東瀛書評

『立花隆先生、かなりヘンですよ』
(谷田和一郎著、洋泉社  2001年12月)

者の谷田氏(1976年生まれ)と、本書の成立に際して協力したという氏の友人たち(江木康人、中嶋嘉祐、西健太郎、広瀬優也の諸氏)に満腔の敬意を払う。私は、‘おそるべき子供たち’の出現を言祝ぐ。

 立花氏は、コンピュータ上で書いた文章を紙に打ちださなくても推敲できるのだろう。インターネットでダウンロードした資料をモニターに写したままで読めるのかも知れない。
 しかし私には難しい。画面で見ているだけでは誤字脱字をどうしても見落としてしまうし、モニターに映る文章はいちどきに見える文字が少なすぎて読みづらい。
 立花氏の論理は、世の人間すべてが立花氏レベルの知識と精神を持つ、あるいは努力さえすれば自分のレベルに到達し得る、そのための時間と環境もあるという前提のうえに築かれている。氏が世界や人間の将来の展望を語るとき、この、個人の置かれた状況や生活における様々な制約を無視した、あまりにも高い要求が前提となっている場合が多いのはたしかだ。
 谷田氏を信ずべきと私が見なす根拠は、瞬時も踏みはずすことのない日常生活レベルの人間知である。
 「人間はモニター上の情報をプリントアウトせずにはいられない」
 (第一章 U 「インターネット教伝道師の奇説、珍説、誤説」20−21頁)
 氏は立花氏の主張の屋台骨を成す柱に現実から遊離している要素を見いだし、そこへ直截に殺到する。
 立花氏のインターネット=グローバルブレイン論におけるインターネットの普及すなわち電子メディアの発達の結果として紙の消費量が減少するという主張を、現実の人間というもののありかたに照らして一気に否定する。『電子化』した結果、紙資源の浪費は現在増えているではないか、と。
 そして、立花氏の関心の変移のめまぐるしさもまた、日常を生きる人間としての感覚からこの谷田氏の批判の的になる。
 「環境ホルモンは『人類存続の危機』とまで言っておきながら、『環境ホルモン入門』を出した後は、まるで何ごともなかったかのようにまったく別なテーマを追いかけて、環境ホルモンには見向きもしない」(第四章 U 「環境ホルモンと遺伝子組換え食品をめぐる主張の奇々怪々」、147頁)
 「『人類の危機』とまで言いきるのならば、余生をすべて賭けて追いつづけたならどうなのだろうか」(同)
 たしかにそうであり、この谷田氏の立脚点からすれば、
 「(立花氏は)ただ、自分の関心をそのまま体現しているテーマを見付けて、それを調べて論じることが楽しいだけなのだ」(148頁)
 とか、
 「『(立花氏が)精神を科学で解明できるか』というテーマを語るついでに『環境ホルモン』を無根拠に警告し、一方で『遺伝子組換え技術による人間の進化』を語るために『遺伝子組換え食品』を賛美」(148頁)しているだけであって、「立花氏は、おそらく『人類という種を守るために環境ホルモンを規制しなければならない』などとは、本気で思ってはいない」(同)
 という批判は必然である。
 立花氏本人がどう考えているかは別として、外部から見ればこう決めつけられてもしかたがないところが同氏の仕事ぶりにあることは認めざるを得ない。
 
 しかしながら、これだけなら‘根性がなっとらん’という抽象的な精神論にすぎない。誰でも言える。
 谷田氏の凄さはここにはない。立花氏の具体的な主張それぞれに向けられた反論の緻密さと堅牢さにある。
 たとえば、立花氏の「東大生はバカになった」論については、立花氏の若年層の学力崩壊(低下)論の基礎となる現状認識について、まず、その根本的な拠り所となっている事実データについて、「√49がわからない学生が、トップランクの国立大学で二割、それに次ぐ国公立大学で三割もいるなんて、ウソみたいな話がごろごろ出てきます」という主張(『21世紀知の挑戦』)を、まず立花氏の拠った出典を名前と共に挙げてこの数字が本当は全大学生についての数字ではなく文系学生のそれであり―しかも正確には17%であるという注釈つきで―、この数字には理系学生は含まれていないことをあきらかにし、主張の元となる事実データに歪曲が見られることを指摘する。
 つづいて谷田氏は、ルート49の問題が「ルート49=±7と間違える人がいる」、「結構ひっかかりやすい問題」である点に読者の注意を喚起する(第八章 U 「立花隆の功と罪―『知の巨人』から『知の虚人』へ」265頁)。
 「これよりもはるかに難しい問題でルート49と正答率が同じ(あるいは高い)ものもある」(同)
 「たとえば、『2ルート/ルート7+ルート5の分母を有理化せよ』という問題の正答率は、ルート49の正答率と同じである」(同)
 つまり、氏のいわんとするのはルート49の問題自体が学力低下の証拠データとするには不適当だということである。
 この論点と根拠でみるかぎり、氏の主張は首肯せざるをえない。
 谷田氏はまた、次なる批判として、立花氏の学力低下論のいまひとつの現状認識の柱である「小学生の学力低下」と「サイエンス離れ」に関し、立花氏が根拠としているデータの、今度は解釈の錯誤を突く。
 268頁に谷田氏が掲げた図2、図3(立花氏の依拠するデータ)は、「学力低下の証明にまったくなっていない」(268頁)。
 なぜなら、
 「図3のデータを見ると、一九八九年と一九九二年の中学二年生、高校二年生の理科好きの割合はほとんど変化していない。高校二年生に至っては増加している」から、「このデータは、むしろ『サイエンス離れ』を否定するデータ」であり、「図2のデータも、時系列データではないので、関心が低下しているのか、昔から低かったのか、ということはまったくわからない」(268頁)からである。
 「これらのデータからわかるのは、『学年が進むに従って理科嫌いになる』ということだけである。年々サイエンス離れを起こしているという事実は出てこない」(268頁)
 まさにそのとおりであると、再び首肯するほかはない。
 こうして、谷田氏は、立花氏の若年層における学力崩壊(低下)論を、まったくの謬論として木っ端微塵に否定し去るのである。
 この否定を覆すのは困難であると私には思える。たしかに、立花氏は事実において意図的かどうかは別にして歪曲を行っている。そしてそのデータの解釈において偏向が見られる。当然、導き出される結論も誤りということになる。

 立花氏の科学および教育関係の議論におけるデータ歪曲と解釈の偏向、およびその結果としての結論の誤りの理由を、谷田氏は、立花氏の科学観と世界観の背骨を為す、ニューサイエンス(ニューエイジ・サイエンス)の影響であるとする。
 ニューサイエンスとは、「従来の科学の持つ『要素還元主義的』な性格に限界と行き詰まりを感じ、新たなる『科学大系』を作り上げようとしたものだった。基本的には、科学の『還元主義的』『分析主義的』手法を否定し、『ものごとを全体として見る』科学を生み出そうという考え方である」 (第六章 U 「立花思想の本質的な欠陥は何に由来しているのか」193-194頁)。
 そして、 「ニューサイエンスはニューエイジである。ニューエイジがオカルト的である以上、どうしてもニューサイエンスもオカルト的にならざるをえない」(216頁) 
 との前置きのうえで、谷田氏は立花氏の著書『インターネットはグローバルブレイン』が中身も題名同様、ニューサイエンスの論客ピーター・ラッセルの『グローバルブレイン』下敷きにしていることを指摘し、
 「立花氏の導く怪しげな結論は、ほとんどすべてニューサイエンス由来のものであるといってもいいだろう」(197頁)
 とみずからの主張を提出する。
 氏は、証拠として、ニューサイエンスにはオカルトと科学が結びついた結果として見られる三つの欠点、「神秘主義的な結論」「論理の飛躍・事実の歪曲」「方法論の欠如」を立花氏も受け継いでいるとし(218頁)、立花氏の考え方の背骨を成す三要素としての「進化」「パラダイムシフト」「二極分化」という三要素を摘出する。 
 1.進化が「人類は、今まさしく新たな進化を遂げつつある」(187頁)という認識。
 2.パラダイムシフトが「今までの科学を乗り越える新しいパラダイムが生まれつつある」(188頁)という認識。
 3.二極分化とは「今まさに新たなる科学が生まれ、人類は進化しつつある。これに乗り遅れると大変なことにな」り、「うまく適応できる人と乗り遅れる人の二種にはっきり分かれつつある」(189頁)という認識。
 そして「『進化』と『パラダイムシフト』はまさしくニューサイエンスの思想そのもの」と谷田氏は確認する。この三項目を立花氏の思想の要約として受け入れる限り、氏の論理に服さざるをえないであろう。
 以下の結論もまた。
 「立花氏の『進化』『パラダイムシフト』に具体的な内容が欠けているのは、ニューサイエンスの『進化』『パラダイムシフト』に具体性がないということに由来している」(198頁)

 近年、ロッキード裁判の頃とは異なり、立花氏は自説に対する批判に対して反論をおこなわない。氏の沈黙はわからないでもない。反論する気にもならないあるいは反論に値しない、あまりにも低次元のものが多いからであろう。
 しかし、ロッキード裁判の批判には、箸にも棒にもかからぬものにまで、氏はあえて反駁の労を取っているではないか。
 この本はロッキード裁判批判とは違う。きわめて高水準である。そのうえ異なる価値観やイデオロギーからの外在的批判ではなく、氏の主張そのものの欠陥を突いた内在的批判であるという点で、従来のものとは決定的に質を異にする。さらに立花氏の科学関連の言論の核心にかかわる、致命的な内容である。氏は、応えるべきではないか。

 最後に、ここまで口を極めて褒めてきたが、一言注文をつけさせてもらうことにする。
 ‘立花隆先生、かなりヘンですよ’という書名である。正攻法の内容ならば掲げる題も正攻法で行くべきだ。照れかなにかしらないが、無用である。                                                                         

(2002/3/12)

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