曹長青評論邦訳集  張学良論


5.西安事件で責任を負うべき者は誰か

『多維網』 2001年10月29日

 西安事変は中国2000年の歴史上、特異な事件である。歴史上ほかに類似の例を見ない。
 兵諫は要するにクーデターである。しかしクーデターでありながら政権交代はなくリーダーに自分の意見を受け容れさせようとしただけだった。しかも武力を背景として強制的に交わさせられた約束が、立場が逆転した後もそのまま守り続けられるという、信じがたい経過をたどった。

 張学良は、蒋介石をとらえる前、部下に計画をうち明けた際、「とらえた後どうするのですか」ときく王以哲に、「つかまえてから考える」と答えた。これほどの大事を、やってから考えるとはどういうことであろう。蒋介石を南京へ帰す際、張が同行すると決めた際も、それを止める部下に、送っていってから考えると答えている。これらの事実が示しているのは、張学良の信じられぬほどの無計画で衝動的な性格である。これほど愚かな人物が一国の政治軍事の指導者になった例は人類の歴史上ほかにあるまいとさえ思える。もし張学良のようなリーダーがまた出現したとしたら、今度こそ中国は滅びるであろう。

台湾の作家郭冠英に『張学良側写』という著がある。郭は張学良のファンで、張とは“非常に親しい”そうである。だがその郭でさえ、張のことを“お坊ちゃん気質丸出しで、こらえ性がなく、後先を考えずに行動する。このような人間と事を共にするのは、まさに‘上司には頭痛の種、部下には不幸’というものである”と評している。(『世界日報』週刊、米国、1996年12月29日)
 しかしながら、張学良にまったく計画がなかったとはいえない。中国の公表した資料によれば、西安事変の以前、張は周恩来をはじめとする共産党のメンバーと秘密会談を行った際、張は、“君たちが外部から圧迫し私が内部から迫って両面から蒋を締めあげよう”と提案しているからだ。
 ここで既出朱永徳氏の言うところを聴くことにする。「張学良は共産党への入党を真剣に要求した。コミンテルンが張の入党希望を拒否した資料もすでに公表されている。しかしこの資料自体が張と共産党のあいだの関係の程度を窺わせるに十分な材料であ」り、だからこそ張は、西安事変にふみきったあと、「モスクワが自分の行動を賞賛し、躊躇なく軍事支援を与えてくれると期待した」。
 だが張の期待に反してソ連は激怒した。『プラウダ』や『イズヴェスチア』紙は社論で張学良および楊虎城の行動は中国を内戦に導き、日本に漁夫の利を与えるものだとして厳しく批判している。
 事変発生後の4日目、ソ連共産党は中国共産党に電報を発し、事変の平和的解決を要求している。
 エドガー・スノー の『中共雑記』に、宋慶齢がこの時期のことについてスノーに語った内容が記されている。「(私は)スターリンからの電報を毛沢東に届けました。その内容は、中国共産党が(張学良に)圧力をかけて蒋介石を釈放させるよう要求するというものでした。」
 張国Zの回顧録にもスターリンからのきわめて激しい内容の電報が届いたという証言がある。
 また、当時コミンテルンの代表だったジミートロフの日記にもこう書かれている。 「張学良の行動はその意図にかかわらず、客観的に見れば中国人民を抗日・統一戦線に結集するうえで妨害となり、日本の中国侵略に拍車をかけるだろう」 (華譜 『中国党史最新史料』)
 蒋介石を延安に連行して裁判にかけるつもりでいた毛沢東は、ソ連の圧力によってやむなく周恩来を西安に派遣し、周をして張学良に蒋介石を釈放するよう説得させざるをえなくなった。
 張にとっても、蒋の釈放は楊虎城を除いては誰も支持者のない、やむを得ざる決定だったのである。

 ニューヨークで、張学良は私に、周を大政治家であると評した。また、“てきぱきとした話し方をし、ものごとに対する反応が素早く、非常に機敏”であると賞賛した。“彼と話すと、ほんの数語で彼はすべてを理解しました。”  もっとも、張はこう付け加えた。周は最初蒋介石を捕虜にすべきだと力説しながら、あとになると釈放すべしという正反対の意見に変わったと。
 しかしながら責められるべきは“大政治家”たる周ではなく、“馬賊の小頭目”たる張のほうであろう。張には自分の考えというものがなく、他人の意見にすぐに左右されてふらふらと揺れ動いた。

 西安事変ののち、蒋介石が張学良を評した言葉がある。
  「小事に賢明だが大事に愚かである」
 西安で部下が蒋に変事が起こる可能性ありと報告し、一刻も早く西安を離れるよう進言したとき、蒋は「あいつに何ができるものか」と言い放って取り合わなかった。蒋介石は剛腹を自認していた。
 ニューヨークの私たちとの会見において、張自身、自分は東北の“白帽子(東北方言で阿呆の意味)”であると言っている。
 その張は蒋介石のことを、“遠大な方略はあるがそれに見合った才智がなかった”と評している。
 西安事変の起こった原因の大半は張学良にあるのはもちろんだが、“遠大な方略はあるがそれに見合った才智がなかった”蒋介石も、責任の一端をになわなければならない。
 東北地方における対日不抵抗方針は張学良・蒋介石の合作であるにもかかわらず張ひとりが“不抵抗将軍”なる汚名を着せられる結果になったのだが、蒋は張の苦境をまったく救おうとしなかった。そのうえ、“わが家は東北、松花江のほとり”という歌を口ずさんで故郷へ返る日を一日千秋の思いで待つ東北軍を共産党掃討に追いつかい、損害がでても兵力の補充もしなかった。これでは張が蒋に不満を抱き、ついには信用しなくなるのも当然である。そのうえ、抗日開始を進言する張に、「私が死んでからやれ」だの「私の読書の邪魔をするな」だのといった、まるで張をわざと愚弄するかのような叱責をその都度加え続けた(張は陸海軍副総司令だったのだから、張には本心をうち明けておくべきだったのではないか)。妻の宋美齢ですら、この時の蒋を、「他人を思いやるということを知らないから、ああいう事件を招く結果になった」と批判しているのである。張学良を小事に賢明で大事に愚かであるといった蒋介石もまた同じそしりを免れることはできない。
 蒋介石は、張学良が自分の計画を破綻させたと思ったにちがいない。だが計画を現実に破綻させたのは、まさに蒋その人だった。
 南京に帰ってきて以後、蒋は“安内攘外”政策を変更するという約束を守り(それも文書ではなく口頭での約束にすぎない)、紅軍を国民党軍の一部隊として承認し、正規軍として軍編制に加え、兵器や食糧を補給している。
 つね日頃、“匪〔訳者注・ごろつき、強盗といった意味。匪賊の匪〕”と呼んでいた相手との、しかも銃で脅されて挙げ句の約束を守った蒋介石は、愚か者でなくて何か。
 張が阿呆なら蒋はそれに輪をかけた阿呆であろう。こんな愚かな人間を正副司令に戴く国民政府軍が紅軍に負けたのは当然であった。

(2001/12/25)
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