東瀛書評

『現代思想がわかる事典』
(鷲田小彌太編著、日本実業出版社、1994年12月)

こでいう“思想”とは、哲学といいかえてもいい。
 哲学が難しいとされるのは内容が難解だからではなく、思考の対象が日常の生活では通常考えない類のものであることと、帰納と演繹という論理的思考能力を日常生活ではあり得ない程度まで使用することが要求されるからである。それさえ弁えておけば、この本はわかりやすいし面白い。
 今回は、この書籍の内容を借りて、思考のストレッチをしてみることにする。
 あるティーンの女の子向け雑誌は表紙に、自己中心が魅力的な生き方だ云々という唱い文句を掲げている。
 最初は「また馬鹿をおだてて金を巻き上げようとしている」と思っていた。だがよく考えてみると、この雑誌の編集者は案外ただしいのかもしれない。
 日常の思考では、自己中心的な人間は周囲に迷惑をかけるから良くないということになる。また、自己中心な人間は自分の都合しか考えず他人の自由や権利を侵す、つまりは他人からみれば嫌な奴であって、魅力的な生き方ができるどころか世間から袋だたきにされてまともに生きてゆくことはできぬであろう。これは日々の生活レベルにおいては簡単な道理である。いくら未熟な十代であろうが、こんなことも分からないようではどうしようもない馬鹿であり、おそらくは一生直らぬ馬鹿であろう。
 自分勝手な生き方は、自堕落な――いいかえれば楽な――生き方である。この雑誌の編集者たちは、怠け者の女の子たちに「君たちはそれでいいんだよ。君たちこそ正しいんだ」と免罪符を与えてそのかわりに部数を伸ばそうという、下司で無責任な根性の輩である。彼らは実社会で日々生きている大人である以上、こんなたわごとが社会で通用しないことは百も承知であろう。出版社も会社である。編集者はサラリーマンである。自己中心的な人間がどうしてサラリーマンができるか。そのれっきとしたサラリーマンがあえてでたらめを主張するのは、彼らは、自分たちが、いま、儲かればそれでよいのであり、自分たちのでたらめに踊らされた少女たちがそのせいで将来どうなっても知ったことではないからである。だから下司で無責任な根性の輩だというのである。
 ともかく、このような雑誌は排斥すべきであり踊らされている読者は教え諭すべきであるというのが、日常感覚の結論であろう。 これは現実問題としてもっともな結論である。だが観点を変え、思考の筋肉をいま少しいつもよりも伸ばしてみれば、たわけた戯れ言としか思えないこの唱い文句は思わぬ真実の響きを帯びてくる。 「民主主義の原理は、『人間の尊厳』あるいは『人間への信頼』であると言い換えることもできる。ただし、その場合の人間とは、あくまで等身大の生身の人間である。それは、性懲りもなく、愚行や暴走を繰り返す人間である」(本書113頁)
 雑誌の編集者も、ありうべき読者も、「愚行や暴走を繰り返す人間である」が、それを信頼せよという。何故であるか。
 「民主主義とは、このような人間を上から、あるいは外部から、押さえつけようとしたり、予め決まった方向に導こうとするものではな」(同上)いからである。
 人間は他の人間の言動の善悪や優劣を判断できない。それは神の視点であるからだ。神(宗教)はすでに力を失った。しかし今、国家が人類のあらたな神となっている。だが国家主権を国民が持つ以上、国家にも本当は判断の権限はない。つまり、誰も誰も裁けないのである。
 つまり、民主主義とは国民が主権を持つことだけではなく、ひとりひとりが自分のやりたいことをし、言いたいことをいうことなのだ。そこには善悪はない。すくなくとも、自分以外には善悪の判断はできない。よしんば当人が悪と判断しとしても、言っても行ってもかまわない。これが“自由”ということである。
 そして、自由とは、際限なき「欲望の発露」(112頁)でもある。
 「民主主義は、そのような(際限なき)欲望の発露が相互に衝突することを認め、しかもその衝突を回避させたり、制限するのではなく、むしろ(略)全面展開することを促す」(112頁)
 その結果、
 「人間自身に、犯した愚行や暴走の経験の中から、自己をコントロールする力、すなわち理性を鍛えることを促すものである」(113頁)
 これが、民主主義のアルファでありオメガであるという。
 それでは社会や国家の安寧と秩序はどうなるという声があがるであろう。当然である。だがここに日常レベルの思考の日常レベル故の論理矛盾がある。安寧と秩序は、社会もしくは国家の保全のためにあるのであって、人間一人一人の自由とはなんの関係もないからだ。日常レベルの論議はここが混線している。
 そもそも、安寧と秩序とは個人にとっては自由の制限をもたらし、はなはだしき場合は自由の圧殺にさえいたるものではないか。
 社会と国家は通常、人間集団と読み替えることもできるが、社会・国家の安寧と秩序を極限まで追求した全体主義においては、その集団の自由さえも奪われる。その際には人間集団と社会・国家は分離している。ここで社会・国家が持ち出すスローガンが、「平等」である。各人の「平等」のために、個人ひとりひとりの、ひいては人間集団全体の自由は社会・国家によって抑圧され、あるいは奪い去られる。ここまで来ると、さらに国家が社会からも分離して、人間集団と社会を支配する最高絶対の存在となるのである。
 平等とは、「上から押しつけられたり、あらかじめ決定されているものでは、本来ない。それは徹底的な自由の展開のなかで、相対的な状態としてのみ得られるバランスにほかならな」(112頁)ず、「絶対的な、したがって形式的な平等は、国家が自己を維持するために必要とする理念でしかない」(112頁)のである。
 とすれば、冒頭に挙げた少女雑誌の編集者はその下司さと無責任さを満開にして、怠惰で馬鹿な女の子たち(たいして居るまいが)をおだて続ければいいのであるし、読者は読者で安心して自分勝手で怠惰な生き方を続ければよいということになろう。それは彼らの自由である。
 そのかわり、それを苦々しく思う人間は、遠慮なく批判すればいい。それが彼らの自由である。あるいは、何らかの形で実質的な被害=自由の侵害をうけた人間は、お返しに相手の自由を侵害し返せばよい。これも彼らの自由である。それに返報するのもまた、自由である。だから互いにどんどんやりたまえ。
 まあ、その「愚行や暴走の経験の中から、自己をコントロールする力、すなわち理性を鍛えること」が促進されて、「相対的な状態としてのみ得られるバランス」が生じるかもしれない。 ここで、“かもしれない”などとそんなあやふやなことを、もし生じなかったらどうする、社会や国家は滅茶苦茶になるではないか、という批判が澎湃と起こるであろう。残念ながら、この危うさもまた民主主義なのである。あくまで人間を信じるのが民主主義なのだ。
 人間は、何をしても許される。民主主義を滅ぼすのも許される。ただその場合、みずからの頭のうえにどんな結果が降りかかってこようと、責任は人間の、いやひとりひとりの責任となる。他者に転嫁は絶対にできない。
 これは、下世話にいえば「自分の尻は自分で拭け」ということである。これを個人主義という。
「(人間のもつ)可能性の尊厳、それへの信頼を、ほとんど絶望的な崖っぷちで維持する思考(略)を私たちは身につけなければならない」(113頁)のである。
 それしかないと、私は、覚悟を決めている。
 あなたは?
(2001/3/25)
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