中国茶筆記

陸羽以前の茶

 中国で茶の飲み方を確立したのは唐の時代の人、陸羽といわれています。その著『茶経』がこんにちにいたるまで中国茶のバイブルとして不動の位置を占めているのはみなさんご存じのとおりです。
 その『茶経』の「六之飲」で、陸羽は茶に混ぜものをして飲むやりかたを激しく排撃しています。当時は現在とはちがい、茶が茶の葉をこまかく砕いて飲むやりかたを取っていたのもそうですが、茶を茶だけで入れて楽しむことはかえって異例で、通常は葱(ねぎ)、薑(ショウガ)、橘子(みかん)などをまぜるのが普通だったようです。陸羽はこれを嫌い、そんないれかたをした茶は「溝渠の間の棄水――どぶに溜まった汚水――」であるとまで極言しています。
 その陸羽も塩だけは茶への添加物として認めていました。今の感覚からすれば茶に塩など変な感じがしますが、この奇妙さについて、中国茶書の研究で有名な布目先生は、茶がもともと羮(あつもの・スープ)から派生してきたものであり、「喫茶というものは、(略)羮から独立して茶だけをもちいる単独の飲み物となったのではないか」という興味深い主張をなされています。(『緑芽十片』岩波書店、1989年4月、「2 三国両晋時代の茶」、85頁。)
 ついで同氏は、「唐の陸羽が『茶経』を著作して主張している一つの重点は、当時、茶は他の葱や薑の類と混ぜて飲まれていた当時の状況の中から、茶だけを独立の飲料とするほうがよいという主張にあったのではあるまいか」と述べておられます。つまり、くりかえしますが、中国における誕生から陸羽当時までの茶は、いわば具を入れてあたかもスープのようにして飲むものだったらしいのです。
 そしてこれがそれまでの中国の茶のありかたであったろうというのが、だいたいの通説のようです。ただし、これ以前は資料に乏しくてよくわからないというのが実状といったほうがよいでしょう。
 ただし、そのとぼしい資料のなかにも、ときにははっとするほど重要な背景を感じさせるものが散見します。
 たとえば講談や小説・漫画でおなじみの三国時代、呉の最後の君主孫皓(そんこう)は大変な酒乱で、宴会では臣下にもある量の酒をかならず飲み干すよう強制しました。韋曜(いよう)という臣下は酒があまり飲めないのですが、孫皓のお気に入りだったので、彼だけはノルマが免除されて韋曜の杯には酒の代わりに茶をつがせてやっていました。(『三国志』、「呉書」韋曜伝)
 これで当時の酒と茶の色が似ていたことはわかりますが、もうひとつこの記事から明らかになることがあります。酒に混ぜものをして飲んでいたとは考えられません。色が同じでも具が浮いていれば酒でないことがすぐに周囲にわかってしまいます。つまりこの資料にでてくる茶には何の混ぜものもなかったということになります。
 もちろんことさらに具をこした茶を注いだ可能性もあります。しかしそれならその旨なんらかの表現があるのではないでしょうか。『三国志』の問題の箇所は、「密かに茶せんを賜わり以て酒に当つ」とあるのです。この文章はあくまで茶を酒のかわりに与えたということしか伝えていません。「せん」は茶の同意語です。(残念ながらフォントがありません。)
 孫皓はすこしでも気に入らないとすぐに臣下を殺した凶暴な人物でした。暴君の機嫌を損じまいと、たとえネギやらショウガやらが浮いていようと、宴に居並ぶ廷臣は気がつかない振りをしたのかもしれないといううがった見方も可能ではあります。
 しかし、“密かに”とありますから他者にこの中身の入れ替えを気づかれないようにという配慮もあったのは、さきほど引用した「韋曜伝」の記事に明言されています。ほかの臣下には知られないようにしたということは、うらがえせば両者が黙っていれば酒と茶は外見上区別がつかなかったということでもあります。

 つまり、陸羽の時代のまえにも茶を茶だけで飲用した事例がすくなくともひとつはあり、この記事はかならずしもかれ以前の茶が「溝渠の間の棄水」だけでもなかったことを暗示しているのではないでしょうか。


(2000. 2.27)

 

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