中国茶筆記

京都と中国茶 (その3・釜炒り茶から蒸し茶へ)

 日本で飲まれ始めた煎茶(葉茶)は、当初、釜炒り製法で作られた釜炒り茶でした。釜炒り茶とは、緑茶を作る過程で高温の釜のなかで茶葉を炒って発酵を止めるやりかたの茶です。中国の緑茶の製法です。京都へ出てきた売茶翁高遊外が売っていた煎茶も、この釜炒り製法で作られた茶でした。
 当時、この釜炒り茶は、新芽も成長した葉も一緒に、釜で炒ったり、あるいは鍋で煮たりしたあと、むしろの上で広げて手や足を使って揉むという、今日の感覚からみれば粗放といってもいい方法で作られていました。そのうえ仕上げの乾燥は天日でしたから、水色は赤身を帯びた茶色でした。こんな茶には、とうてい微妙な香りや味はなかったでしょう。
 売茶翁や文人たちがこの釜炒りの煎茶をこのみ、風流としてもてはやしたのは、なぜでしょうか。
 まさしく嗜好の領域に属する問題ですから、それが彼らは美味しいとおもったからといえばそれまでですが、しかし、別の解釈もできます。
 彼らが、すでに数百年の歴史をへて日本のものとなった抹茶よりも煎茶を好んだのは、煎茶に中国文化の象徴を感じたのかもしれません。いいかえれば、中国のものであるから美味しいと飲んでいたのかもしれないということです。つまり、彼らの煎茶好きは、彼らの中国文化に対する憧憬によるものという解釈です。
 当時の日本の知識人の、中国という国と中国文明への傾倒は驚くべきものがありました。 そして、これは、教養や学問のある人間ほどはなはだしかったのです。当時の教養とはすなわち中国の文化について学ぶことであり、学問とは孔子を教祖とする儒教を学ぶことでした。自然、中国を敬仰することになります。
  「中国のものだから旨いはずだ」
 そう思えないのは自分の味覚が洗練されていないせいであると、自らの舌のほうを茶の風味に適わせようとしたところがあったのではないでしょうか。他国崇拝は、自国と自国の文化と、そしてそのなかで育った自分への自信のなさとなります。
 今回の話の時期よりもすこし前になりますが、藤原惺窩(1561 - 1619)という人物は、「中国が日本に攻めてきて征服してくれれば良い」と公言していました。藤原惺窩は近世日本儒学の祖とされる人物で、当時の日本で最高の知識人のひとりでした。

 このように、中国崇拝と日本文化への劣等感が主流の時代の雰囲気のなかで、「釜炒り茶はうまくない」と平然と言いはなった男がいました。宇治田原郷湯屋谷の茶業者、永谷宗七郎(三之丞・義弘。1681-1778)です。
 永谷宗七郎にも、高遊外と同様、肖像画が残っていますが、ピンとつり上がった眉に口をへの字に結んだ、いかにも自ら恃むところの堅そうな容貌です。  彼は、「永谷宗円」でのちの世に知られています。ここでもこの名前で呼ぶことにしましょう。
 永谷宗円は、日本で現在飲まれている、つまり蒸して発酵をとめる方式の煎茶を作り出した人物です。
 後で述べる、彼の考え出した新しい煎茶の製法から逆に類推して、永谷宗円は釜炒り茶の美味しくない理由は以下の点にあると考えたと思われます。
  ・やわらかな新芽と成長しきった葉を混ぜるから味が大振りになる。原料を新芽に限れば、もっと味は繊細さを増すはずだ。
  ・太陽の下で干すから葉がやけて風味が落ちる。これをやめて別な方法で乾かすべきである。
 彼の編み出した煎茶の製法はつぎのようなものでした。
  「新芽だけを蒸し、焙炉のうえで揉みながら乾燥させる」
 新芽だけを蒸して焙炉のうえで乾かすのは、抹茶のもととなる碾茶の製法です。いっぽう、揉むのは葉茶(釜炒り茶)の製法であり、永谷宗円は、日本伝統の抹茶と新来の中国茶を融合させた新しい煎茶を作り出したことになります。
 あたらしい蒸し製法の煎茶は、水色はもはや赤黒くはなく、薄緑、釜炒り茶にはない日本人ごのみの香りを漂わせ、さらには抹茶の苦みと渋みにくわえてほのかな甘さをもあわせ持つものとなりました。現在私たちが飲む日本の煎茶の誕生です。

 永谷宗円は製茶の専門家です。茶を作ることじたいは驚くべきことではありません。
 驚くべきは、永谷宗円という人物が、自分の感覚と判断を信じて、中国崇拝の時勢に随順せず、臆することがなかった点です。
  「抹茶は蒸して葉の発酵を止める。日本では長年この蒸して作られる抹茶が飲まれてきた。葉茶も、蒸した方が日本人の味覚に向いた茶になるはずだ」
 日本の蒸し煎茶の発明者という名誉以上に、この時代にこう考ええた一点だけでも彼は尋常な人物ではないと言ってよいかと思います。
 このあたらしい茶に、永谷宗円は、“梨蒸青製煎茶”という名をつけました。
 永谷宗円がこの梨蒸青製煎茶を作り出したのは元文3年(1738)のことです。当時、高遊外はすでに上京し、京都で売茶稼業をはじめていました。
 梨蒸青製煎茶の評判を耳にした高遊外が宇治田原の永谷宗円のもとを訪れるのは、寛保2年(1742)の初夏のある日だったそうです。
 この茶を試飲した高遊外は、「天下第一の茶である」と激賞しました。
 私は実物を見ていませんが、『永谷伊八家旧記』という古文書に、この時の高遊外の言葉が記録されているとのことです。
  「奇なるかな。妙なるかな。初めて試むるに美艶清香の極品にして、何ぞ天下に比するものあらんや」(『煎茶入門』(主婦の友社編、主婦の友社、1990年)からの引用。同書13ページ。)
  「奇なるかな」「妙なるかな」という高遊外の嘆賞の言葉は、茶の風味だけでなく、茶を作り出した永谷宗円という人間へ向けられたものでもあったでしょう。
 これ以後、高遊外は、釜炒り茶をやめ、永谷宗円の蒸し茶を売りひろめたと言われています。

 永谷宗円の発明した蒸し煎茶は江戸の茶商山本嘉兵衛(山本山主人)によって大々的に売り出され、大変な評判となりました。蒸し製法は、やがて宇治から周辺地域へひろまり、全国で蒸し製法の煎茶がつくられるようになりました。
 こうして日本の煎茶は、中国から伝来したもとの釜炒り茶から日本独自の蒸し茶へと変わったのです。   

(2000.12.18)

 

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