績を誇張して彼らの威信をさらに高めるのもまた、国家の長治久安を保証する方法になる。つまり誇張と隠蔽は互いに相補って一体を成しているのである。というわけで中国人は偉大な人物の恥を隠しながらその人物の功績を誇張して誉め称えることになる。  
  誇張と隠蔽の文化の中国においては、真相の究明が困難な事件が多い。その原因は必ずしも政府による組織的な隠蔽によるものではなくて、一般大衆が進んで隠蔽したり誇張するためであることも多いのである。西洋ではジャーナリストが真相に迫るために事件の当事者にインタビューするが、中国ではこのやり方は無意味である。なぜなら当事者が誰よりも事実を隠蔽したり歪曲するからである。
  その良い例が1989年の天安門事件である。海外に逃亡した民主運動を支持した学生や活動家の多くは、天安門で起こった事態の当事者でありながら、事実を遙かに超える死亡者数を主張した。なぜか。彼らは、民主運動を弾圧したことで中国政府は国家を代表する資格を失ったのであり、中国を救う方法は政府を倒すことだと考えたからである。天安門事件での死亡者数が多ければ多いほど、中国政府の国際社会における印象を悪化させることができ、政府を打倒するのに有利であろう。そう彼らは北京では数万人の学生や民衆が殺されて天安門広場は死体と血で染まったと喧伝したのだった。  
  天安門事件で事実を誇張したのは海外に逃亡した学生リーダーや民主活動家だけではない。一般市民もその列に加わったのである。米国のあるテレビのジャーナリストが現場でインタビューした、蕭なにがしという市民は、「天安門広場で数万人が死んだ」と証言した。ちなみに米国でこのインタビューが放映されると、中国当局はインタビュー映像を証拠にして蕭なにがしをデマを広めた罪で逮捕した。  

  避諱文化は中国の伝統である。だが今日に至ってその弊害に鑑みて反省の必要ありと考え始めた中国人は少なくない。私もその中の一人である。避諱文化は中国と日本関係における衝突の原因となるだけでなく、それ以外の国家との関係においても少なからぬトラブルの原因となっている。  
  さらに重要なのは、避諱文化は中国人の虚栄心を満足させる以外には中国にとって何の利益もたらしてはいないということである。その典型的な例が1958年の大躍進である。各地で無限大に誇張された食糧生産高が報告された結果、みな飯はいくら食ってもいいのだと思いこんでいたるところで食糧を浪費し、大量の餓死者を生みだした。  
  中国の避諱文化が国家にいかに災厄をもたらすかをあらためて示したのはSARSである。SARSは最初、広東で発生した。ところが広東の官員は国家の対面を護るという避諱思考から真実を隠蔽しようとし、何人かの専門家がSARSは治療可能で予防もできる、通常の病気と変わらないと発表した。そのために内陸部で予防措置を講じるのが遅れて大規模な蔓延を招いたのである。SARSの流行には人災の要素が相当ある。

  中国人は幼いときから偉い人や国家のために避諱すること、嘘をつくことを教えられる。だから嘘を不道徳と感じなくなる。これが嘘をつくのが中国人の習慣になっていることの副次的な理由である。
  最近のことだが、ある小学校で教師の生活を援助する目的で課外授業の教材を作成して児童に購入させ、その売り上げを教師の収入に充てていた。この購買費が児童に過大な負担になっているという告発の声があがって、教育局がその小学校を調査することになった。すると各クラスの担任は児童に、「学校の名誉をまもるために、本当のことは言ってはいけません」と命じたのである。そして児童は調査にやってきた教育局の人間に課外授業の教材など買ったことはありませんと声をそろえて答えた。児童の嘘は、自分のためではなくて学校の過ちを隠し、学校が批判を受けないため、要は他人のための嘘で、典型的な避諱行為である。教師が児童に嘘をつきなさいと教えたら、子供は嘘つきになるに決まっている。  
  この嘘つきの習慣によって、中国は、虚言とそれから偽物の氾濫する国となった。  
  どの国の民族の民族性にも良い面と悪い面がある。私は、避諱の文化は中国人の民族性の悪い面の一つで、中国人はこの悪い面を反省して変えなければならないと思っている。偉い人や国家のために都合の悪いことを隠したり、事実を誇張したり、デマをまき散らす伝統をなくさなければならない。当の中国人でさえ、虚言は現代社会と両立しないということに気がついている。だからこの2、3年、中国で“誠信(誠実と信用)”ということがしきりに言われるのである。だが、“誠信”であろうとすれば、まず第一に虚言で国家の対面を保とうとする避諱観念を抛擲しなければならない。いかなる情況においても本当のことを話す人が真の“誠信”の人である。  
  今日のさまざまな現象を見ると、中国人の思想や思考様式は次第に避諱から離れる方向へ発展し、“誠信”へと近付きつつあると思える。
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