中国茶筆記 もうすぐ新年ですね。まだまだ寒い日が続いており、春が来るのはまだ先のようですが、旧暦一月(現在の十一月〜十二月)はすでに春とされています。第1回目の今回は、茶と春にちなんだ話をしましょう。 山鳥あり。色は蒼く、正・二月に至る毎に声を作す。春起ればなり。三月に至りて止む。春去ればなり。采茶人、呼びて報春鳥と為す。采茶人の“采”は採と同じ、つまりお茶を摘む人のことです。おそらく、茶葉を摘む人だけでなく製品としての茶を作る職人さんたちも指しているのでしょう。 この顧渚山に広がる茶畑で茶を摘む人々は、この鳥の鳴き声で春の訪れを知ったのでしょう。同時に、この鳥には茶の葉を摘むべき時期を告げる意味もあったにちがいません。 顧渚山といえば「顧渚紫笋(こしょしじゅん)」という有名な緑茶の産地ですが、この茶は茶木の若芽のみを用いて作るお茶です。顧渚紫笋は、非常に歴史の古い茶です。とくに、唐代には清明節(旧暦三月の節句、現在の四月上旬)前に摘んだ葉で作るものは「貢茶」とされ、皇帝が清明節の日に祖先の廟にそなえ、また自身で喫する茶として献上されるしきたりになっていました。 さきにも触れましたが、顧渚山は浙江省にあります。ここから唐の都長安までははるかに離れています。記録によれば、貢茶は清明節の十日前に特別の早馬に載せられて顧渚山を出発したそうです。ということは、それ以前には製茶作業を終えていまければなりません。茶摘みはさらにその前ということになります。 つまり顧渚山の茶摘み人と茶職人の人たちは、まさに春たけなわの時期をひたすら献上茶作りに打ちこまなければならかったことになります。彼らにとっては春の野山が息吹く緑の風景も、春ゆえの楽しい行事も無縁だったでしょう。わずかに、報春鳥の鳴き声だけが慰めだったかもしれません。 (ちなみに、顧渚紫笋は清代以降衰え、一度生産が中絶しています。現在の顧渚紫笋は1970年代末になってから伝統的技法によって再興されたものです。) (1999.12.21)
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