東瀛書評

『微笑を誘う愛の物語』
(ミラン・クンデラ著、千野栄一・沼野充義・西永良成訳、集英社、1992年6月)

うまでもなく『存在の耐えられない軽さ』の作者。
 この作家の名前を心に留めたのは、『中国民主運動家チベットを語る』(曹長青編著、日中出版)の翻訳を進めている時だった。
 曹氏は、共産主義に反対するが単純な共産主義=悪、反体制派=善という単純な二元論にも反対し、問題は集団や国家の利益を個人の自由よりも価値が上だとする考え方こそが悪なのであり、その考え方を取るかぎり反体制派も同じ穴のむじなだという。そこでクンデラ氏の作品からの引用があった。
「被害者と加害者には差はない。両者の立場が入れ替わるのはきわめて容易だ」(同書254頁。ただし字句に修正を加えた) 

 『新潮世界文学辞典 増補改訂版』の「クンデラ」の項(来栖継執筆)に、「チェコの作家。短編集『滑稽な愛』(六三)『冗談』(六七)以来、執拗に愛と社会主義との問題を追求している」と記述されている。
 はたしてそうだろうか。『微笑を誘う愛の物語』を読んで先ず思うのは、氏はなによりもまず人間を描いているのであり、社会主義が取り上げられているのは氏の生まれ故郷のチェコが当時(氏がフランスに亡命するまでの年月ということである)、社会主義体制であったからにすぎないのからでないか。(氏が小説を発表しはじめたのは1960年代はじめである。そして1968年のソ連軍侵攻による「プラハの春」の収束後、フランスに移住した。)
 故開高健氏によれば、文学作品の一流とそれ以下を分けるメルクマールは、作品をよんでその作品が生み出された国や文化についてよく理解できる内容かどうかだという。よくわかるのであればそれは二流だそうな。なぜなら一流の文学作品は普遍的な人間を描いているからである。この基準をあてはめれば、『微笑を誘う愛の物語』はまちがいなく一流である。

 氏自身の言葉によれば、氏の小説世界は出発点は自身の生活とそこでの体験に基づく。
「私の小説の主人公たちは実現され得なかった私自身の可能性である」(クヴェストラフ・フヴァーチク著 千野栄一訳「クンデラの未経験の惑星」(『青春と読書』1993年10月号掲載)での引用。以下同じ)
 私、すなわち著者という人間が環境の産物であり、そこが氏の文学の土壌である以上、その環境たる社会体制もまた作品に登場せざるをえないであろう。
 ただし、それはあくまでも舞台の背景であって、作品のテーマではない。すくなくとも、この『微笑を誘う愛の物語』で社会主義について声高に論じられているということはまったくない。そこに描かれているのは、人間の生活であり、生涯である。
 そして、彼らの生きるチェコという国が社会主義体制下にあるというだけの話である。
 
 もっとも『新潮世界文学辞典』のいうとおり、クンデラ作品において愛(男女の愛)が中心テーマであることは間違いなさそうである。『微笑を誘う愛の物語』も、題名がまさに示すようにそうである。
 ただしそれが通常の意味における愛かどうか。さまざまな境涯、職業、性格の男と女の関係を描いているのは確かだが。裏切りあり、不倫あり、焼けぼっくいに火がついたあり、単なる勘違いあり。もちろん始まりの話もあれば終わりの話もある。なかには始まりや終わりどころか、そのさなかにいることが分かっていないのではないかと思える人物もいる。
 登場人物達が皆なにかしら歪んでいるのは、たしかに彼らが生き、彼らを囲む社会のせいであろう。この意味で、さきほど引用した「クンデラの未経験の惑星」でフヴァーチク氏がこの点について、「彼の小説は問を発する人間の小説」であるとしたうえで「そして(氏の作品における)愛のテーマも、人々がそこで自分の愛を生きる社会の質を問う問なのである」とする指摘は正鵠を射ているだろう。「愛はクンデラのもとでは、社会的な関係の価値なり無価値なりをあらわにする王水となる」という分析もそのとおりだろう。だが、彼らの狡さ、小心さ、臆病、冷笑癖が社会の罪であるとしても、彼らの愚かな失敗、彼らの陥る滑稽な窮地は、最終的には自分の意志によるものであり、みずからが選択した言動に発するものである。つまり自分が引き金を引いたのだ。責任はみずからにある。
 ここでこの作品はチェコという個別具体の土地から普遍的人間の宇宙へ飛び立つ。

 この短編集に収められた作品のどれを読んでもいい、欠陥だらけの登場人物たち全員に対していとおしみを感じるのはなぜだろう。確かに微笑みを誘う。題名通りである。
 ただし、訳者もあとがきで書いているが、この微笑には苦みもまじる。

(2001/5/22)
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