中国茶筆記

中国茶と中国料理 (その2)

 前回の続きです。というよりも、落ち穂ひろいのようなものです。

 清代に袁枚という大変な金持ちで知識人がいました。一言でいえば、上流階級です。
 変なひとでした。変な、というのは、このひとは自分で体と手を動かしてなにかをするのが苦にならない、というより大好きだったからです。中国の伝統的な上流階級は、自分ではまったくなにもしないのが普通でした。自ら労働にいそしむのを下賎のやることとして卑しむのが常だったのです。
 「大人は心を労し、小人は身を労す」というのが儒教の教えで、これをひっくり返すと、労働する者は身分が賎しい証拠ということになります。だから、多少大げさにいえば、自分では指一本動かさず、日常生活の隅々まで(服の着替えさえ)、召使いにやらせていました。
 当然、日常生活の常識がありません。食べ物はただ食べるだけ、その味は云々しても材料が何かなどは知らず、ましてどう料理するかにいたっては論外です。(ちなみに、日本もこの伝統をかなり受け継いでいて、夏目漱石が、あるとき稲田を見て、「雑草が生い茂っている。ここらの田んぼは手入れが行き届いてない。どうして抜いてしまわないのか」といったことがあります。漱石は、米が稲から穫れることを知らなかったのです。そばで聞いていた正岡子規は驚愕したそうです。)
 ところが、この袁枚は、自分の口にする料理の材料はおろか、調理法まで知っており、知っているどころか、自分で厨房で采配を振るって料理を作りました。みずから腕を振るって作ることさえあったようです。そうして、次々とあらたな料理法を開拓していったという、中国の知識人の形態からはおよそかけ離れた人物でした。

 彼の料理のレシピは、こんにち、『随園食単』という書物となって残っています。随園とは、彼の屋敷の名前です。青木正児氏の訳注で、岩波文庫に入っています。
 『随園食単』は全14章、最後の第14章が「茶酒の部」として、当時の中国に存在した名茶と名酒の品評に当てられています。茶は、武夷岩茶、龍井茶、常州陽羨茶、洞庭君山茶など、当時の主な茶の銘柄が挙げられています。ちなみに、酒は金壇于酒、徳州廬酒、四川ひ筒酒、紹興酒、などが論じられています。

 彼は茶を語る際に、料理との取り合わせについて全くふれていません。あくまで茶のみの善し悪しに話題を限定しています。
 たとえば、武夷岩茶については、
「まずその香を嗅ぎ、それからその味を試み、徐々に嚼みしめてこれを吟味すると、なるほど清香は鼻を撲って、舌に甘みが残る。一杯の後、重ねて一、二杯を試みるに、人心を平静ならしめ、情性を悦楽せしめる。」(上掲書 237ページ)
 といった具合で、微に入り細に入ってその茶のもつ風味や受けた感興を書き記しているにもかかわらず、「だからこの茶にはこれこれの料理が合うだろう」というふうには、話は決して進まないのです。
 『随園食単』は、料理の百科全書です。当然ながら、茶や酒を取り上げるからには、料理との取り合わせを論じるべきであろうところが、そうではないのです。
 ここで、前回私が述べた内容を思い出してください。
 「これはつまり、本当にいいお茶は、単独で味わうべきものだといっているのではないでしょうか。」
 「料理とお茶(とくにいいお茶)を一緒に摂ると、お茶の香りと味わいに邪魔になるからではないでしょうか。」
 袁枚も、やはりそう思っていたのでしょう。

 長々と回り道をしたお話をしてきましたが、最後にひとつ身近な例を挙げて結びとしましょう。
 あなたは、食事をしながら、極上の玉露を飲みたいとおもいますか?

(2000. 5.13)

 

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