東瀛書評

 『原子論の歴史 (上下)』 
(板倉聖宣著、仮説社 2004年4月)

1.
  下巻最終章「原子論の最後の最後の勝利」を、著者は『ファインマン物理学 T 力学』の言葉を借りて終えている。

 “もしもいま何か大異変が起こって、科学的知識が全部なくなっていまい、たった一つの文章だけしか次の時代の生物に伝えられないということになったら、最小の語数で最大の情報を与えるのはどんなことだろうか。私の考えでは、それは原子仮説(原子事実、その他、好きな名前でよんでよい)だろうと思う。すなわち、すべてのものはアトム――永久に動きまわっている小さな粒で、近い距離では互いに引き合うが、あまり近付くと互いに反撥する――からできている、というのである。これに少しの洞察と思考とを加えるならば、この文のなかに、我々の自然界に関して実に膨大な情報量が含まれていることがわかる” (149−150頁)

  「自然界に関して重大な情報量」を含む原子論とは、自然界に関する情報(法則)を追究する物理学の、根本をなす知識だということであろう。
  ところがそれほどまでに大切な原子論について、古代ギリシアでデモクリトスによって唱えられたあと、通説では、「大きさがある以上さらに分けられるはずであるからアトムなどありえない」、「真空、つまりものが全くない場所などありえない」というアリストテレスの強硬な反対によって衰微したとされてきたらしい。試みに平凡社DVDーROM版『世界大百科事典 第二版』で「原子論」(村上陽一郎執筆)の項目をひいてみると、

  “デモクリトスの原子論はすでに述べた真空の容認という点でも,また還元主義の背後にある徹底した唯物論という点でも,ギリシアでは受け入れられがたかった。プラトン,アリストテレスはともにデモクリトスを厳しく批判している。したがって,古代世界のなかで,デモクリトスの原子論を継承したのは,快楽主義者として知られるエピクロスと,そのエピクロス礼賛の頌歌を書いたローマの詩人ルクレティウスを除くと,ほとんど皆無だったといえる”

 云々と、書いてある。
 しかし、 この書によれば事実は反対である。アリストテレス以後の逍遥学派はエピクロス同様に“軽さ”の概念を否定して浮力の考え方を認めたことにより原子論の立場に近付き、古代ローマにいたってはアスクレピアデスが医学の分野において原子論に基づいて活動し、ストア学派に属するキケロが「エピクロス学派がなぜこれほどに多いのか」と嘆じセネカが著書『自然研究』でデモクリトスを「古代のすべての学者のなかで最も鋭敏」と称え、マルクス・アウレリウス帝はエピクロス学派を保護し、文学ではルクレティウスのほかにヴェルギリウス、ホラティウス、タキトゥス、ルキアノスが原子論者もしくは原子論的立場から作品を書いている。つまりヨーロッパ古代いっぱい、原子論は存続した。
  『原子論の歴史』上巻は、ヨーロッパにおける古代の終焉・中世の開幕までが扱われている。ローマ時代を通じて栄えた原子論の息の根を止めたのは神の存在を説くキリスト教だったというのが著者の結論である。「この世のものはすべてそれ以上分けられないもの(アトム)と真空からできている」という原子論は、つまりは徹底した無神論だったからである。

2.
 “古代の原子論は中世にはずっと忘れられたままでした。「中世」は、原子論にとってまったくの「暗黒時代」だったのです” (下巻第9章「ルネサンスと原子論の復活」 12頁)

  古代ギリシア・ローマの知的遺産が中世期においてはアラビア(イスラム)世界に引き継がれたことは学校教育で使う世界史の教科書にも書いてある。だが、中世から現代までを扱う下巻で、中世期に関してひとつ教えられたことがある(もちろんひとつだけにとどまらないのだがそれはさておく)。イスラム世界はギリシア・ローマの科学を根本において理解していなかったということである。イスラム帝国時代における科学水準は、それほど高く評価すべきではないらしい。
  イスラム教の科学者たちは原子論にほとんど興味を持たなかったと、板倉氏は書いている。

 キリスト教と同じ一神教のイスラム教からすると、無神論に帰結する原子論には興味をもち得なかったのかもしれません” (同、11−12頁)

  納得できる説明である。しかしここでは原因は重要ではない。重要なのは興味を持たなかったという結果である。

  “アラビアの学者たちはアルキメデスの研究を受け継いで、さまざまな物質の比重を測定していました。しかし、彼らは、もともと原子論的だった〈浮力の概念〉には興味をもちませんでした。/古代の原子論者たちは、「水の中でも物体の重さは変わらない。しかし、まわりの水がその物体を浮き上がらせる力=浮力を及ぼすので、軽くなったようにみえるのだ」と考えました。アルキメデスはその考えを受け継いで、浮力の法則を発見したのです。それなのに、アラビアの学者たちは、「水中にある物体は本当に軽くなる」と考えました。そして、その〈軽くなりかた〉を計算するためにだけ、(アルキメデスの法則)を使ったのです” (同、11頁)

  この板倉氏の記述から受けるイスラム科学の印象は、科学というより応用技術である。
  バーナード・ルイス著『イスラム世界はなぜ没落したか? 西洋近代と中東』(「書籍之海 漂流記」2003年10月15日欄)に、イスラム世界を「精密に空間・時間を認識する習慣のない文化」という形容がある。この形容は、イスラム世界とは精密に空間・時間を認識する習慣がなくても構わない程度の科学――あるいは技術――しかない世界であると言い換えてもよいのではないか。
  バーナード・ルイスの言葉を念頭に置きつつ板倉氏のこのくだりを読んで、素人ながら、原子論への無理解(そして理解しようとする姿勢の欠如)は、イスラム科学の発展にとって致命的な足枷となったのではなかろうかと思った。すべての原子には重さがある、ということはすべての物には重さがある、つまり“軽さ”というものは存在しないということであって、軽く感じるのは浮力が働いた結果であること、そして“軽さ”を認めるのは浮力の概念を認めないだけでなく、原子の質量は不変という原子論の根本的な立脚点を理解していなかったということになる。原理を知らずして理論的な演繹はできない。つまり仮説が立てられない。仮説なしに科学は発展しないだろう。板倉氏はまた、原子論への無理解はイスラム世界の科学者に力学的発想の不在をもたらしたと言われるのだが、力学は科学の根幹をなす分野である。
  私は、バーナード・ルイスの著書を取り上げた際に、「内容についてひとつ不満がある。この本はイスラムのテクノロジーがどうしてヨーロッパ史でいう“中世”の末期以後停滞したのかの疑問に答えていない」と書いた。そして「書籍之海 漂流記」10月19日の「追記」で、ある方の「仮説」として 「イスラム世界の停滞の原因は古代ギリシアの遺産をその精神において吸収することが出来なかったからではないか」というご意見があったとも、しるした。板倉氏の書は私のこの問いに答えている。それと同時に、この方のご意見がまさに正鵠を射たものであることを私に教えてくれた。

3.
  ある方から、ルネサンスとは古代ギリシア芸術・文化の復興というよりパクリといったほうが正確だという意見を伺った。このご意見を、科学に関して私の理解もまじえて敷衍すると、こういうことになろうか。
  ファインマンが『ファインマン物理学 T 力学』(「書籍之海 漂流記」2002年12月30日欄)で「観察と推理(仮説)と実験」と定義した科学的方法はギリシアにおいて確立され、ヨーロッパ中世においては忘却されていたものを、周知のごとくイスラム世界におけるアラビア語訳されたギリシア古典がラテン語に重訳されヨーロッパ世界に“逆輸入”されて、ルネサンスにつながっていくわけだが、ルネサンスにおける顕著な特徴とされる「人間理性の明証性への信頼」(平凡社『世界大百科事典 第二版』DVD−ROM版、樺山紘一執筆「ルネサンス」)は、ルネサンス人の独創ではなく、ギリシアのそれをそのまま蘇らせただけのものである。ギリシア人が、聖なる経典がそう告げているから正しいのではなく、公理から出発して定理に至る過程が誰でも認めるしかない方法で証明されているから正しいという学問の手法を確立した。ルネサンス時代のヨーロッパ人は「人間理性の明証性への信頼」とこのつまりは科学的方法とを再発見し、忠実に復活させただけにすぎない。
  デモクリトスの原子論はギリシア哲学が重視する自然観察から生まれてきたものである。 ルネサンス時代のヨーロッパ人は、この自然観察重視の姿勢をも復活させた。

  “「〈自然や社会の現象のうち最も根元的な問題〉を、やたらに神様のせいにしないで理解しようとする学問」のことを「哲学」といいます。(略)哲学という学問は、世界で最初に古代ギリシアで生まれたのです。じつは、「科学」というのは、こういう「哲学」があってはじめて生まれることができたのです。(略)何でも〈神様のしわざ)とすることをやめてはじめて、自然現象の本当のすがたや原因と結果を調べることが始まるからです” (上巻、18頁)  

  この“調べる”には、自然観察から組み立てた自分の仮説に基づき再び自然において実験してその当否を確かめることも含まれているがゆえに、ギリシアの哲学者のなかから科学者が生まれてきたということだろう。(注)
 
  注・もし私のこの理解が正しければ、このことで同時期の古代中国で興った諸子百家の「哲学」がなぜ科学を生み出さなかったのかについても説明できる。漢代に入って衰滅した墨家を除き、彼らに共通する特徴は自然観察の軽視である(というより自分を取り巻く外界に対する関心が薄い。彼らの言語における粗雑で不正確な客観的事物描写からそれは明らかである)。実験を行って自説の検証を行う姿勢も、またなかった。彼らの言説がきわめて抽象的・主観的に傾き、悪く言えば独りよがりの屁理屈とおのれ一個にしか通用しない単なる信念の表明にすぎないものが多いのは、そのせいではないか。

  こうして原子論が復活する。
  もっとも中世後期においてアリストテレスをキリスト教に都合のよい部分だけ取り入れたように、最初のうちは原子論もキリスト教の教義と神の存在を否定しない――より正しくは補強しようという意図に添う――部分を取り入れることが目指されたらしい。板倉氏はイタリアのヴァッラという人物(パヴィア大学の雄弁術教授)の『快楽について(真の善について)』という著書(1431年)の一節を紹介している。

  “キリスト教徒が目指す来世の幸福もまた、一種の快楽である。それゆえ、エピクロス派はストア派よりも目標にいっそう接近していると言える。美徳ではなくして、快楽こそが望まれるべきである” (下巻15頁)

  あるいは、ヴァッラの著書の出た9年後にはニコラウス・クサヌス(ドイツの神学者)のように、従来のキリスト教神学におけるアリストテレス的論法で原子論を否定しようとする動きもあったことを、板倉氏は指摘する。

  “原子と空虚に関するエピクロス学派の見解は、神を否定し、全ての原理を粉砕する体のものである。しかし、これとてもピュタゴラス学派や逍遥(アリストテレス)学派の人たちが成し遂げた数学的証明によって消滅したのではなかったか。明らかに、エピクロスの前提した原理、すなわち〈不可分で単純な原子〉への到達は不可能であろう” (下巻16頁、『学識ある無知について』からの引用)

  ニコラウス・クサヌスの著書の題は、彼の攻撃するエピクロス学派(原子論者)を指してのものだったのだろうか。いずれにせよ、“学識ある無知”が誰だったのかは後世から見れば明らかである。
  しかしその後世はなかなか来ない。

  “エラスムスはあらゆる信仰の敵、なかんずくキリストの不倶戴天の敵である。エピクロス、ルキアノスの徒輩の典型であり亀鑑である。わが愛しき息子ヨハンよ、われマルティン・ルターは、汝ならびに汝を通じてすべてのわが子、聖なるキリストの教会の子らに、自らの手をもってこの言葉を記す。この重要な忠言を胸裏深く刻め” (1543年、下巻20頁の引用による)  

  ルクレティウスのエピクロス主義つまり原子論を賛美する『宇宙をつくるものアトム(自然の事物について)』が、長らく写本で流布したのち1473年に活版印刷されさらに広く流通する。つづけて紹介されたルキアノスはエラスムスに『痴愚神礼賛』(1509年)を書かせ、ラブレーの『パンタグリュエル物語』(1532年)にも影響を及ぼす。さらにモンテーニュ『エセー』(1580年)にも原子論は大きな影響を与え、“アトム”という言葉はシェークスピアの作品(『ロミオとジュリエット』『お気に召すまま』『ヘンリー4世・第二部』、1599〜1600年)においてさえしばしば使われる。これらの事実を踏まえて著者は、アトム=原子という語は当時のフランス・英国で一般に広く知られ使われる言葉になっていたといえると言う。しかしこの同じ1600年に、コペルニクスのあとを受けて『無限、宇宙および諸世界について』(1584年)で地動説をさらに発展させたブルーノは異端審問所によって火あぶりの刑に処せられるのである。ブルーノは、原子の存在を認めてはいたが原子と原子を結びつけるのは「普遍的な霊魂の力」、すなわち神の領域であるとしていたから厳密な意味においては原子論者ではなかった。それにもかかわらずである。そしてアルキメデスの考え方を引き継いだ正真正銘の原子論者ガリレオ・ガリレイが、やはり地動説を唱えたことにより、幸いに殺されこそしなかったものの、やはり異端審問所によって沈黙を強いられた(1633年)。

4.
  “1700年代=18世紀に入ると、科学者たちは、宗教のことを心配せずに原子のことを考えて研究することができました” (下巻第11章「近代科学の確立以後の原子論」 79頁)  

  ブルーノが火あぶりの刑に遭ったのは16世紀最後の年である1600年、ガリレオ・ガリレイが沈黙させられた1633年は17世紀前半である。つまりこれ以後の17世紀において何かが起こったということになる。
  板倉氏の書くところ、それは動力学の誕生であるらしい。  
  板倉氏は、「17世紀に近代科学が確立した」という通説について、それは「研究の成果」からいえば、「運動の力学が確立した」ということだと書いている。
  個人の名でいえば、ガリレオ(とその弟子)、ニュートンのおかげである。  
  彼らによって、天体と地上の物体は同じ法則で動くという事実が立証され、真空の存在が立証され、惑星の運動は慣性の法則と天体同士の間に働く両者の距離の二乗に反比例する引力によるものであることが数学的に証明された。この結果、神の支配する天体は地上とは別の法則によって支配されているとするキリスト教の立場が反駁不能なほど完全に否定された。(さらにフックが顕微鏡による観察の結果、原子は液体においては流動し、固体においてはきれいに配列しているという原子分子説を打ち出すにいたる。)  
  それまでに存在したのは静力学だけで、動力学のほうは「運動の速度は加えられた力に比例する」というアリストテレスの粗笨な理論しかなかった。これでは、摩擦が大きくて力を加えてもすぐに止まってしまうような現象」にはよくあてはまる反面、放り投げた物がしばらく飛び続けるというありふれた日常レベルの現象すら説明できない。
  ガリレイは、「ひとたび運動させられたものは、その運動を妨げたり加速するものがないかぎり、いつまでも同じ速度で動き続ける」という慣性の法則を発見してこのアリストテレスの理論を否定した。さらに彼が天文学でも大きな業績を上げたのは、彼がアルキメデスから引き継いだ原子論によって(彼は、真空の存在も信じていた。彼の死後弟子たちが実証する)、天体も地上の物体も同じ原子でできているわけであるから天体と地上の物体を同じ法則が支配するはずという仮説のもとに立っていたからだと板倉氏は言われる。
 (ちなみにアリストテレスは天体と地上の物体が同じ法則で動くとは考えておらず、「だからアリストテレスとその後継者たちは、慣性の法則など考えることもできなかったのです」(下巻第10章「ガリレオの時代と原子論」 44頁)。アリストテレスのこの考え方が原子論反対の立場に直接起因するものなのかどうかは、板倉氏も書いておられないし、私もアリストテレス哲学には不案内だからわからない。しかし、彼の“軽さ”の概念と浮力の否定は確実にそうであることは板倉氏の説明から、わかる。そして、その天と地の区別がキリスト教にとって都合がよかったこともまた、容易にわかる。)  
  要は17世紀においては、宇宙は人間のために神が創造した万物であるという根本のドグマが崩れ去って、人々のキリスト教に対する信頼度が大きく減退したということらしい。1687年にニュートンが『自然哲学の数学的原理』で到達した結論にしたがえば、天体を動かす神は不要になるからだ。  
 キリスト教の側からいえば、17世紀は自然のありかたとそれを把握理解しようとする人間の理性をまえに、信仰が一歩一歩後退を強いられた過程といえる。
 1600年にブルーノが異端として殺されたのは、いうまでもなく地動説のためである。神が地球を中心に万物を創造したのだから、地球が世界の中心ではなく、しかも複数の世界(太陽系)があると唱えたブルーノは、キリスト教の教えを根本から否定したと当時見なされたからである。ブルーノ本人は自分のことを異端どころか無神論者とは思って居らず、「神は、無限の宇宙、複数の宇宙を創造し、それを支配している」からこそ偉大なのだと考えていたという。現在の目からみれば、ブルーノは神を信じていたのだからそれでいいではないかと思える。しかし15世紀末のローマ教会は、これしきの異見さえ許せなかったらしい。
  ところが1633年のガリレイは、地動説を公に支持しないと誓うだけで赦された。これは教会側にとって明らかに後退である。さらに象徴的なのはガッサンディ(1592〜1655)というスコラ学者の言動である。彼はアリストテレス哲学を批判し、エピクロスの原子論を紹介する著書を著したのだが、彼は、原子論から無神論部分を抜き取って、「原子を創造したのも神だ」から「原子論とキリスト教は矛盾しない」と主張したという。
 
 “ガッサンディ以後、ヨーロッパの学者たちは、「異端」のレッテルを貼られることを心配することなく、原子論を支持できるようになりました” (下巻第10章「ガリレオの時代と原始論」 52頁)  

  これは裏がえせば、キリスト教側が原子論を受け入れなければ人々の信仰が維持できないところまで来ていたということでもある。神が原子を創造したのだ、神が原子に最初のひと突きを入れたのだ、それこそが神の存在する証拠であるというのが、いわば無神論としての原子論を退けうる最後の立場であろう。
  いうまでもないことだが、この時代には原子そのものは存在として確認されていない。その存在を前提にすればそのほかの物事の説明がうまくいくから原子論は有意義な仮説として支持されているだけである。不確かで目に見えないものだからこそ、ガッサンディのようにそこに神の存在を認めようとする思弁的な反論もありえたわけである(デカルトは依然として原子も真空も認めなかったが)。第一、ニュートンその人でさえ、神を信じていたのである。彼にとって、自然科学は神に到達するための道だった。

5.
  板倉氏が描き出す18世紀以降の物理学は、16−17世紀の科学革命期において用意された原子論的発想の復活・普及と、その産物であるところの動力学の確立のふたつによって、さらに同時期に飛躍的に発展する化学の助け(そして化学もまたラヴォアジェが原子論的発想によっていかなる化学変化を受けても変化しない「元素」という概念を設けて以後、体系だった科学として確立したらしい)を借りながら、いまだ目に見えない原子の存在を前提とした理論を実験によって追試し、さらにその新たに獲得された成果の上にたって新たな仮説をたて、それを実証してゆくとともに、それらの正しさによって前提が、つまり原子が存在することを理論的に出来るだけ証明しようとした過程である。
 それは、原子論が精密化してゆく過程でもある。音が物質ではなく空気が波のようになって伝えられるものであること、ついで光も波であるが、粒子の性質も併せ持つこと、そして熱もまた物質ではなく物質(原子)の運動であることが明らかにされてゆく。そして光波動説は20世紀初頭、アインシュタインの相対性理論によって量子力学への道をきりひらくに至る。
 もっとも、板倉氏によれば、20世紀になっても原子の存在を認めない物理化学学者がいたらしい。オストヴァルトというドイツの科学者で、1909年ノーベル化学賞の受賞者である。ちょっと信じがたい話だが、ある意味当然だったのかもしれないとも思える。原子を実際に人間の肉眼で見ることができるようになるのは原子顕微鏡の発明をまたねばならないのであるから。(これは板倉氏の著者ではそこまで触れられていないのだが、今では原子がそれ以上に分割できない存在ではないことも明らかになっている。だかそれも原子の存在が想定され、証明されて、その存在が確認されなければ、分からなかったことである。) 
  このあたり、板倉氏の著述は、これまでにある物理学の概説書とあまり変わるところはない。たとえば以下の村上陽一郎氏の叙述と基本的にはほぼ重なる。

  “真空のなかを色も味も匂いもその他いっさいの感覚的性質を持たない原子がしかるべき運動をするというそれだけの構図で、この宇宙におけるあらゆる事物を説明しきろうとするこの発想が、18世紀以降の自然学(金谷注・物理学)の中心を占めるようになる” (村上陽一郎「物理学」『世界大百科事典 DVD−ROM版第二版』)。

  しかし板倉氏は、デカルトに対して通常の科学史上の評価とはことなり、どうも点が辛いようである。デカルトが原子の存在を認めなかったことがその理由である。しかしこれは書かれてはいないがデカルトが神の存在を捨てなかったことも理由であろうと思える。 この書の特徴は、無神論としての原子論の強調――というより原子論とは無神論にほかならないということの強調――であることはすでに幾度か触れてきた。
  いまひとつ下巻で顕著になる特徴がある。原子論者は必然的に進化論者であるはずということの強調である。氏の観点からすれば、無神論者でない原子論者は論理的にありえないうえに、無神論者である以上、さらには原子論そのものの性質上、必然的に進化論者であるはずで、これら二つの立場を取らない原子論者などありえないからである。
 18世紀において物理学が長足の進歩を遂げた背景には、前回述べた、キリスト教の後退があった。それでもキリスト教側には、原子を動かしている力の源泉を「生命のもと」や「霊気」――つまり神によって創造されたなにか――に求めるという最後のよりどころが残されていた。しかし20世紀初頭のブラウン運動の原因解明によって、キリスト教はその最後のよりどころをも失ったということになるはずだというのが、本書からうかがえる氏の主張である。(ちなみに板倉氏はそこまで詳しく書いてはおられないが、先ほど名の出たオストヴァルトは、ブラウン運動=水中における微粒子の不規則運動が水分子の運動によるものであることが実験によって証明されると原子論を認めたというから、彼の反対の理由の一部は信仰によるものだったのかもしれない。)
  原子論は、キリスト教に限らずあらゆる神の存在の否定である。氏は言う、神の否定は必然的に進化論を呼ぶ、ではどうして生命が誕生したかを説明しなければならなくなるからであると。それはそうだろう。
  氏によれば、エピクロスの時からそうであるらしい。そして古代ギリシアの原子論者は「原子が大地を作ったように、自然に進化して現在のようになったのだ」と説いたという。
  この程度の粗末な段階から、ブラウン運動の解明により「生命のもと」や「霊気」の存在を論理的・実証的に否定するに至る原子論の歴史は、進化論の精密化の歴史とも言えるようである。


              (初出「書籍之海 漂流記」2004年6月13日・14日・18日・23日・7月16日。10月6日加筆修正

 
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