よく聞かれる質問に、「一番おいしい中国茶は何ですか?」というものがあります。難しい質問です。答えられないといったほうが正確でしょう。
みもふたもない言いかたですが、飲む人間によってなにが美味しいかは異なるからです。私はこうお答えすることにしています。
「私がおいしいと思うのは…」
昨年4月の初めのことです。
中国を旅行したお客様が来店して、江蘇省・太湖で出来たての碧螺春(※注1)をたっぷり飲んできたというみやげ話をされました。
「本当においしかったですよ」
それはそうでしょう。畑のすぐ近くで摘まれた極上の茶葉で、しかも製茶場の隣りに置かれた露天の茶店で、出来上がったばかりの明前茶を飲むのですから。この時期に中国の、それも産地へいかないかぎり、絶対に味わえないおいしさです。そうですか、とうなずくほかはありません。
明前茶とは、その年の一番茶のことです。一番茶は日本の緑茶と同じで若芽だけを摘んで作ります。陰暦の節日のひとつに清明節というものがあって(だいたい太陽暦で毎年4月5日。中国では陰暦がまだ毎日の生活でいきています)、それ以前に摘んだ茶葉で作るので、清明節の前に作った茶という意味で「明前茶」と呼びます。
明前茶は若芽の柔らかく微妙な風味がとても素晴らしいのですが、その風味は日が経つにつれてみるみる失われていきます。日本へは航空便か船便で輸出されます。前者では出荷されてから約1週間、後者では約3週間ほどで、店先に並ぶことになりますが、これだけの時間差だけなのに、飲めばすぐ違いがわかります。
「向こうは淹(い)れ方からして違うんですね。ああいう淹れ方だからおいしいのでしょうか」
これには首をかしげました。それはどうか。
そのかたの言う淹れ方とは、ガラスのコップにまず熱湯を注ぎ、そのうえに茶葉をふりかけて、葉が底に沈んだら飲みごろというものです。たしかに中国ではよく見る方法です。
しかし私には、熱湯で淹れるのがまず信じられない。緑茶を熱湯で淹れると香りはよく立ちますが、茶が出過ぎます。渋も出ます。(もっともこの場合はそれほど問題にはならないですが。蓋(ふた)をしないので湯がすぐ冷めます。)
さらに信じられないのは、この、蓋をしないことです。 炊飯器の蓋を開けたままでご飯を炊くようなものではないか。
私にはどう考えてもおいしいはずがないと思えます。
そのかたが帰られてから、実験してみました。
やはり、薄い。おいしくない。
同じように、ちょうど入ってきたばかりの明前茶の碧螺春で試したのですが、じつにもったいないことをしたと思いました。
しかし、発見もありました。
碧螺春についていえば、このやりかたのいいところは、この茶独特の細かな縮れた茶葉が、しだいに開きなからグラスの底に沈んでいくさまを、存分に楽しめたことです。
「おいしかったですよ」と、そのかたがおっしゃったのは、こういう部分も含めてのことだと、気がつきました。こういう部分、というのは気分です。楽しくお茶を飲める環境です。
おいしいお茶とはどういうものか。
考えてみれば、おいしい、おいしくないという判断は主観的なもので、人によって異なります。例えば緑茶は熱湯ではおいしくないというのも私個人の味覚による判定であって、ほかのかたすべてが同じように感じるとはかぎらない、というより感じるはずがない。
銘柄、等級の選択しかり。
淹れかたも、そうです。
楽しい淹れかたをしたお茶はひとしお美味しく感じるでしょう。
このかたには、この淹れかたをしたお茶がおいしかったわけであり、つまりは、それがそのかたにとっておいしいお茶なのだということになります。私には私にとっておいしいお茶があるように。
だから、冒頭に掲げた質問に、私は今日もこうお答えするわけです。
「私がおいしいと思うのは…」