中国茶筆記

抹茶から散茶へ

 岡倉天心の『茶の本』は、原題を "The Book of Tea" といいます。もとは英語で書かれましたが、著者の死後、日本語に訳されたものです。次のような章立てから構成されています。

  第一章 人情の碗
  第二章 茶の流派
  第三章 道教と禅道
  第四章 茶室
  第五章 芸術鑑賞
  第六章 花
  第七章 茶の宗匠たち
        (講談社学術文庫『茶の本』、桶谷秀昭訳による。以下、引用はこれによる)

 内容は章立てから窺えるように、外国人にたいして日本の茶道と精神を概説したものです。しかし、中国茶についても、参考となる指摘や意見がすくなくありません。なぜなら、岡倉天心は日本の茶と中国の茶を区別していないからです。天心は、両者を基本的に同じものとみなしていました。
 たとえば、第二章では、日本茶と日本の茶道の源流となった中国の茶の歴史について、簡潔で的確な説明がなされ、つづく第三章では、そもそも中国の茶文化の理解には、道教と禅仏教の理解が不可欠であるとし、これらについての説明が続きます。そして第四章以下では、突然、日本の茶の哲学や茶道における所作、そして千利休などの著名な茶人の哲学を論じているのです。
 一見奇異にもみえるこの同一視について、天心は、中国茶の精神と文化が宋(西暦10-13世紀)の時代に最高に達したとしたうえで、こう書いています。
 「1281年の蒙古襲来を首尾良く撃退したために、わが国は、中国がこの遊牧民族の侵入のために不幸にも断たれてしまった宋の文化運動を継続することができたのである。」(第二章、34-35頁)
 天心は、日本の茶道は中国の茶道の後継者であるというのです。
 なるほど、日本の茶道で飲まれるのは、宋代の茶であった抹茶です。そしてその茶と作法を日本にもたらした栄西は、宋に渡航し、宋の禅寺で学んだ人物でした。たしかに天心の意見はただしいといえるでしょう。

 現在の中国茶と日本の茶道が異なっているのはみなさんご存じのとおりです。茶器も違い、入れ方も違い、なによりもまず、茶の形状が違います。中国茶は散茶(葉茶)であり、日本の茶道は抹茶です。
 現在の両者が異なることは天心も認めています。ただし、天心がいうのは、モンゴル人が中国を支配した元をへて、その後の明以降、中国人にとっての茶が単なる嗜好品となったという、精神面においての変貌です。

 明以後の中国茶が精神性、芸術性をうしなったという岡倉天心の意見はさておき、日本茶道が宋の抹茶と作法を守り続けたのに対し、中国では元のあとを承けた明代(14世紀)に、茶の製法が大変化しました。抹茶が姿を消し、葉茶にとってかわられたのです。
 当然、入れ方や飲み方も変わりました。そして、現在見られる散茶中国茶の代表的種類が現れるのは、明以後、あるいは清時代になってからです。こんにちの中国茶の作法は、この明・清以後の散茶の作法なのです。
 どうしてこの変化が起こったのでしょうか。
 さきほど、明代に変化が起こったとのべました。これは自然の変化ではありません。人為的なものです。
 明王朝の創始者である朱元璋(太祖洪武帝)は、極貧の農民の境涯から身を起こしました。その育ちのせいもあって、貴族趣味が大嫌いで、ものごとの実質重視と、質素倹約を生涯の政治的信条とした人物です。
 当時の中国は元末期からの戦乱によって、疲弊の極にありました。国の疲弊とは、すなわち民衆の疲弊です。新たに生まれた明王朝という国家は、なによりもまず、休息を必要としていたのです。庶民出身の朱元璋には、それが痛いほど分かっていました。無用の贅沢を排する、それが朱元璋の政治姿勢でした。
 そんな彼からみれば、当時の中国茶は、絵に描いたような無用の贅沢そのものだったにちがいありません。
 宋元の上流階級が好んだのは餅茶でした。
 当時の茶の作り方は、まず、摘んだ茶の葉を蒸して葉茶にします。
 葉茶を搾めて粘りを取ってから水で磨り、型にはめて乾かします。それを強火であぶったあと、幾度も熱湯にくぐらせてからふたたび火であぶり、さらに数日から十数日間、煙焙に置いておきます。そのうえで、仕上げに湯気を当てて色出しをし、密閉した部屋に置いて扇いで冷やすというものでした。茶としては抹茶ですが、形状から餅茶とも呼ばれていました。
 お茶としては、葉茶の段階でできあがっているわけです。現に、民間では葉茶が飲まれていました。つまり、実用的な立場からすれば、ばかばかしいほどの無駄な手間と労力が費やされていたのです。この無駄は、朱元璋には我慢のならないものでした。
 さらには、その無駄な手間と労力を負担していたのはもちろん庶民です。これも、庶民出身の朱元璋はよく知っていました。
 だから、禁止したのです。
 そもそも、茶とは、生水が飲めない中国では水がわりの飲み物というのが基本的な性格です。茶を入れて飲むのは、文化運動でも芸術でもなんでもなく、本来は乾きをいやしたり、食べ物を胃のなかへ流し込むためのごく日常の行為に過ぎないのです。
 さきほどふれたように、朱元璋は庶民、それも最下層に近い出身です。その彼にとっては、そのたかが水代わりの茶に、これほどまでに金と人力と時間をつぎ込む宋以来の繊細趣味は理解しがたかったでしょう。
 餅茶は、精巧な型がさまざまに考案され、デザインの手が込んだものほど高級品とされたようです。それだけではなく、表面の光沢も茶の評価に大きく影響しました。つやを出すために香膏油という油を混ぜることも行われていました。油などを混ぜては、風味は落ちたでしょう。茶の味は、葉茶のほうが上だったようです。
 「見てくれのために中身を損なうとはどういう料簡か」
 上流階級の本末転倒としか思えない美的感覚に、朱元璋ははらわたの煮えくり返るような思いを抱いていたと思います。それどころか、「国家あったうえでの文化の栄えであろう。こんな簡単な弁えもない人間が国を率いていては滅びて当然だ」というくらい、憎悪していたといってもいいかもしれません。
 宋は、茶だけでなく、文化の花がおおいに咲き誇った時代ですが、文化の発展にエネルギーを集中しすぎて国力が衰えてしまい、周囲の異民族に圧迫され続けた時代でもありました。最後はモンゴル族の元に息の根を止められます。
 明の建国後、彼は創業以来の部下達に封地や官職を与えて報いましたが、文臣(知識人、すなわち伝統的な上流階級)たちへの報償は武臣(軍人)よりもはるかに低いものでした。
 この辺りに、朱元璋の感情がうかがえます。
 さらに、元を倒して建国された明は、中華復興を国是としました。しかし、明がよろず国のありかたの手本としたのは、前代の宋ではなく、そのまえの唐でした。唐は、その詩がそうであるように、華麗でありながら、その華麗さはあくまで実質を見失うことがなく、剛健な精神を保ちつづけた国でした。

 「(餅茶は)真味を失えり」
 朱元璋の餅茶製造禁止令で挙げられている禁止の理由です。まずいから作るな、うまくない茶に存在理由はない、というところに、いかにもこの人物らしい実用主義が窺えます。
 以後、中国茶は美味しい茶を作り、美味しく飲むという実質本位のありかたに徹することになります。岡倉天心は、このありかたを指して、精神性や芸術性をうしなって単なる嗜好品となったという言い方をしたのでしょう。
 天心は、だからダメだといいたげです。
 しかし、朱元璋が聞けば、「茶はそのとおり嗜好品である。それ以外に何があるというのか」と、逆に天心の精神主義をあざ笑うかも知れません。

(2000. 6.15)

 

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