東瀛書評

『上海ベイビー』
(衛慧著・桑島道夫訳、原題 『上海宝貝』、文藝春秋、2001年3月)

の作品は、盲目的な外国(西欧)崇拝で自分の国は全部駄目で西欧のものは何でもいいと憧れ、自己愛がつよいくせにそれにも気づかないほど愚かな二十代半ばの馬鹿娘が、セックスとドラッグに溺れる毎日を垂れ流し式に綴っただけの中身である。
 主人公はココ・シャネルを崇拝しているという理由で自分をココと呼び、また人にもそう呼ばれて得意になっている。こんな阿呆が主人公では、それだけで作品世界の底の浅さが知れるというものだ。

 「訳者あとがき」にあるが、これは著者である衛慧女史の“私小説”である。訳者の言葉を借りれば、「これほど自己肯定的な」のはヒロインだけでなく、作者もそうなのであろうと推察する・・・いや、他人の言葉を借りずともよい。主人公と作者の経歴はほぼ同じである。そして一読すれば、主人公が作者の分身であるというより、作者そのものであるのはすぐに分かる。作者の第三者としての目が全然感じられない。自分を客観視できないところが私小説の私小説たる所以だが。
 ――私はこの世で一番不幸だ。誰も私の苦しみを分かってくれない。ああかわいそうな私。
 私小説とはつまり、こんなことを正気で思い、平気で口にできるほど自分を甘やかして生きている人間のたわごとである。自分が世界の中心、物語の主人公。こんな設定がそのまま通るのは日記ぐらいのものであろう。言葉を換えれば、私小説とは本来が日記同然の代物で、すくなくとも人様に読ませるべき体のものではないのである。

 とにかく、『上海ベイビー』においては、中国人の恋人と真剣に愛し合っているといいながら、白人であるドイツ人の男と知り合うとすぐにまた真剣に愛してしまったとやらでセックスする自分の矛盾を不思議と思わないほどのヒロインの阿呆さと自分勝手のせいで、傷つけられた中国人の恋人のほうはドラッグの意図的なやりすぎで死ぬ、つまり自殺する。
 ところが驚いたことにこの主人公はその理由がわからない。それどころか、主人公は瀕死の恋人の傍らで、こう心のなかで呻く。
「この責任は誰が負うべきなのだろう? 起こったすべてに対して責任を負うべき者を見つけたいと思う。そうすれば、その在任を心の底から憎むことができるのに。八つ裂きにすることができるのに」(363頁)
 なにをかいわんやである。それはお前だ。
 主人公が裏切ったから彼は死を選択したのである。あまりの愚かさに、「そんなことも分からんのか」と怒鳴りつけたくなる。そしてこんな阿呆に「過剰に自己投影(訳者桑島氏の言葉)」している作者の衛慧女史に対しても。
 まあ、わからないのは意識上のことで、無意識の世界ではわかりたくないというのが実のところであろう。なにしろ、母親の「何をするにも、おまえは起こりうるすべての結果に責任をもたなければいけない」の忠告を馬耳東風と聞き流し、吸っているタバコの煙を吹き出すという性格である。要するに、すきなことをするがその責任は負いたくないという最低の輩なのだ。責任を負わないためには自分の責任を認めなければよいという、愚か者のとっときの知恵、自己欺瞞である。
 そして、当然のことながら、主人公は周囲の人間を自分の身勝手のせいで不幸にし、最後の最後にはドイツ人の恋人とも別れることになる。
 すべて自分の行いのツケが回ってきた結果である。自分につごうが悪くなって「ここはどこ?わたしはだれ?」と誤魔化すギャグがあるが、なんと主人公は本当にそして真剣にこのセリフをいうのである。「私は誰?」(386頁)
 これは、かたちは独白だが、要は読者に私の苦しみをわかって頂戴、同情して頂戴と訴えているのである。彼女はあくまで自分を被害者であると見なそうとする。本心では自分の責任であるとわかっている。だがそれを認めたくない、責任をとりたくない。だから思考停止して「何もわかりません」としらばっくれたという次第。子供である。
 これが結末とは。だいたい、こんなことは他人に訊くべきことではないんだよ、お嬢ちゃん。

 そこまで気に入らないなら、どうして読んだのかといわれそうだ。
 この本(文庫版)のオビに、「発禁処分を受けた中国の大ベストセラー」とある。
 曹長青という在米中国人ジャーナリストが、ある評論で中国では発禁になった文学作品はそれだけでよく売れると書いていた。中国の反体制派(民主派)が中国独裁体制の犠牲者として持ち上げ、彼らの中国攻撃の材料に使うためだそうである。
 反体制派にとっては、発禁になった事実だけが重要で、作品自体の水準や内容はどうでもよいのだそうだ。当局に弾圧されたというだけで、作品は未曾有の名作、傑作、衝撃作となり、作者は奇才、天才、大文学者になるそうな。曹氏がこの衛慧女史をその一例として挙げていたから、果たしてそうかと思ってとりあえずすぐに手に入る同女史の著作『上海ベイビー』を読んでみたわけである。果たしてそうだった。
 時間を無駄にした。
 日本は私小説の本家である。こんなたぐいのナルシシズム作品なら、日本にも掃いて捨てるほどある(たとえば田山花袋の『布団』)。なんでわざわざ外国物でまで読まねばならぬのか。馬鹿らしい。

(2001/5/29)
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