中国茶筆記 茶は飲む人間の精神を刺激します。この点、酒も同じです。ではどう違うのでしょうか。 中国人はしばしば、茶と酒の違いを、こんなふうに説きます。 “酒はややもすると精神を興奮させ、怒りや悲しみなどの激情をもたらす。はなはだしき場合には不快を催して吐瀉に及ぶ。しかしながら茶を飲めば身は爽快、精神はいよいよ覚醒するのみ” 体質的にカフェインに弱い人には通用しない理屈ではありますが、たしかに両者の性格の差を端的に物語っているといえます。 “酒は英雄の胆を壮んにし、茶は学士の文を引く”。中国のことわざです。 茶は、ひとりで、あるいは気の合う友人たちと、静かに味わいを楽しむものだとされているようです。不快ではなく爽快になるために、あるいは興奮ではなく覚醒するため。 中国では、ひとことで言って酒は非日常、茶は日常の飲み物だと区別できるでしょう。公と私と言い換えてもいいし、あるいは日本式にハレとケと言っても良いと思います。 たとえば中国人にとっての宴会というのは伝統的に公の機会、ハレの席です。だから酒が出ます。 だが中国の宴会とは、それだけではなく、本来、政敵を乾杯につぐ乾杯の嵐で酔いつぶさせるためにあります。本音を引き出すためです。さらに、公の場所で酒に酔った挙げ句の醜態をさらさせるため。これは社会的地位のある中国人にとって致命的な失態とされています。 中国で製作された『三国志』のテレビドラマで、曹操が劉備にしきりに乾杯を強いるシーンがありました。(「今、天下の英雄は君と私だけだ」と曹操がいい、劉備が驚いて箸を落とす、あの場面です。) これは、いま述べたすべてを狙っての強制でしょう。 さらにこんにちでは、宴会は、商売相手の理性や判断力を鈍らせ、自分に有利な条件を呑ませる機会でもあるようです。これは、谷崎光著『中国てなもんや商社』(新潮社・1996年2月)が見事に活写するとおりです。 こうしてみれば、昔も今も中国の宴会では茶が出ないのはそういうことかと、納得が行くではありませんか。 中国文学研究の泰斗吉川幸次郎氏に、「唐詩は酒、宋詩は茶」と、両者の特徴を一言で言い表した評があります。前者を彩るのは激烈な感情、後者は平静な理性の産物であるという意味です。 “絶望すべきかに見える人生から、いかにして希望を引き出すか、この葛藤が、唐詩の緊張を生んだともいえる。人生を希望あるものとして見たいという宿題を、唐人は感じつつも、宿題を解決する時期に達せず、解決に達しない故に、多くの熱情の言葉を、唐人は吐いたといえる。/ この宿題を解決したのが、宋の詩人たちである。宋人の詩を通観して、まず感ぜられるのは、悲哀の詩の少ないことである。あるいは悲哀を歌っても、なにがしかの希望を残す。絶望ではない。宋人の多角な目は、人生は悲哀だけではないことを、はっきり感ずるに至ったのである。哲学によって、それをたしかめたばあいは、信念ともなる” (吉川幸次郎『宋詩概説』、岩波書店、1962年10月、35頁) 宋代(960-1279)の詩は、「議論を以て詩と為す」あるいは「理を以て詩と為す」点に特徴があるとされています。 吉川氏の評に引っかけていうわけではありませんが、宋詩には茶がしばしば詠まれます。これは偶然ではないでしょう。 例として宋詩を一首、紹介します。 黄庭堅 「小竜団及び半挺を以て無咎に贈り詩を并す。前韻を用いて戯れを為す」 我れ玄圭と蒼璧を持し 暗を以て人に投ずるも 渠 識らざらん 城南の窮巷に佳人有り 賓郎を索めず 常に晏食す 赤銅の茗碗 雨班班たり 銀粟 光を翻して 解く破顔せしむ 上には竜文有り 下には棋局 嚢を探って君に贈る 諾 已に宿めす 此の物 已に是れ元豊の春 先皇の聖功 玉燭を調う 晁子 胸中に典礼を開き 平生 自ら期す しんと渭とを 故に用て君が磊隗たる胸に澆ぎ 鬢毛をして雪に相似せしむる莫かれ 曲几 団蒲 湯を煮るを聴けば 煎じて車声の羊腸を繞るを成さん 鶏蘇 胡麻 渇羌を留むるも 応に我が官焙の香ばしきを乱さざるべし 肥えて匏壺の如く 鼻 雷吼す 幸いに君 此を飲み 酒を飲むこと勿かれ (大野修作氏の訓読による。山本和義ほか著『鑑賞中国の古典22 宋代詩詞』 角川書店、1988年2月、104-105頁) 茶には、飲む者をしみじみとした感傷や静かな観照に誘うという働きも、またあるようです。 台湾の作家白先勇の短編集『台北人』(晨鐘出版社、1973年)には、中華人民共和国の成立によって大陸各地から台湾に落ち延びてきた外省人(大陸出身者)の生活が、繊細な文体で描かれています。その中のひとつ「永遠的尹雪艶」に、年老いた上海人が、昔なじみのヒロイン(題の尹雪艶はこのヒロインの名前です)のサロンを訪れて、大陸で暮らしていた時のままの室内調度に囲まれて昔通りの時間を過ごす場面が描かれるのですが、そこで茶を飲む描写があります。 “「なあ、私の頭を見ておくれ。もうまっ白だ。オモトの葉なら、老いてますます若がえるというところなんだがなあ」 呉氏は、当時上海で銀行の頭取をしていた人で、(略)台北にやってきてからは引退して、今は鋼鉄工場の顧問におさまっていた。尹雪艶に会うと、彼はいつも彼女の手をとり、半分冗談とも自虐ともつかぬ口ぶりで、そういうのであった。呉頭取の頭は、確かにまっ白になってしまっていた。その上重いリューマチを患っていたので、足もとがおぼつかなく危なっかしい歩き方をしていた。目はトラホームを患っており、逆さまつげのためにいつも涙をためていた。目のまわりはただれはじめて、ピンク色の肉が見えていた。冬になると、尹雪艶は応接間の電気ストーブを呉頭取の足もとまで運んできて、自らの手で鉄観音を入れてやりながら、にっこり微笑んで言うのであった。 「とんでもない。お義父さまは、老いてますます盛んでいらっしゃいますわ」” (野間信幸訳、日本語訳名「永遠の輝き」、『発見と冒険の中国文学 6 バナナボート 台湾文学への招待』、1991年9月より) ついでながら、「自らの手で鉄観音を入れてやりながら」の原文は「親自奉上一ちゅう(皿に中)鉄観音」です。おそらくは台湾式の功夫茶器でではなく蓋碗でいれたのでしょう。ここは、大陸にいたころそのままの茶の飲み方をしたはずです。 筆者がこの作品において表現しようとした、台湾における外省人が持つ、デラシネの一種わびしさがひときわ漂っているようで、興味深く思えます。 (2002. 11. 26執筆、11. 27加筆)
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