東瀛書評

『立ち直れない韓国 ─“謝罪要求”と“儒教の呪い”─』
(黄文雄著、光文社、1998年10月)

には韓国人の知り合いがいる。その人物は初老の、きわめて教養にあふれた理性的なひとなのだが、あるとき「韓国人は世界でもっとも優秀な民族だ」と、それを自明なこととして言うのを聞いて感嘆したことがある。学校の成績、とくに理科系の成績の各国の比較統計で韓国人がトップに位置する事実をもとにした意見だった。
 学業成績で民族の優劣が判断できるのか、しいてそこから結論を引き出すとすれば、その統計の作成された時点で韓国人の現代文明への適合度がもっとも優れているということではないか、そもそも学校の成績の高さが人間の全能力をはかる基準足り得るのか、と言おうと思ったがやめた。理解してもらえそうになかったからである。
 それに対する日本側の態度は、いわゆる「自虐的」なものである。もっとも近年、日本人はなにも悪いことをしていない、自国と自国の歴史に自信を持てという声が高くなっているが、どうも韓国側の真似である。後から始めたのであるから、真似だとおもわれてもしかたがない。あるいは、単なる「逆切れ」にすぎないのではないか。
 冗談はさておき、常々私が感じているのは、これらの問題をめぐって、両国の態度がともすれば感情的になる点である。国家や民族に関わる話柄だから仕方がないといえばそれまでだが、相手のいうことを認めればそれだけで売国奴扱いしたり、「自虐的」であると決めつけるのはあまりにも短絡すぎはしまいか。反対に、愛国的とは何が何でも自国は100パーセント正しかったということであるというのも、あまりにも現実離れした議論である。そもそもこの世に100パーセント正しい存在などあるはずがない。政治がらみ、国家がらみの問題では特にそうであろう。

 今回紹介する黄文雄氏の著作は、韓国の日本批判の背景に興味ある分析を加えている。
 筆者の黄文雄氏は台湾人である。早稲田大学、明治大学大学院をへて、現在は評論家として活動している。同氏による著作は多いが、個人的にいって私がもっとも感銘を受けたのは『中華思想の嘘と罠』(PHP研究所、1997年1月)である。
 この『立ち直れない韓国』の内容だが、まず、黄氏は、そもそも韓国の民族主義は「反日」のうえに成り立っているものだから、何が何でも日本を悪者にしておかなければ、韓国という国家も韓国人(北朝鮮人も含めて)という民族も存在できないのだという前提を指摘する(26頁)。
 さらに、氏は韓国(朝鮮)の歴史的な「斥前王朝」行動を指摘する。同氏の定義によれば、これは「一つの時代や王朝、政権が代わるたびに、前王朝の文化がたいてい完膚なきまで破壊される」、朝鮮史の「伝統的歴史文化」であり、「『反日感情』、そして日本統治の全面否定も、繰り返されてきた前王朝文化の否定の一環にすぎない」と主張する(26-27頁)。その例証として、黄氏は、統一新羅によるそれまでの土着文化の徹底破壊、その次の高麗朝におけるモンゴル文化の摂取と同時のそれまでの自らの文化否定、そして、高麗に取って代わった儒教国家李朝による高麗の仏教文化撲滅を挙げている。
 この「斥前王朝」の文化パターンは、韓国・朝鮮人にある「衛生斥邪」思想にると氏は見ている(120頁)。さらに奥にあるのは中国から輸入した儒教(中華思想・正統思想)である。とくにこの内の正統思想が、韓国人をしてみずからを絶対的正義を有する立場をとらせることになると氏は判断している(120-142頁)。
 さらに、同書では、日本の朝鮮統治下の歴史に関する韓国側の歴史歪曲・事実無視や中国に対してだけは歴史的に腰の弱い韓国人の「事大主義」にも豊富な実例や資料を挙げて多くのページが割かれている。

 私は、黄氏のこの著書を読んで、以下のような感想を抱いた。
 「斥前王朝」、「衛正斥邪」思想によれば、国内的には前政権はとにかく悪、国外的には外国はすべて悪ということになる。確かに、自分がいつでも正しいのであれば、いついかなるときでも悪いのは他者である。そして、他者は悪者扱いにして黙っているわけはないから論争や紛争が絶えず発生することになる。そうでなくても、他者が存在する限り自分の正しさをたえずアピールするために自分から他者を攻撃しつづけなくてはらない。他者は存在する事自体が悪だから撲滅しなくてはならないのである。歴史的な韓国・朝鮮の内部闘争は、敵の殺害、すくなくとも社会的抹殺に至ってやっと終了するのが常であった。
 その結果、韓国(朝鮮)国内では激烈な内部闘争がたえまなく起こり続け、外に対してはたとえば日本への終わる事なき攻撃と謝罪要求が繰り返されると言うわけであろう。この論理が正しいとすれば、韓国が対日批判と謝罪要求をやめるのは、日本と日本人がこの世から消滅した(あるいは消滅させた)ときである。
 さらに、「斥前王朝」、「衛正斥邪」の考え方では、客観的な事実認識は等閑に伏せられることになるだろう。最初から悪いのは他者と結論が出ているのだから。話がもとに戻るが、最近の日本の論調が韓国の真似かといいたくなるのはこのあたりにもある。以前の「韓国・朝鮮側の言うことが全て正しい」式の「自虐的」論調もこまったものだが、最近の「日本人はもっと自信を持て」式の論もまた、結論が最初に決まっている点は韓国側とそっくり同じだからである。ところで、自信を持てそうにない事実はどうするであろうか。

 この書評において、別にこれらの問題についての結論はない。結論を出せる問題でもない。要するに、文化の差である。ちなみに、黄氏は、「二つの国家、二つの社会があれば、歴史の見方が異なるほうが、むしろ当然だろう。(中略)その相違点の存在を知ることが、二つの国家、二つの社会を理解する第一歩ではあるまいか」と述べている(58頁)。まさにそのとおりであろう。文化に正しいも間違っているもない。違うというだけである。日本側としては韓国・朝鮮文化はそうであると納得するしかないのである。同時に、韓国・朝鮮の人々にも日本の文化についてもっと理解を深めてもらう必要があるというしかない。
 こう書けば簡単なようだが、他文化を、自分の属する文化の価値観から判断せず、しかも相手のそれに同化されることなく客観的に理解するのは頭で考えるよりずっと困難なのである。


(1998/12/22)
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