中国茶筆記
茶を作る(1)
今回から、「だ」「である」調にあらためる。
一昨年の8月のこと、懇意にさせていただいている同業者のYさんから、「台湾へ一緒に茶を作りに行きませんか」と誘われた。
Yさんは、茶畑での茶摘みから製品としての茶ができあがるまでの全工程をやってみるという。それも、林文経さんのところでというのである。林文経さんは台湾で茶の「傑出専業農民」の称号を持つ、国家が認定した茶づくりの名人である。Yさんは、林文経さんと親しい。
渡りに船と喜んだ。ちょうど、「これでいいのか」と大げさな言葉をつかえば悩んでいた矢先だった。
中国から出ている陳宗懋主編『中国茶経』(1992年)や同『中国茶葉大辞典』(2000年12月)や、William H. Ukersの『ALL
ABOUT TEA 』(1935年)を見れば、茶に関するたいていのことは書いてある。日本でも、専門家による研究書がいろいろある。
仕事上、中国茶や台湾茶について一応わきまえてはいたのだが、あくまで知識としてであって、経験がともなっていなかった。
たとえば、製茶工程を知っているといっても、揺青(※注1)によって青茶(半発酵茶・ウーロン茶)の芳香がでるということや、芳香のもとが茶葉に元来含まれているテルペンアルコール類をはじめ200種を越える香気成分であることは、文献を読んで知っているだけであり、自分で揺青したことはない。製造どころか、自分で茶摘みをしたことさえなかった。つまりはみな受け売りである。
これは、茶を扱う職業をなりわいとする者として、恥ずかしいことではないか。
▽さあ台湾へ
9月、台湾へお茶を作りにいった。
関西空港を午後の便で発ち、台北空港で一足先に東京からの便で到着していたYさんと落ち合い、出迎えてくださっていた林さんに紹介された。
痩せて筋肉質の身体に、いかにも農民らしく赤銅色に日焼けした顔をされた、篤実そうな方だった。
60代後半だとうかがっていたが、50歳そこそこにしか見えない。
「こんにちは。林です」
「金谷です。はじめまして。よろしくお願いします」
このやりとりは、日本語である。林さんは、十いくつになるまで台湾語と、それから日本語で育った世代の台湾人である。
篤実とはストレートということでもある。
Yさんから林さんの逸話を聞いていた。
「傑出専業農民」は5年に一度、農産物ごとに10人選ばれる。受賞者は、政府主催の祝賀の席に招かれる。林さんも、招かれた。
この祝賀会には、総統も出席する。当時の中華民国総統は、李登輝氏だった。
李総統は10人の受賞者とそれぞれ握手して会話をかわした。林さんの手のひらを握って、自身が農家の出である李総統が、その堅さに驚いて、「これは本物の農民だ」と、言った。
逸話とはこれではない。
このあと、受賞者と総統はそろって紹興酒のグラスを片手に乾杯したのだが、李総統が乾杯の音頭をとるのを受賞者のテーブルに座って見ていた林さんは、やおら立ちあがると、空間を隔てて向かい合う総統席までつかつかと歩いてゆき、李氏の前に立って、「それはお茶でしょう」と、言ったのである。
李総統は驚いた。林さんのあたりをはばからぬ言動にではなく、そのとおりだったからである。
紹興酒は濃い茶色をしている。焙煎の強めの茶(たとえば木柵鉄観音)なら、見た目には見分けがつかない。
「どうしてわかったのかね」と、感心した李氏に、林さんは、
「茶農家が見ただけでわからなくてどうしますか」
と、答えた。
▽傑出農民宅へ
私たちが乗る車が半時間ほどののち、桃園県の亀山郷にある林文経さんのご自宅についたのは夕方だった。
桃園県は、基本的に農業地域である。
亀山郷は平地だけではなく、林に覆われた丘や小山も多い。来る道すがら、車窓の周りに広がる畑は、その丘陵のスロープを削って造成されていた。そのなかに、土砂に埋まっている畑や、地滑りして山肌を露出させている林があった。
2001年夏の台湾は、台風に直撃されて降雨量が多かった。台北市では冠水したり浸水する地域が出たし、桃園県では山崩れや地滑りで民家が壊れたり畑がつぶれたりした。丘の中腹を削って建てられている林さんの家も、後ろの崖が崩れて三合院(伝統的な中国家屋の形式。真ん中の母屋の左右から二つの棟が張り出して、建物の形がコの字型になっている)の片方の翼が土砂で半分埋まっていた。こんな時にと、恐縮である。
一休みすれば、もう夜である。夕食をごちそうになった。
茶づくりは明日からである。
※注1
青茶の製造過程においては、摘み取った茶葉を最初は屋外、ついで室内で数時間置いて、余分な水分をとばすとともに発酵させる。この作業を萎凋というが、室内における萎凋の段階で、素手で葉をときどきかき混ぜる。これを揺青と呼ぶ。葉の表面に傷をつけて発酵を促進させるためである。
(2003/5)
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