中国茶筆記

茶芸について

 中国茶が日本で知られるにつれて、「茶芸」も知られるようになってきました。
 茶芸とは、「お茶を淹(い)れ、飲むことを芸術としてとらえ、その研さんにいそしむ活動」とでも定義できます。大ざっぱにいって、日本の茶道にあたるものです。
 朱色の陶器急須、ピッチャー、聞香杯と品杯で一組の茶杯。そして、竹製の台(茶盤といいます)のうえで急須にお湯をかける淹れ方。テレビ番組や雑誌の特集で見た人も多いと思います。

 茶芸では、できた茶は、急須からいったんピッチャーに注いで、自分と相手の茶杯に分けます。そして、主客茶を喫しながら、楽しく会話を交わす。会話を交わす場を作るために茶を入れるのが茶芸であるともいえます。
 最初に茶芸の存在を知ったとき、意外な気がしました。ありえないと思ったのです。
 私の理解する中国の文化からいって、第1回で書いたような水代わりの茶ではなく、上等な茶を、主人が自ら淹れ、客にすすめてともに飲むという状況が、考えられなかったのでした。
 中国の伝統的な文化では、いい茶についていえば、自分で淹れるものではありません。
 古来、「君子は心を労し、小人は身を労す」といわれました。貴人は肉体労働をしないという意味です。(※注1)
 茶を淹れるのも、「身を労す」るうちにはいります。
 茶は茶館でボーイに淹れてもらうもの、あるいは、自宅では使用人が淹れるものなのです。
 清王朝時代のこと、英国の外交官が中国の大臣をテニスに誘いました。大臣は「召使にお相手させましょう」と答えたそうです。スポーツも「身を労す」るものだからです。司馬遼太郎さんの書き物で読んだ話です。

 中国においては、昔から、宮廷での煩瑣な礼式や茶館の従業員のマナーは存在しました。
 しかしそれは、淹れる側の作法です。彼らが、淹れたその茶を喫することはありません。
 あるレベル以上の茶と、そしてそれを飲むことができる階層においては、淹れる人間と飲む人間は別 でした。飲む側の作法はなかったと言いきっていいかと思います。
 茶芸は、1970年代に台湾で生まれました。
 高度経済成長期に入った当時の台湾で、近代化の進むのはいいが、それは西洋一辺倒化でもあることを忘れてはいけないと考えた一部の文化人や芸術家が、自分たちの文化的なアイデンティティーを見つめ直そうじゃないかと主張しました。そのための具体的な手段となったのが茶です。彼らは、日常の飲み物であった台湾茶を取り上げ、そのありかたを洗練させました。(※注2) 同時に、飲む人間自らが淹れるという行動に精神的な価値を付加しました。それが茶芸です。(※注3)
 1980年代以降、台湾茶芸は香港や中国へ波及していき、とくに近年は盛んなようです。ほうぼうに台湾式の茶芸を売り物にする「茶芸館」ができていますが、これは「身を労」して「いい」茶を淹れるというものめずらしさも手伝った流行である側面もあるのではないかと、私は思っています。



※注1
 『孟子』「縢文公 巻三上」。
 「大人の事あり。小人の事あり。(略)或るものは心を労し、或るものは力を労す。(略)心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を食(やしな)い、人を治むる者は人に食(やしな)わるるは、天下の通義なり」(金谷治氏の訓読による。『孟子』上下、朝日新聞社、1978年、上巻191−192頁)
※注2
 彼等は茶器もあらたに作りました。急須(朱色のほか紫色などもあります)や茶缶は以前から存在するものですが、聞香杯と品杯はあらたに作り出されたものです。また、ピッチャーは紅茶から取り入れたものです。写真には写っていませんが、茶托も用います。これは日本茶から。
※注3
 また1970年代は、台湾政府が茶業振興のために政策的なてこ入れを行っていました。当時、経済成長につれて台湾茶業の製造コストが上昇し、国際市場で大陸茶業に押され始めていました。それまでの台湾茶業はおもに輸出専門で、国内の市場は小さいものでした。頼みの輸出が先細りになってきて、国内の需要を喚起する必要があったのです。
 茶農家へのさまざまな援助や茶製法の改良がこの時期に行われています。現在の台湾茶の代表的な銘柄である凍頂烏龍茶や木柵鉄観音は、この時期に生まれました。この時代の台湾は、いわば官民一体で「お茶を飲もう」キャンペーンがはられた観があります。
(2003/2)

 

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