東瀛書評

『新しい歴史教科書(市販本)』
(西尾幹二ほか著、扶桑社、2001年6月)
『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』
(谷沢永一著、ビジネス社、2001年6月)

の評は、おもに前者についてのものだが、まず後者を参照しながら前者を論じ、ついで後者をも論じることにする。その理由はおいおい明らかになるであろう。

1.

  最初に『新しい歴史教科書』そのものについての私の評価を言えば、私はこの教科書をいかなる学校でも採用することに反対である。理由は内容の思想的傾向以前に、まず、教科書としての出来が悪すぎるからである。(思想的傾向にも大いに異議がある。しかしながらこれは各地で繰り広げられている反対運動のそれとは異なる。あとで述べる。)

 この書籍には単純な事実の間違いが処々にある。筆にまかせてみだりなことをよく調べもせずに書いている。意図的な歪曲もあるかもしれないが、単なる無知、もしくは調べるのが面倒で、あるいはこうあって欲しかったという希望のせいで、結果として間違ったというところもかなりあるようだ。事実が間違っていれば教科書として失格である。
「(過去の)事実に原題の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり意味がない」 「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」
 「序章 歴史への招待」の「歴史を学ぶとは」で、筆者たちはこう主張している。「過去のそれぞれの時代にはそれぞれの時代に特有の善悪があ」ったからだという。  ここにこの教科書の基本的な立場が集約されていると見なしていいだろう。
 これらをさらに要約すると、現在の特定の価値観で過去の歴史をすべて判断するのはやめようということになるだろう。そしてその特定の価値観とは、「『新しい歴史教科書をつくる会』の主張」の用語を借りれば「自虐史観」である。それが左翼イデオロギーを指していることはいうまでもない。
 「『新しい歴史教科書をつくる会』の主張」には以下のようなくだりがある。 「冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています」(出典:インターネット、同会のホームページ、平成9年1月30日設立総会「趣意書」)
 ここでいう旧敵国とはおもに中国を指すと思われるが、旧敵国であろうとなかろうと、そして歴史事実だけにかかわらず、他国の主張は基本的には自国の利益で、すくなくとも自国中心の視点でなされるものである。たしかに、それをそのまま日本の教科書が記載するのはおかしいとは確かにいえる。
 そしてそうであるがゆえの、自虐史観=左翼イデオロギーへの反対とその影響下から脱した歴史教科書作成ということなのであろう。
 「『新しい歴史教科書をつくる会』の主張」はいう。 「戦後の歴史教育は、日本人が受け継ぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人のごとくにあつかわれています」
 「『新しい歴史教科書をつくる会』の主張」は、自分たちの作る新しい教科書の目的は『子供たちが、日本人としての自信と責任を持』つことができるようになるためであると、しるしている。
 この主張の可否についてはいまは論じない。これはこの教科書が教科書たりえていて以後の問題である。

 教科書が教科書たりえる水準は、記載された事実の正確さであろう。
 ちなみにまた念を押しておくが、これは南京大虐殺の数やその評価といったレベルの話柄ではない。すでに触れた「歴史を学ぶとは」の言葉を借りれば、「いったいかくかくの事件はなぜ起こったか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたか」(7頁)というレベルではなくて、「何年何月何日にかくかくの事件が起こったとか、誰が死亡したとかいう」、「地球上のどこにおいても妥当する客観的な事実」(6−7頁)のことである。
 教科書なのであるから、これを間違っていたら話にならない。
 ところが『新しい歴史教科書』ではそれを間違っているのである。
 この点につき容赦のない批判を行っているのが、谷沢永一氏の著書『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』である。
  この書籍は、『新しい歴史教科書』における事実のあやまりを逐一指摘している。
 谷沢氏はまず最初に、『新しい歴史教科書』65頁のあやまりを挙げる。 「『日本古来の和歌を集めた『万葉集』が朝廷の命によって編集された』という一行があるが、これは全くの間違いである」(『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』25頁)
 これはたしかに全くの間違いで、『万葉集』が私撰であり勅撰ではないことは、日本史の歴史事実としては初歩の初歩であろう。しかしあまりにひどい。谷沢氏は、これしきのことさえ知らない無知な人間がこともあろうに日本史の教科書を作ろうとするとは何事かと怒っているが、当然であろう。
 『新しい歴史教科書』にはこの種の単純な事実関係にあやまりが多い。しかもその多くは日本史において基本中の基本ともいうべき事項なのである。  谷沢氏の助けを借りてもういくつか例を挙げておく。

 1.天下統一後に描かれた狩野永徳作「唐獅子図屏風」を天下統一前の作品としている。(『新しい歴史教科書』口絵12頁。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』57頁)

 2.『今昔物語集』を通称の『今昔物語』のまま記載している。(『新しい歴史教科書』91頁。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』144頁)

 3.江戸幕府の体制を説明して、「老中を筆頭に若年寄、目付、各種の奉行などの役職が整い」とあるが、老中は複数制であるから「筆頭」はおかしい。さらに老中のうえには大老がいた(1名・非常置)から説明自体も事実としてあやまりである。(『新しい歴史教科書』126頁。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』160頁)

 4.徳川家康の教訓として「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」を史実として紹介している。この言葉が家康の言であるという証拠はなく、俗説である。(『新しい歴史教科書』127頁。『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』161頁)

 1は弁解のしようもない誤りである。
  2も『万葉集』と同じ程度の初歩的な知識の欠落による間違いである。一般に『今昔物語』『今昔物語』と言われているからそうなのだろうと書き込んだ様が目に浮かぶ。なぜならすくなくとも原本を読んだことがないのは確かだからである。手にとってみたこともないはずだ。たいていの注釈本や現代語訳は題名として『今昔物語集』と正式名を掲げているからだ。中身は読まず表紙を見ただけの人間でもこんな間違いは犯さない。
 3になるとやや専門的な辞典や工具書が必要になるかも知れない。それでも歴史が好きな人間には、老中が複数制で、そのうえにときに大老が置かれる場合があったことは調べるまでもない常識に属するだろう。この箇所を執筆した人物は、あるいは全体としてこの教科書の出来に責任をもつべき、西尾幹二氏もしくは「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーは、井伊直弼を知らないのであろうか。
 井伊は、大老として、鎖国体制を破り米国と日米修好通商条約を結び日本を開国し、結果的に幕府を倒し明治維新政府の成立――すなわち日本の近代、ひいては現代――を招き寄せた張本人である。後にまた触れるが、「新しい歴史をつくる会」の主張から判断して、井伊直弼についてこのような基本的な知識の欠落を感じさせるのは、彼らの主張そのものについてその信憑性をおおいに疑わせるものである。
 それにしてもひどい。ここまでくると、単なる無知やあやふやな知識をこえたところに誤りの原因を求めなければならなくなる。そもそも執筆態度がいい加減なのである。無知やあやふやな知識ももちろん問題だが、自分が知らない、あるいは確かに知っているかどうか自信がないにもかかわらず、確認もせず「これでもういいや」とほっておく物臭さがこれらの間違いの原因なのである。先にものべたようにこれらはみな基本的な事実である。ちょっと関係書や工具書類を調べればわかることだからだ。『万葉集』の件について、こんなことは高校生・大学生程度の国語辞典にも載っている、「辞書ぐらい引け」と谷沢氏は激怒している。それはそうであろう。それしきのこともしないのであれば怠惰と言われても当然である。1の時代を間違えるなど、愚かというもバカらしいほどの誤りである。どんな罵倒を受けてもしかたがない。
 谷沢氏は『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』で、この『新しい歴史教科書』は、“無学と嘘で固めた本”であると激しく批判している(氏の主張はこの書籍のまことに激烈な題名を見れば一目瞭然だが、その理由はこれだけではないにはせよ、これが重要な理由のひとつである)。  氏は、この教科書の執筆者について、ふたつの特徴があると言う。まず第一には、はなはだしく無学である」こと。第二に、「筆者が知らないこと、読んだことのない参考資料について、平気で嘘をついている部分の多い」こと。(以上、すべて同書23頁)
 そして氏はこう論を進める。「この第二の特徴は、第一の無学という特徴よりもはるかに悪質である。筆者の人間性、品性を根本から疑わせる」、「この教科書の筆者たちは、著述ということにも、学ぶということにも真面目じゃない」(同書24頁)
 私に言わせれば、この種の人間は教科書作成などという地道な作業に手を染めてはいけないのである。自分の感情や気分、思いこみでものを考え、言う。自分の主観がすべててあり、現実が自分の主観世界と異なっていれば現実のほうを無視する。こういう人間は他人と論争できない。すくなくとも、学問や研究に向いていないのはたしかだ。

「戦後の歴史教育は、日本人が受け継ぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。特に近現代史において、日本は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人のごとくにあつかわれています」(既出)

 事実をふまえずに歴史を論じることはできない。「新しい歴史教科書をつくる会」がおのれの主張を貫徹するには、精確な事実のうえにたって、確かにこれこれの事実からしてこれまでの歴史教育は間違っている、近現代史において日本には罪はないと証明するしか方法はないはすだ。その過程をおろそかにしているのであれば、相手の主張にたいしてなんらの有効な反駁ともなりえない。ただ単なる諸外国への反発、そして盲目的な自己愛の拡大したにすぎない愛国心から発するやみくもな感情論であると判断せざるをえなくなる。つまり、痛いところを何度もつかれて逆上し、しかし反論するだけの智慧がなく、いい気になりやがっていい加減にしろと喚いているだけの話なのかと。  しかしいくら怒鳴り散らしてみたところで、なんの反論にもならない。「日本は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人のごとくにあつかわれてい」る事態と、その背後にある日本が悪いという主張は依然として無傷なのである。
(2001/7/31)
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