東瀛書評

『対論 日本人と中国人』
(保阪正康 陳沢禎著 光人社、1995年4月)

の本は近代の日中関係、とくに昭和以後のそれに関する対談である。日本側の保阪氏は昭和史研究を続けているジャーナリストである。対話者の陳氏は台湾のジャーナリストであり、辛亥革命時期に孫文の右腕といわれた陳其美の孫である。
 陳氏は、いわゆる外省人である。外省人とは、1949年の共産革命による中華人民共和国の成立によって中華民国国民党とともに大陸から台湾へ逃れてきた大陸部の中国人を意味する。それにたいして、それ以前から台湾に居住していた人々を本地人と呼ぶ。
 この本の特色と見所は、現在台湾に存在している外省人の立場からする近代中国史および日中関係史の評価や日本に対する見方がうかがえるところである。現在の日本では、大陸と台湾を含めた中国の意見で紹介されるのは大陸の党と政府の公式な見解か、台湾の本地人サイド(今日の国民党主流派および民進党)のそれが多い。そして、これから触れるが、陳氏の思想は李登輝総統就任以前の国民党と中華民国政府の見地なのである。

 さて、普通にいわれる所では、国民党は台湾へ渡ってきて以後、戒厳令を敷き、国会議員はその時のメンバーのまま終身とされ、また自由な報道や言論の自由は抑圧され、政党結成の自由をはじめとする諸人権は制限された。しかし本地人である李登輝総統の就任以降、戒厳令は解除され、台湾に敷かれてきたいろいろな制限が解除された。それとともに、それまで抑圧されてきた本地人と外省人の反目が表面化し、本地人のあいだには台湾独立を唱える動きがでている。そして、現在の中国国民党主流派と中華民国政府による台湾の位置づけは、表向き共産党と同じく台湾を中国の一部であるとし、中国の再統一を標榜してはいるものの、実際には実質的独立へ方向転換をすでに終えている。実質的とは要するに独立宣言をしないで実際には独自の国家として活動することである。
 これが通常の説明である。
 しかし、陳氏は全く違った観点を主張する。
 陳氏は、台湾人なるものは元来存在しないと断言する。台湾は中国の一部であり、台湾人とは中国人(あるいは中華民族)にほかならないという。そして、本地人と外省人の対立や「台湾独立」意識の出現は、すべて李登輝総統が自らの権力保持のために行った政治的陰謀でありその扇動の結果だというのである(p.123 )。1947年の二・二八事件は警察の理不尽な行動が原因の中国人同士の争いであって、本地人と外省人の反目を背景とした衝突ではないとも説明している(pp.127-129)。
 また、台湾本地人の見地に従えば、そもそも台湾人は中国人ではないし、であるから中華民国も中華人民共和国も自分たちには関係がないほかの国であるということになるのだが、陳氏はこれらの説を一蹴する。みな中国人であるから、国民党政権は台湾独立派がいうような「外来政権」ではない。中国人はひとつであり、中国はひとつなのである。
 さらに、辛亥革命後の中華民国の順調な発展を阻害したのが日本の干渉と侵略なのであると陳氏はいう。そのために蒋介石と国民党は自らの理想に反する行動や政策を行わなければならなくなり、結果として共産党につけ入れられる弱点となって、ついには、大陸から撤退しなければならなくなったという主張である。
 保阪氏との問答の過程で次第に浮かび上がってくる陳氏の思想とは、要するに、曲折はあったが全体としては正しい方向へ向かいつつあった辛亥革命後の中国は共産党革命によって未来の発達の可能性をつぶされてしまったということらしい。陳氏は辛亥革命が共産革命によって中断されなければ、現在よりもずっとすばらしい中国になっていただろうと明言している。ある箇所では三民主義は共産主義はおろか西欧の民主主義よりも優れているとさえいう(pp.138-140)。同氏が蒋介石に与える評価もきわめて高い。一方で共産党と共産革命へのそれはきわめて否定的であり、中華人民共和国の意義や価値をまったくといっていいほど認めていない。

 こうしてみると、陳氏は中国人一般の考え方であるという立場のもとに自説を述べるのであるが、これは李登輝総統以前の国民党と中華民国の公式見解にきわめて似ていることに気がつく。
 これは、陳氏とは何者かを考えてみれば当たり前のことである。
 くりかえすが、同氏は外省人である。しかも辛亥革命時期に孫文の右腕といわれた陳其美の孫であり、ということは国民党を創立したメンバーの家庭出身である。父親の陳立夫も国民党の重要人物だった。辛亥革命の意義と成果、そしてそれを担う立場とされた以前の国民党と中華民国の方針を積極的に支持し、また現在の李登輝総統の国民党と中華民国へきわめて批判的であるのは当然といえば当然であり、またそうしなければならない立場にあるはずである。李総統の政策や、ときに人格にまで厳しい批判の矢が向けられているのも、こう考えれば納得がいく。
 読者はこれら点を念頭に置いて氏の議論を聞く必要があろう。

 ところで、この対談において、保阪氏は基本的に聞き役に回っているようである。根本的に異なる観点からの論駁をほとんど行っていないという意味においてである。もちろんおおいに発言してはいるのだが、あくまで陳氏の論理に沿って議論を進めており、同氏の発言の不明瞭なところや、言及された事実の解釈の多様性を指摘する範囲に限られている。
 たとえば、陳其美とその息子であり陳沢禎氏の父親である陳立夫のことを語りながら、陳其美が秘密暴力結社青幇の首領だった事実や、陳立夫が頭目であった特殊機関CC団とそのテロ活動が言及されておらず、保阪氏もまたこれらの話柄に触れようとしない。これらは国民党・中華民国の歴史におけるいわば暗黒部である。すくなくとも褒められるべき事実とはいえない。陳氏の主張に対するアンチテーゼとしてこれらを持ち出しても良さそうなものであるが、保阪氏がそれをしなかったのは、もしかすると、対談相手に思うところを存分にのべさせようというつもりだったのかもしれない。

 最後に、私が個人的にやや物足りなく感じたのは、本書で民族問題に関してほとんど語られていない点である。大陸部のそれについては全く言及がない。台湾が中国である以上、台湾の人間は高砂族も含めて中国人であるとわずかに述べられて(p.120)いるだけである。
 しかしこれもまた当然かもしれない。
 陳氏は中国人を中華民族をいいかえている(p.120)が、中華は民族名ではなく地域の名である。それからすると氏のいう中国人とは中国という名の国家の領域に居住する人間のことらしい。そう考えれば同氏の高砂族も中国人だという主張も納得がいく。これは民族の呼称ではないのである。
 この立場にたてば、中国国内に存在する人間はすべて「中国人」となり、民族問題などというものはそもそも存在しないのだ。


(1998/6/21)
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