中国茶筆記

莫談国事―国事を談ずるなかれ―

 以前、中国の茶館の壁に貼ってあった言葉である。「国事」とは政治のことである。むかしから貼っていたと聞く。
 むかしとはいつの頃か。かねがね疑問だったが、いまだにわからない。辞典を引いても起源がはっきりしないのである。諸橋徹次の『大漢和辞典』にも収録されていないし、中国の辞典『辞海』(1979年度版)にも載っていない。
 一見、静かに茶を楽しみながら無粋な政治の話題など口にすべきではないというほどのことかと思える。しかしそんな生やさしい意味ではないらしい。

 来歴がはっきりしないのは、口語――ごく普通の話し言葉――であることもある。
 本来「国事を談ずるなかれ」などと仰々しく訓読するようなていの語句ではない。お上のことをあれこれ言うなと下世話に訳すほうが正確である。
 老舎の戯曲『茶館』の舞台となる1898(光緒24)年の裕泰大茶館では、「莫談国事」の注意書きがここかしこに貼られているという設定になっている。客、つまり登場人物は庶民である。しかめつらしい文語なら誰もわからない。

 1898年は戊戌変法が失敗した年である。日清戦争の敗北をうけて、光緒帝の支持のもと、康有為、梁啓超、譚嗣同らによって中国の近代化が目指されたが、それをこころよく思わない西太后のクーデターによって運動は覆され、光緒帝は幽閉、譚嗣同は死刑、康有為と梁啓超は危うく難を逃れて日本へ亡命した。『茶館』裕泰大茶館の貼り紙はこういった状況をふまえている。
 貼る側にしてみれば自分たちが厄介ごとに巻き込まれるのは困るからであるが、国事を談じた当の本人がもっと厄介な事態になるのはいうまでもない。日本なら風流な茶の席で無粋な人だと顰蹙を買うぐらいで済むが、中国ではたとえ茶飲み話でもみだりな政治談義は命にかかわった。 

 魯迅に「今春の感想二つ」(1932年)という文章がある。時期としてはややのちの、辛亥革命で清朝が倒れ中華民国が成立した後の時代になるが、「国事を談ずる」ことの苛烈さについて、一見そっけない面もちの裏に激しい苛立ちが透けてみえる彼一流の筆致で書いている。

 中国で生きて行くには、実際それでなくては駄目なんです。でないと生きては行けません。たとえば人が個人主義を唱えるとか、或いは遠い宇宙哲学とか、霊魂は不滅なりや否やといったことについて研究するのは、ちっともかまわない。ところが社会問題を論ずるということになると、えらいことになります。北平(北京のこと)ではまだよいでしょうが、上海で社会問題を論じたりすると、それこそただではすみません。(略)いつも無数の青年が捕まって行って行方不明になります。
                  (『魯迅選集』第12巻、岩波書店、1964年版、松枝茂夫訳による)

 西安事変(※注1)の張学良(1898-2001)が、晩年、茶にまつわる詩を詠んでいる。
 張学良は事変後、蒋介石によって50年間軟禁された。外部との接触も厳しく規制されつづけた。この詩は、ある日、珍しく客を迎えることが許可されたおりのものである。

  総府 遠く来たりて義気深し
  山居 何(いずく)んぞ敢えて嘉賓を動かさん
  酒賤しくして知己に酬ゆるに堪えず
  惟(ただ) 清茗ありて此の心に対す

 「総府」はここでは客をさす。あなた。「清茗」はさわやかな茶、よい茶。
 大意は、わざわざおいでくださったことを本当にありがたく思う、このような山中のわび住まいとて酒といえば安酒ばかり、かわりに一碗の良茶であなたの義侠心にお礼をしたい。
 こんな場合、日本人なら安酒でもやはり酒、というふうにならないだろうか。酒を飲んで愚痴をこぼす。しかし、酒ではなく茶なのである。
 酒を飲めば、自分を半世紀にわたり幽閉した蒋介石や中華民国への積もりに積もった鬱屈が噴出しかねない。出れば待つのは死であろう。だから張学良は酒を避けて、他愛のない茶話に花を咲かせることにしたかと思える。国事を談ずるなかれ、と。
 中国では、茶を喫するとは、時にこのような重さをもつらしい。



※注1
 1936年12月、奉天軍閥リーダー・国民革命軍副司令の張学良が、西安に対共産党戦闘の督戦にあらわれた中華民国政府指導者の蒋介石を監禁し共産党との内戦停止と抗日を迫った事件。これによって国共合作が実現した。
(2003/11)

 

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