曹長青評論邦訳集  張学良論


7.張学良自身は西安事件をいかに評価していたか

『多維網』 2001年11月1日

 郭冠英はいう。
 「張学良という人物を、大陸はきわめて高く持ち上げ、台湾はきわめて低くおとしめる」
 台湾では張は‘千古の罪人’とされている。この評価は彼の起こした西安事件が共産党の最終的な勝利を導き出したという理由によるものである。
 だが唯我独尊で独裁的な蒋介石の性格と、当時の国民党の腐敗無能のありさまを考えれば、逆に西安事件がなければ共産党は中国から消滅していたはずだとは、軽々に断言はできないであろう。
 一方、大陸側の張に対する‘抗日の民族の英雄’なる評価は、政治的な都合によるものであって事実に基づくものではない。事実は、西安事件が蒋に抗日に踏み切らせたのではなく、全面的な抗日の開始を早めたにすぎない。蒋介石はいずれ抗日に踏み切る積りだった。そのための精密な計画も持っていたからである。
 西安事件は蒋からそのための準備時間を奪った。そして彼の計画を破綻せしめた。ひいては西安事件は、かえって日本人に利した。そして中国人はおおいなる災厄に見舞われた。
 抗日戦があらゆる局面において呈した惨烈さは、中国側の準備不足のためである。
 「中国の抗日開始は早すぎた。もしもう五年遅ければ状況はまったくことなっていたはずだ」。
  許倬念(シカゴ大学歴史学博士)の言葉である。
 ‘五年’とは1941年の日本軍による真珠湾攻撃までの年月を指す。中国の抗日戦争は米国が対日宣戦布告するまでのあいだ、まったくの孤立無援の状態で戦われ、戦況は悲惨で、膨大な数の犠牲者が出た(ちなみに8年にわたる日本との戦争全期間の中国人の死者数は兵士300万と民間人1,000万である)。
 西安事件は中国と中国人にとって害こそ為したが何の利益にもならなかった。 張学良の行為は、一見愛国的行動に見える。しかし結果を見ればおそるべき反国家的行為だったとしかいいようがない。

 無知で聡明でもない張学良に共産党がのちのちあれほどの残虐な専制政権をうち立てようとは予想できなかったのは当然ではある(だが当時の知識人と呼ばれた人間たちまでが共産党を支持したのはどういうわけか?)。
 いったい、張学良は共産党についてどんな認識を抱いていたのか。
 彼は、西安事件が紅軍に利し、その結果共産党が中国の歴史の進路を大きく変化させることになったことを認めている。同時にその責任を感じてもいる。ところで、共産党が西安事件によって躍進の機会を掴んだというのはあくまで一個の仮説であるが、共産中国治下の中国で迫害あるいは飢餓によって8,000万の人名が失われたのは厳然たる事実である。ところがこの事実に関しては彼の口からいかなる感想も聞く事が出来なかった。どうも、彼は何の責任も感じていないのである。
 1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は、「(事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」 と断言している。(香港『百姓』半月刊、1994年月1日)
 また私たちとのニューヨークにおける懇談で、張は、蒋介石の‘安内攘外’政策は間違いで、自分の連共抗日方針が正しかったのだと断言した。もし蒋介石が張のこの意見を受け入れなかったのであれば、張のこの信念は実現の機会を与えられなかったことになり、いまでも主張するのは可能性として間違いではない。しかし蒋介石は張の言うとおりにしたのである。その結果、紅軍は息を吹き返し、のちに共産党は中国を制覇した。――そしてこんにちの悲惨な状況がある。
 とすれば、自分が正しかったという張の結論はいったいどこからでてくるのか。彼は共産党の大をなすのを望んでいなかったのではないのか。
 先ほど名前の出た陸鏗は、張学良について、「中国に対して恥じるところはないが自らに対して恥じるところがある」と書いている。だが中国現代史において、共産党員を除けば、張学良ほど中国にたいして恥じるべき人間はいないであろう。
 「中国と台湾の今後どうなるかにかかわらず、将来、張学良は英雄ではなくなるだろう」(台湾の作家柏楊の張学良評)
 ‘大事に愚か’という蒋介石の張学良に対する評は、まさに的を得ているとしかいいようがない。

 父親の後を継いだ張学良は‘少帥’と呼ばれた。この呼称が連想させるのは千軍万馬を率いる颯爽とした若き指揮官の姿であるが、張学良の実際はそれとはかけはなれていた。張の崇拝である郭冠英でさえ、「満州事変までの張は麻薬と女色にうつつをぬかし、彼に対する世間の印象はきわめて悪かった」と認めざるをえないほどである。この‘少帥’が率いることになった東北軍は、ソ連軍と戦火を交えて敗北、五個師団が壊滅、陝北での剿共戦では直羅鎮・楡林の戦闘で紅軍に敗北、二個師団が壊滅というていたらくである。そして張の司令官ぶりといえば、たとえば熱河戦のおりにはこういうありさまだった。
 「(張は)宋子文とともに前線に赴く途中、15キロごとに乗っている車を止めさせてモルヒネを注射した。(略) 彼は毎日100本注射した。通常の人間なら10本で死ぬ量である。(略) ある作戦会議で、彼はオーバーのポケットのなかの命令書を出すのを忘れて、その命令を下さなかった。また、張は自分の部隊がどこにいるのか知らないと言った。これでどうやって軍を指揮するというのか」(畢万富「新発見によって張学良の抗日の主張を論ずる」四の二、米国『世界日報』、1996年1月16日) 
 張の死後、『ニューヨーク・タイムズ』は長文で彼の死を報じたが、その評価は手厳しい。「張学良は東北軍20万を擁しながら、抗日などよりも、ムッソリーニの娘にあたる当時の中国公使の妻と浮き名を流すほうに熱心だった」。

 張学良は1955年にキリスト教に入信している。宋美齢の勧めによるものである。だがキリスト教の根本にあるはずのみずからの過ちに対する懺悔の意識が張にはまったく見られない。だから私は彼をキリスト教徒とは認めない。
 郭冠英いわく、「張学良には後悔の念は皆無である。彼はおおっぴらに自らの正しさを主張することはないが、『してしまったことはしてしまったことだ。後悔するしないの次元の問題ではない』と言う」。(『張学良側写』)
 ニューヨークの懇談で、李勇(『紐育新聞報』編集長)が張に、共産党中国における中国人の死者の数は抗日戦争時期のそれよりもはるかに多いと言うと、張はこう答えた。
 「政権を維持するために国民の命を犠牲にするのはどの政府でも同じです」
 今度は私がその当時まだ起こって間もない天安門事件についての意見をたずねると、
  「テレビを見ないのでよく知りません」。
 それから、
 「何事につけ、一方のいいぶんを鵜呑みにするのはよくありませんよ」
 この返事は、私をして彼のキリスト教徒としてどころかそれ以前の人間としての資質を疑わせるに充分であった。

 蒋介石の張学良にたいする仕打ちは違法である。また人道的にも非難にあたいする。しかし共産党中国に残されて、迫害されあるいは生を失った無数の国民党関係者にくらべれば、張学良を見舞った運命など天国のようなものである。彼は肉体労働に従事させられることもなかったし、公衆の面前で侮辱されることもなかった。思想改造を受けさせられることもなかった。衣食住の心配どころか、軟禁の最初の三年間は妻だけでなく妾までいるという結構な身分だった。(于鳳至夫人が病気治療のために米国へ去らなかったら、張がキリスト教に入信して以後もこの状態が続いたかもしれない。)
 張学良は幽閉の長い年月のあいだ平穏な毎日を過ごしながら、中国人全体を見舞った運命のことは考えなかったとしても、大陸に残された国民党員や国民政府軍の兵士たちのことに思いをはせることはあっただろうか。台湾海峡をはさんで家族が離ればなれになった彼らの運命を。あるいは様々な辛酸をなめながら生き延びてきた彼らの人生を。ふたたび家族が相まみえる時、お互いのかんばせにはもはや昔のおもかげは失せていたであろう彼らの一生を。
 ひょっとしたらこれらの人々のことも一度も考えなかったかもしれない。
 だがさすがに弟は別であろう。
 1978年だったか、あるいは79年だったか、私は張学思に関する回想を読んだことがある(著者の名は失念した)。その回想録には、文化大革命のさなか拘禁され、暴行を受けて死に瀕した張学思が、故郷の食べ物のトウモロコシとジャガイモを食べさせてくれと獄吏に頼んだ逸話がしるされていた。しかし張学思はこんないまわの際のささいな希望さえも叶えられずに死んだ。
 張学良の視線は八千万の中国人の死に対して冷静であるが、弟の悲惨な死にもはたしてその冷静さを保てたか。張の言葉「政権を維持するために国民の命を犠牲にするのはどの政府でも同じです」の、その‘国民’のなかに、果たして張学思は含まれているか。

 張は長い軟禁の年月のあいだ彼の側から離れなかった趙一荻をどう思っていたのだろう。
 張学良のいわゆる数奇な生涯のなかで、ひときわ余人の興味を引くのは彼と趙一荻との愛情関係である。
 米国へ来てのち、張学良はヴォイス・オブ・アメリカのインタビューで、「あなたは彼女についてどのような感情をお持ちですか」という質問に対してこう答えている。
 「彼女は愛嬌のある女性です」
 張にとっての趙一荻はバーで隣に座って話し相手になってくれるホステス程度の存在にすぎなかったらしい。
 また張はこうも言っている(これは張が同郷人の祖炳民に語った言葉である)。趙一荻は自分のために一生を捧げてくれたが自分が本当に愛したのは彼女ではない。自分の最愛の人はニューヨークにいる。
 台湾の『中国時報』(インターネット版)が最近、「張学良と4人の女性」 という文章を掲載した。この4人とは、一人は張の母親、一人は夫人の于鳳、三人目は趙一荻、のこる一人は宋美齢を指す。この文章のいうところに従えば、ニューヨークにいる最愛の人とは宋美齢のことになる。
 商売女との遊びしか知らない、馬賊あがりの無教養な張のような男が、米国で教育を受け気品にあふれる宋美齢のような女性に惹かれるのは不思議ではない。だが当の宋美齢が張をどう思っていたかは別の問題である。張の死に接して宋美齢は沈黙したままだった。ちなみに張学良がニューヨーク滞在中に宋美齢を訪ねた形跡はない。
 陸鏗が趙一荻が陸に語ったという言葉を教えてくれたことがある。
 「私は蒋さんに感謝しています。行動の自由を奪われていなかったら、張は衰弱死していたでしょう。晩年になっても張の性欲は衰えなくて、機会があれば相手構わず女性に手を出そうとしましたから」
 セックスにふけるよるほかに自己の存在を示すすべがなかったであろう張の境遇を考えると同情すべき点もある。だが、見さかいもなく女性を御そうとする男を伴侶にした女性はたまったものではなかっただろう。
 73年も連れ添い(そのうち35年は日陰者扱いだった)、一生を捧げた挙げ句の感謝の言葉が‘愛嬌がある’で、そのうえ本当に愛しているのはおまえではないと言われた趙一荻は、哀れとしかいいようがない。
 
 張学良は101才まで生きた。しかし彼はただ生きただけで、おのれの人生からいかなる教訓もくみ取らなかったようである。
 1994年2月のこと、ハワイで行われた張を囲む華人集会において、張は自分の一生をこう総括した。
 「私が生涯かわらず愛したものは三つあります。ひとつは麻雀を打つこと、ひとつは冗談をいうこと、ひとつは好きな歌をうたうことです。この三つがあれば退屈しません」
 なんと低級にして卑俗な精神であるか。これが、中国が‘民族の英雄’と讃える人間なのである。
 
  古えより英雄 多く色を好むも
  未だ必ずしも色を好むは尽くは英雄ならず
  我 絶えて英雄漢に非ざれども
  惟だ色を好むの英雄に似る有るのみ

 この人物が好んで揮毫した詩である。
 張学良という人間の一生はここに尽きている。本人も、そう思っていたのかも知れない。  (了) 

(2002/1/13)
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