中国茶筆記

円仁『入唐求法巡礼行記』に見える唐代の喫茶風俗


 竹内実氏の『中国喫茶詩話』(淡交社)は、中国歴代の文学作品に現れた茶の記載をまとめた書物ですが、そのなかで、『西遊記』に見える茶にまつわるエピソードが紹介されています(「2 飲食と茶」)。
「玄奘らの一行は、旅行中のことでもあり、途中で食事の供応を受ける場合があるが、そういうとき供応する側は、お茶とご飯を出す」(174頁)  竹内氏は例をいくつか挙げて、寺でも駅舎(宿屋)でも、「食事をする場合、いずれも『茶』と『斎(とき)』とがコースになっている」(同頁)と説明されています。(カッコは金谷による読みがな)
 いうまでもなく玄奘(紀元602-664)は唐時代のひとで、実在の人物です。また玄奘がインドへ仏教経典を探して旅をしたのも事実です。ただし、『西遊記』はあくまで小説で、もとは13世紀の南宋時代に盛り場で語られていた講釈をもとに、明代(16世紀?)に小説としてまとめられたものです。
 私がこの『西遊記』を面白いと思うのは、昔の中国で日常に行われていた喫茶風俗が具体的に描かれているからです。
 ただ、いま述べたことから容易に推察できるように、また竹内氏も上掲書で指摘されているとおり、この作品に描かれている風俗は基本的に唐代ではなく、宋代以後のそれです。

 唐代の茶風俗の史料は案外残っていません。とくに、当時の社会で茶がいかに飲まれていたかについての具体的な情景をしるした資料が不足しています。陸羽の『茶経』 は、評論あるいは論文とでも定義すべき内容であって、現実はどうなっているよりもこうあるべきだという理想を語るきらいがありますし、なによりも、著者が自分の茶の飲み方を記しているのです。だいいち、茶の専門家の茶と日常一般庶民の茶はおのずからことなるでしょう。
 ひとことで言って、唐代の文献量自体がすくないのです。時代が古く、散逸したものが多いせいもありますが、茶に関して言えば、この種の話柄を記録できるジャンルの形式が未発達だったという理由が大きいでしょう。
 中国には「筆記」という文学の1ジャンルがあります。著者がさまざまな古今の事実やみずから見聞した事柄を記録するものです。中国では歴代、この筆記が大量に書かれ、後世の研究者にとっては各時代の世態風俗を調べる上での貴重な情報源となっているのですが、唐代はこれがまだ少ないのです。
 詩と小説も、筆記と同じく中国の社会史研究の史料の宝庫です。唐代は詩の時代といわれています。そのなかに茶を詠んだ詩はいくつもあります。しかし、中国の古典詩の持つ韻の規則、字数の制限、さらには修辞的効果を優先する傾向によって、実景を正確に描写しているとはいえないところがあります。さらにここでもいえることですが、後代と比較すればやはり、唐代の詩は量的に言えば少ないのです。清代に編纂された『全唐詩』が唐代の詩を網羅していますが、そこに収録されている詩は約4万8900首あまりです。(そのほか、日本の市河寛斎の『全唐詩補』に完全なものが約60首収められています。)次代の宋(北宋・南宋)は、約300年という唐とほぼ同じ長さでありながら、その詩は現存するだけで数十万首にのぼります(吉川幸次郎『宋詩概説』、岩波書店による)。小説は、元来「小さな ― ささいなという意味 ― 説」の意味で、この時代はまだ内容的に筆記と同じようなものでした。novelの意味を示すようになり、独立の文学形式となって発達するのは唐朝の終わりごろからです。

 そんななか、日本人で唐代の喫茶風俗を書き残した人物がいます。天台宗の僧侶円仁(慈覚大師・794-864)とその旅行記『入唐求法巡礼行記』です。これは、円仁が遣唐使の一員(請益僧)として紀元838年に唐代の中国にわたり、847年に帰国するまでの当時の中国の各地を巡った日記体の記録です。古代中国語、すなわち漢文で書かれています。
 このひとは一種の記録魔で、その克明さは、起きているときはたえず書いていたのではないかと思えるほどです。目にはいる周囲のものごとや、自分が何をいい、何をしたかを片っ端から書きとめているようにさえみえます。その結果、『入唐求法巡礼行記』という旅行記は、「円仁自身の求法経験と唐代の仏教事情のみならず,日唐関係とりわけ遣唐使の具体相を知るためにも,また当時の沿海新羅人,唐の地理・交通・経済・社会・習俗から末端の行政組織について研究する場合にも,根本史料として重要である」(『世界大百科事典 第2版』DVD版 「入唐求法巡礼行記」項 砺波護執筆)ということになりました。さきほど私が用いた“記録魔”という評も、砺波氏の言葉を借りたものです。
 これほど几帳面な円仁ですから、自分が何を食べ、飲んだかはもちろん書き残しています。そのなかに茶の記事も出てくるのです。従来、中国茶関係の書籍ではあまり言及されていないようなので紹介することにします。

1.838年(開成3)10月18日部分。
 揚州大都督李徳裕(787 - 849。のち宰相。『新唐書』第一八〇に伝あり)が部下を率いて当時円仁が滞在していた開元寺を訪れた記事があります。円仁は一行が茶を喫している建物へ招かれ、ともに茶を喫します。
「使と共に往いて閣上に上る。相公(金谷注。李徳裕のこと)及び監軍並びに州の郎中、郎官、判官等(金谷注。すべて官職名)は皆椅子上にて茶を喫す。僧等の来るを見て皆起立し、作手立礼して且つ坐せと唱う。即ち倶に椅子に坐して茶を啜る。相公一人、随い来る郎中以下判官以上惣べて八人なり」(円仁著 足立喜六訳注 塩入良道補注 『入唐求法巡礼行記』1、平凡社、66頁。以下の引用はこの書(全2巻)による)
 このあと、円仁は李徳裕と交わした言葉を詳細に書き記すほか、李徳裕とその随従の人々が着ていた服の色まで記録しています。
 ところで、中国でイスを用いる習俗が確立するのは唐代だとされています。それまでは日本と同じく、直かに床の上に座っていました。イスはもともと塞外の異民族の風で、中国に入ってきたのは後漢末期から魏晋時代だと言われています。しかも、唐代ではイスを縄床というのが普通で、椅子という語は宋代になってから使われるとされています。この箇所は、唐代で既に椅子という言葉が使われていたという証言です。  

2.839年(開成4)3月23日部分。
 円仁が現地で世話になる人物のひとりに新羅人の劉慎言という訳語(通訳)がいます。実は、円仁は仏教を長期に学ぶ留学僧(請益僧)として唐へ渡ったにもかかわらず、滞在の許可がおりませんでした。そこで円仁は帰国する遣唐使一行から離れて、残留する意志を固めます。当時の外国僧の中国滞在には勅許が必要で、この規則を無視することは単なる密入国者というだけではなく、おおげさにいえば反逆者になるくらいの罪の重さになりました。勇気も必要でした。他の人間には当然知られてはなりませんし、うかつに他人に知らせると、その人間にも災難がおよびます。円仁は、信用できるごく少数の人々を除き、自分の計画を極秘にし、表向きは遣唐使一行とともに帰国する風を装います。  一行の帰国のまえに、中国側から餞別の品々が届けられます。円仁にもです。
「劉慎言は、細茶十斤、松脯を贈り来たって請益僧に与う」(1、128頁)
 塩入氏は細茶は「新芽の上茶」であると注しています。松脯とは足立氏の注で「五葉松の実の乾かしたもの」とあります。現在の中国ではお茶うけとして松の実がよく用いられますが、この時代すでにそうだったことが分かります。ちなみに、唐代の茶は団茶・餅茶あるいは末茶が主だったとされていますが、現在の葉茶(散茶)も存在はしていました(やはり碓でひいて粉にして飲んだようですが)。もしこれが注のとおり芽茶の意味であるとすれば、団茶ではなく形状としては散茶だったかもしれません。唐代では「芽茶」は散茶を指しました(陳宗懋主編『中国茶葉大辞典』中国軽工業出版社「芽茶」項、217-218頁)。重さが「串」ではなく、「斤」であることもその可能性を強めます(下記「4.845年(会昌5)5月15日部分」参照)。

3.840年(開成5)8月2日部分。
 円仁は在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功し、各地の仏教霊山や名僧碩学を訪ねる旅に出発します。旅を続けるにあたって宿泊したのは僧坊はもちろんですが、各地に設けられた駅舎(公設の旅館)に足を留める場合もまたありました。この点、『西遊記』の玄奘と同じです。さらに、信心熱い庶民の家に宿や食事を布施されることもしばしばでした。彼ら在家の信者たちは円仁にたいして手厚くもてなしたのです。
「早朝、何押衙(金谷注。押衙は下級官人の職名)の宅に到り茶語す。押衙は断中(金谷注。食事のこと)を設けたり」(2、103頁)

4.845年(会昌5)5月15日部分。
 中国仏教史において、この年は重要な事件の起こった年として有名です。中国の歴史上、仏教はしばしば迫害されました。そのなかでも大規模なものが4回あり、後世「三武一宗の法難」と称せられています。時の皇帝の名前を取ったものです(北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗)。円仁が遭遇したのは3番目の武宗のそれで、「会昌の法難」とも言われます。仏教弾圧の理由は各時代によってさまざまですが、この時は、宮廷内での道教徒との勢力争いに破れたことが大きいようです。そのほか、巨大になりすぎて国家財政を圧迫するに至った仏教寺院所有の荘園をなくすという経済的な目的もありました。
 この会昌の法難では全土の寺院は破却のうえ財産没収となり、僧尼は身体を拘束されたうえで還俗を命じられました。外国人は対象外だったのですが、長安=京兆府にいた円仁も行動の自由を奪われます。ここで不法滞在の憾みが現れました。所轄の官庁に正規の僧として登録されていないため、私度僧として還俗させられる憂き目を見ることになるのです。さらに彼は日本へ強制送還されることになりました。 5月15日はその送還の日です。
「府を出て万年県に到る。(略)楊敬之は曾て御史中丞(塩入注。司法省次官)に任ぜり。専使(塩入注。特命の使者)をして来たり、何日城を出ずるか、何路を取って去くかを問わしむ。兼ねて団茶一串を賜る」(259頁)
 楊敬之は『新唐書』第一六〇に伝が立てられています。彼がわざわ使いを送って円仁を見舞ったのは、職掌もあったでしょうが、円仁個人も同時に気遣ったのでしょう。さもなければ餞別を贈るはずがありません。平素から面識があったとおもわれます。『入唐求法巡礼行記』からも充分うかがえることですが、円仁は篤実で真摯な人柄でした。楊敬之は円仁を敬愛していたのでしょう。
 団茶とは茶葉をつき固めて固形状にしたものです。必要量を削り、粉末にして使います。おもしろいのは数えるのに“串”という字を用いているところです。“串”とは元来差し連ねる、あるいはその形状のものを指す言葉です。銭一貫とむかし言いましたが、この貫は串と同じです。おそらくこの団茶は数個を数珠のようにつないであったと思われます。あるいは、現在の雲南七子餅茶のように数個を紐で束ねてひとかたまりとしてあったのかもしれません。円仁は団茶を数えるときには何串と記述しています。

5.845年(会昌5)5月15日部分。
 同じ日に楊敬之はふたたび使者をたてて円仁に手紙を送ります。楊は、円仁から護送のコースを聞いて、先々の州県の面識のある官人に手紙を送り、円仁の待遇に配慮してくれるよう頼んでくれたのでした。手紙はそのことを知らせる内容です。例によって円仁は全文を写し取っています。
 円仁の帰国を悲しんだ人は楊敬之だけではありません。楊魯士という人物は、息子に手紙を持たせて円仁のもとへやると同時に、多額のお金を円仁にはなむけとして渡しました。銭両貫文(2000文)という額です。絹二疋(約25メートル)もありました。絹も当時は通貨として通用していました。はるかに遠い沿岸地域まで旅を続けなければならない円仁にとって、涙が出るほど有り難かったでしょう。
 楊魯士は品物も贈りました。その中にお茶が含まれています。
「郎君(足立注。令息)をして書を将ち来たらしめ、路に送るに、絹二疋、蒙頂茶二斤、団茶一串、銭両貫文」(260頁)
 ここに蒙頂茶という名が出てくることにいまさらながら驚きます。蒙頂茶は、四川省の蒙山で栽培生産される茶の総称で、一説では遠く前漢時代から存在するとされる茶です。現在の蒙頂甘露はこの伝説にちなみ、前漢宣帝時代の年号である甘露(紀元前53 - 50)を取って名づけられたものです。また別の説によれば後漢時代には「聖揚花」「吉祥蕊」という名で土地の長官へ献上されていました(陳宗懋主編『中国茶経』上海文化出版社、「蒙頂茶」項の記載による)。唐代以降、清朝にいたるまでの1000年以上、貢茶でありつづけました。蒙頂茶のなかには唐代においてすでに散茶(葉茶)の形態をとっていたものがあり、ここで団茶と区別されているのはそのためと思われます。いずれにせよ、現行の中国茶銘柄の多くが、中国で葉茶製法が主流になって以後(14世紀)に出現したものであることを考えれば、驚くべく長い歴史を有する茶です。
 ですから円仁の記録に蒙頂茶が出てきても不思議ではないのですが、このように史料のなかで事実としてあらためて確認すると、やはり驚かざるをえません。
 蒙頂茶は、唐代にはすでに名茶としての地位を確立していました。同じ唐代の黎陽王という人物は、「人間第一の茶」と激賞しています。  日本人にもなじみの深い白居易(772 - 846)も、この茶を好みました。彼は「琴茶」という詩でこの茶を頌えています。

    琴茶              琴と茶と
兀兀寄形群動内    兀兀として形を寄す群動の内
陶陶任性一生間    陶陶として性に任す一生の間
自抛官后春多夢    官を抛ちてより後の春は夢みること多く
不讀書不老更閑    書を読まず老いずして更に閑かなり
琴里知聞唯ろく水    琴里の知聞は唯だろく水(金谷注)
茶中故舊是蒙山    茶中の故旧は是れ蒙山
窮通行止常相伴    窮通行止に常に相伴うに
難道吾今無往還    難ぞ道わん吾に今往還なしと

  注。「ろく水」は当時有名な琴の曲名。「ろく」はさんずいに録のつくり。

6.845年(会昌5)7月9日部分。
 送還の手順は長安から沿岸地域までまず行き、そこから船に乗って日本へ追放というものでした。経路の指定は中国側が行いますが、道中の費用や食事の調達はすべて自弁でという過酷なものでした。円仁は、入唐時に世話になり知人も多い新羅人居留地のある楚州へいき、そこから船便を手配したいと希望し、一旦は楚州へ送られますが、結局その願いは拒否され、はるか北の登州へ護送されて文登県から船を探して帰国することになります。引用するのは楚州を出て直後、登州へ向かう際です。円仁はこの地の長官に面会して同地滞在を懇願します。
「仍ち状を作り県に入り長官を見て(略)舩を覓めて帰国せんことを請う。長官は相見て哀恤し、祗承人(塩入注。側近)を喚んで処分し、茶飯を勾当(金谷注。手配すること)して飲食せしめ、且つ将いて長官に見えしむ」(281頁)
 茶飯とは文字通りお茶とご飯ですが、二字で飲食物の意味です。ご飯をながしこむ水代わりの程度のお茶だったのでしょう。中国は昔も今も、基本的に生水がのめません。硬水だからです。一旦沸かさなければなりませんが、熱い湯は独特の臭いがします。中国における茶のもっとも本来的な使用法は、この湯の臭みを消すところにあるのではないでしょうか。

7.845年(会昌5)8月16日部分。
 とうとう最終目的地、登州に到着します。楚州を出発してのち、道は難路つづきで、しかもそこに住む人の心はすさんでいました。土地の貧しさによるのでしょう。困難な旅のせいか、あるいは自らに関係のない政治的状況の変化のために心ならずも唐から追放される理不尽にたいする怒りのせいでしょうか、円仁の周囲を眺める眼差しは険しくなっていきます。
「路次の州県は但野中の一堆(塩入注。丘)に似たり。山村の県人のさん物(足立注。たべもの。金谷注。“さん”は、にすいに食)は麁硬にして、愛んで塩茶、粟飯を喫らう。渋くして呑するも入らず」(284頁)
  道行く途中で通過する州や県は、まるで広い野原のなかに盛り上がった土のかたまりのようにしか見えない。山の中の村の食物は粗末でしかも硬い。塩を入れた茶と黒米の飯などを喜んで食っている。渋くて、飲み込もうとしても喉を通らない。
 この旅行記を通観すると、円仁は平素食事の美味い不味いをあまり云々していません。さらにいえば僧侶だから粗食で当然でもあります。それが、まずしいながらも何とか食べ物を用意してくれた村人への感謝すら忘れて悪口を書いています。これは相当です。
 円仁には同情しますが、その渋くして呑するも入らなかった食事の記録が、後世の私たちにとっては貴重な情報をもたらしてくれています。前にも述べましたが(爽爽筆記第3回)、唐代までは茶にいろいろな混ぜものをして飲んでいました。陸羽が『茶経』のなかでそれをやめろと力説しつつも塩だけは認めていたこともその時に触れました。貧乏だから塩ぐらいしか茶に入れられないのだと怒る円仁の記述から、その実例をはしなくも見ることができるのです。

 『入唐求法巡礼行記』は中国でも印刷出版されています。たとえば今、手元に上海古籍出版社の活字本があります(1986年8月刊)。唐代社会の貴重な証言としてかの地でも評価されているのでしょう。

(2001.8. 6)

 

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