曹長青評論邦訳集  張学良論


6.事変後、なぜ張学良はほぼ一生の間、軟禁状態に置かれ続けたのか

『多維網』 2001年10月30日

 蒋介石と南京へ同行した張学良は軍法会議で‘脅迫罪’の罪名で懲役10年の判決を受けた。しかし翌年には特赦となっている。
  ところが現実にはその後の長い年月を‘拘束’――事実上は幽閉である――されつづけた。張が自由の身になったのは蒋介石が死に、さらに息子の蒋経国も死去して後、李登輝が総統となってからである。
 蒋介石は西安事変によって部下を殺された。そしてなによりも面目を失った。張の行動は、国民政府の法律に照らしても、また伝統的な中国の倫理からいっても、あるいは上司と部下のありかたからしても、当然罰せられるべきものである。現に、当時の中国で軍法会議の判決に異議を唱えた者はいない。一例を挙げると、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。
 しかし蒋介石が法的手段によらず、いわば私刑をもって張に対処したのは容認できない。張は特赦を受けたにもかかわらず蒋は張を釈放せず軟禁しつづけた。蒋は、法を無視したのである。
 この蒋介石の行動に関して弁護論が存在する。あの時張学良を釈放していれば東北軍は共産軍に加わっていただろう、あるいは台湾へ移ったあとで張を自由にしていれば李宗仁〔訳者注。1890-1969。軍人・政治家。もと国民政府副総統、総統代理。1949年の中華人民共和国成立後、香港をへて米国へ亡命。のち中国へ帰国した〕のように共産党に呼応し、台湾統一の敵対する側に回っただろうというものである。しかしながらこれらは一個の仮説のうえに立ったにもとづく議論であるであるうえに政治的な側面しか見ない論である。法律が蹂躙されたという事実にはまったく顧みるところがない。さらに個人の自由を故なく剥奪したという重大な問題についてまったく等閑に付している。
 楊虎城に対する蒋介石の行動は、張にたいする処置よりも一層無法である。楊は秘密逮捕ののち、裁判なしで長期間拘束され、最終的には殺害された。楊のまだ幼かった子供まで殺された。楊の秘書の宋綺雲も、家族ともども同様の運命をたどった(このとき殺された宋の子供が『紅岩』〔小説の題名。羅広斌・楊益言著〕に出てくる‘小羅卜頭’のモデルである)。楊と宋が共産党員だから処刑したというのであろうか。ならば10才にもならない子供たちには何の関わりもないであろう。だいいち、その楊や宋にしても、裁判を受けさせるべきだったのは言うまでもない。蒋の取った行動は、王朝時代の皇帝が行う一家誅滅となんら変わるところはない。

 興味深いのは、張学良本人に、蒋によって強いられた数十年間にわたる軟禁処分に対してすこしも恨む色がないことである。
 私と張がニューヨークで懇談した際、張はこう述べた。 「私が十数年間を自由を奪われて過ごしたのは当然です。私が蒋介石だったら張学良を銃殺してしたでしょう。なにしろ反逆したのですからね。しかしあの人は寛大にも私を殺さなかった。私の人生の最大の痛恨事は蒋氏が楊虎城を殺したことです。殺されるべきは私だったのですから」
 つづいて張学良は父親張作霖が彼に諭した、「軍人は生死を超越しなければならない。首を腰のベルトにぶらさげておくのだ。死を視ること帰するがごとくせよ。学良よ、これを生涯忘れるな」という言葉を紹介した。
  「軍人の反逆は死罪が当然であるのにもかかわらず私は生かされた。40年の幽閉など当然のむくいです」
 張学良が米国に移住すると、中国政府は張にたいしてたびたび帰国の呼びかけを行っている。彼は私たちに、張と講武学童の同窓だった呂正操が中国を訪れた張の姪(台湾在住)に、中国へきて一族や友人と再会してはどうかという彼への伝言をことづけたという秘話を語った。呂は、中国で軍人をへて鉄道部の部長にまでなった人物であるが、文化大革命の時期に張の弟の張学思とともに‘東北幇’として禁錮されている。呂が張の姪に語ったところによれば、自分は我が身かわいさから何でもいいなりに認めたが、張学思は断固として自らの罪状を認めなかったので紅衛兵の暴行を受ける結果になった。張学思は自分は無実であると言って譲らず、さらには紅衛兵を罵ったため、激昂した紅衛兵によって殴り殺されたという。
 私たちに、張学良はまた、北京アジア競技大会〔訳者注。1990年〕の開幕式に当時の楊尚昆国家主席が彼の家族を貴賓として招待した際、楊が張の姪と特別に会見して、張がもし中国訪問を希望するのであれば特別機を用意して台北へ迎えに行かせようと語ったという話も披露した。
 これらの話を私たちに語ったあと、張学良はこう言った。
 ――中国へ帰るのはもとより私の宿志であって、故郷の人々にも再会したいし、父親の墓にも詣でたい。だが騒がれるのは望まない。自分はとうの昔に政治の世界から離れた。自分のただ一つの望みは、世間で自分の名前が忘れさられることだ。自分は、二度と複雑な政治の世界に振り回されることもなく、記者が自宅に押し掛けることもなく、取材されることもない一介の庶民になりたいのだ。空に浮かぶ閑々たる一片の雲と俗世から遠く離れた野に佇む鶴が、今の自分の理想の境地である。だから、今の自分は‘閑雲野鶴’という号を名乗っている。
 呂正操はのち、ニューヨークにまでわざわざ来て張学良に帰国を勧めている。しかし張はその勧めに応えず、ついに故郷の土を再び踏まずにその生涯を終えた。

 なぜ張はついに中国へ帰らなかったのか。
 中国の政治事情が安定したら帰国するつもりであると張は私たちに言った。私が彼と話していて感じたのは、蒋介石に対して取った行動を彼がつよく後悔しているということである。彼はしばしば自分の行為を形容するのに‘愚かな衝動’という言葉を使ったが、これすなわち後悔の念の表れなのあろうと私は推測する。
 彼は、西安事変は‘大変な災いを引き起こした’と言い、さらに自分を指して‘罪人’とも形容した。
 張は、西安事変の勃発は共産党を喜ばせ、そして紅軍に中国を制覇する大きなチャンスを与えたことを承知しているのである。いま中国へ帰れば‘功臣’として大歓迎され、嵐のような賞賛を受ける。しかし彼はそれを望まないのであろう。とはいえ、もし彼が西安事変の挙に出たことを後悔しているなどと発言すれば中国政府にとってはたいへん具合が悪いことになる。双方にとって不都合なのであればいっそ帰らないほうがよいというのが張の結論だったのであろう。「中国の政治事情が安定したら帰国する」という発言の真意はこれではなかったかと思われる。
  だが、中国で‘政治事情が安定する’日が本当に来るなどと張は本気で思っていたのだろうか。

(2002/1/9)
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