中国茶筆記

錦上添花

 中国茶に錦上添花という名の茶があることはご存じの方も多いでしょう。糸で丁寧にかがった緑茶に菊の花が3つ仕込まれていて、湯の中で緑茶の部分が牡丹のように開くとともに、その上方で菊の花が見事に開きます。花の上に花が重なるという形から、この名前が付けられたように思えますが、実はそうでもなさそうです。
 「錦上添花」とは、中国に昔からある成語(熟語)です。私の知る限り、最も古い例として北宋の詩人・書家であった黄庭堅(西暦1045-1105)の詩(「了了庵頌」)にあり、すくなくとも900年ものあいだ用いられ続けてきた長い歴史をもつ言葉です。漢文ふうに訓みくだせば、「錦上に花を添う」となります。
 「又要ふ翁作頌、且図錦上添花。」
 (又た、ふ翁に求めて頌を作らせ、且つ錦上に花を添うるを図る。)
 注:ふ翁は黄庭堅の号。「ふ」は漢字が出ないため平仮名で表記しました。

 錦とは日本語では“にしき”、様々な色の糸で華麗な模様を織りだした絹織物のことですが、錦のようにあでやかで美しいものを指すたとえとしても用いられます。ここではその意味です。花もあでやかで美しいもののたとえであり、つまり、「錦上添花」とは、美しさうえにさらに美しさを加えるということです。
 たとえば、この言葉が実際にどう使われるかといえば、元末・明初(14世紀)に書かれた『水滸伝』(施耐庵・羅貫中作)の第19回に、こういうくだりがあります。
 「林仲道、今日山寨、天幸得衆多豪傑到此相扶相助、似錦上添花、如旱苗得雨。」
 (林仲いわく、「今日、このとりで(梁山泊)に幸いにも数多くの豪傑がここへ助力に見えました。これはまさに錦上に花を添え、ひでりの苗が雨を得たというもの。」)
 ここでは、錦と花が美の象徴にとどまらず、善や正義、あるいはばくぜんと「良い物事」というくらいの意味で用いられています。最初に挙げた黄庭堅の詩でもそれくらいの意味合いに拡大されて使われています。

 「只有錦上添花、誰肯雪中送炭。」
 (富貴の人に媚びる者は多いが、雪中に炭を送る―逆境にある人を助ける―者は少ない)
 『児女英雄伝』(文康著・19世紀)第9回の一節です。「錦上添花」には、こういう用例もあります。
 「錦上添花」という言葉は、つまり良きこと悪しきこと双方の場合に使える、というより、真善美、偽悪醜両方の世界で揺らいでおり、人が精神の光をどちらからあてるかによって確定するという、不思議な言葉です。ときには、「やりすぎてくどくする」「あざとい」という意味にもなり、今の例のように、「悪いものより悪くする」を意味することさえあります。

 「緑牡丹に菊花を加えたら錦上添花ができあがる」と、評する人もいますが、たしかにそういえなくもありません。
 緑牡丹はそれ自体独立し、存在として完結した茶です。緑茶の葉を丁寧に糸でかがって、湯の中で牡丹の花のように開かせる、精巧な芸術品といってもいいものです。その華麗さも、美しさも、必要にして十分で、決してそれ以上のなにごとかが要るとはおもえません。そこへ、清楚ではありますが、これもまたたぐいまれな美しさを身にまとった菊の花を配する必要があるでしょうか。錦上添花の場合、美の上に美をかさねてはたして美となっているか、あるいは、良さに良さをさらに加えて、はたしてより良くなっているといえるか。人によってはそんな意見をいだくかもしれません。
 もちろん、茶は好みのものであり、善し悪しの基準は各人によって異なっていて当然です。
 錦上添花の命名者は、もしかしたらそこまで考えて、この茶を美の上の美とみるか、あるいはやりすぎとみるか、それは飲むあなたが決めることだという含意をこめて、この名前を選んだのかもしれません。そういえば、上の黄庭堅の詩でも、褒めているのか貶しているのかわからないところがありますね。

(2000. 7.22)

 

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