中国茶筆記

中国茶のヒケツ

 前回で、魯迅の名が出た。その魯迅にもっぱら茶について書いた文章がある。題名もそのものずばり、「茶を飲む」。もちろん中国茶である。

 某デパートでまた大安売りをやっているので、上等の茶の葉を二十匁買ってきた。十匁で銀二十銭である。最初、急須に一杯茶を入れて、はやく冷めてはいけないと思い、綿入れで包んでおいた。ところがそれほど大事を取って飲んだにも拘わらず、その味は私はいつも飲んでいる安物の茶とほとんど変わりがなく、色もひどく濁っていた。
 これは自分が悪かった、上等の茶を飲むには、蓋附き茶碗を用いねばならぬ。私はそう気がついたので、蓋附き茶碗を用いてみた。果して、茶を入れると、色は澄んで味は甘く、ほのかな香りがあってほろ苦い。たしかに好い茶である。
(松枝茂夫訳。『魯迅選集』第十巻、岩波書店、1964年改訂版、93頁)

 この一文は、魯迅にとって「好い茶」あるいは「上等の茶」とはどう淹れるべきものかが書かれていて興味深い。

 (ちなみに、魯迅は紹興(浙江省)で生まれ育った人だから、これは緑茶のはずである。浙江省は中国では安徽省・江蘇省とならぶ良質な緑茶の産地である。龍井茶は浙江省で作られる。「色は澄んで味は甘く、ほのかな香りがあって」というくだりからも、わかる。良い緑茶の典型的なほめかたである。)
 「はやく冷めてはいけないと思い、綿入れで包んでおいた」。つまり、魯迅にとっておいしいと思う温度が決まっていて、淹れているあいだでもそのおいしいと感じる温度からはずれないようにするのが「大事を取っ」た、つまり丁寧な淹れかたなのである。この文章だけではわからないが、魯迅は緑茶を熱湯で淹れる人だったのだろう。苦みが出やすいからだ。私なら80-90度ぐらいにする。(蒸らすあいだ冷めないように気をつけるのは同じだが。) だがこれは、人によって意見が分かれるだろう。
 魯迅は茶器にもこだわりがある。「上等の茶を飲むには、蓋附き茶碗を用いねばならぬ」、茶器にも注意せよ。同じ茶でも急須(茶壺)か蓋附き茶碗(蓋碗)のどちらを使うかによって出来が変わってくるのは、そのとおりである。だが私なら、緑茶は茶壺で淹れることがおおい。茶の色が魯迅のいうほど濁るとは思わないし、なにより、蓋碗だと茶葉が湯の中につかりきりになってしまうからだ。つかりきりだと何煎もできるはずの茶葉が一回で終わってしまううえに、苦みがでる(だから魯迅は蓋碗がいいといったのだろう)。それに途中で湯をつぎ足したりしたら、せっかくのいい茶がだいなしではないか。だから私なら絶対にやらない。だが、これもまた、私個人のこだわりであって、人によって意見が分かれるはずである。

 さきほどから私は「人によって意見が分かれる」とばかり書いている。
 この「中国茶漫歩」は今回が最終回である。だから何か締めくくりのようなことを書こうと思うのだが、それが浮かんでこない。これでは第4回のくりかえしではないかとおしかりを受けそうである。
 だがじっさいそうなのだ。中国茶とはつまるところ、適正な茶器に、適正な量の茶葉をいれ、適正な温度の湯を注いで、適正な時間蒸らすものである。そして何が適正かは飲む本人が決めることであって、自分ができた茶をおいしいと思えばそれが適正となる。茶葉のよしあしの判断も、そうである。それだけである。
 ようするに中国茶は好きな茶を好きなように淹れればよいのである。べつに必ずこうしなければならないという絶対のルールはないし、深淵な奥義もない。しいていえば、自分の決めたやりかたをいつもそのとおりに守る、これが中国茶のヒケツだろう。なあんだ、となかには拍子抜けするかたもいらっしゃるかもしれない。
 ただし、これが案外むずかしい。適正が、ともすれば適当になる。

(2003/12)

 

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