曹長青評論邦訳集  張学良論


4.西安事件はいかなる結果を生みだしたか

『多維網』 2001年10月28日

 西安事変の一年前、紅軍は江西での第五次剿共作戦に敗北して長征を余儀なくされている。その間の兵員の損失は莫大なものであったうえに、事変以前に張国Zが数万を引き連れて分派していたから、陝西にいた毛沢東の手元の紅軍は2万人にも満たない状態だった。それに対して国民党中央軍、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍は合わせて33万人であった。紅軍は空前の危機的状態にあった。だが西安事変によって状況は一変し、紅軍は討伐を受けることはなくなり、八路軍および新四軍として国民政府の正規軍となった。その後八年間の抗日戦争期間を通じ、毛沢東は“三分の抗日、八分の発展” 政策を遂行した。戦争の終結時には紅軍2万は八路軍90万、新四軍30万に、つまり共産党は120万人の軍隊を擁するにいたっていたのである。
 松本一男はその著で言う。「西安事変で最も利益を得たのは共産党である。蒋介石は国家元首としての面子を失い、張学良は半世紀にわたる軟禁の生涯をすごすことになった。楊虎城は悲惨な最期を遂げた。だが共産党は、まさに西安事変のおかげで、息を吹き返し、勢力を拡大し、ついには中国を支配することができたのである」 、「中国共産党の今日あるは、張将軍のおかげである。共産党はそれを分かっているからこそ、張学良を‘千古の功臣’と見なしているのである」(『張学良與中国』、台湾新潮社、1992年版)
 〔訳者注。『張学良與中国』は、同じ著者による『張学良と中国』(サイマル出版会、1990年)の中国語訳名〕

 張学良の起こした西安事変が共産党にとってこのうえもない起死回生の機会であったことに異論を唱える人間は絶無であろう。
 抗日戦争は、たとえ西安事変がなくてもいずれは勃発したには違いない。その過程で共産党にも勢力挽回の可能性が十分にあったであろう。だが現実の歴史において西安事変が紅軍にとり起死回生の絶好の機会であったことは疑う余地がない。
 胡適は、「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。(略)西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。
 事変の二日目、胡適は張学良にあてて電報を発している。そこで胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難であること、もし蒋介石に不幸があれば中国は20年あと戻りすることになるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蒋介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張学良は“国家と民族の罪人”である。胡適は厳しい語気で張学良に警告している。
 費正清〔訳注。ジョン・K・フェアバンクの漢字名〕は、その最後の著作となった『中国新史』(China: A New History)でこう書いている。
 「もし日本が全面的な中国侵略を開始しなかったなら、南京政府は中国の現代化を進めて行くことが出来ただろう。しかし現実はそうはならなかった。そして抗日戦は毛沢東と共産党に絶好の機会を与えたのだった。農村地域において共産党は独裁的勢力を築きあげ、国民政府によって発達されつつあった都市文化の影響を排除した。抗日戦の過程で、共産党は階級戦に備えて、あらたな形態の中国の建設を着々と推進していった」
 〔訳者注。『中国新史』、台湾正中書店、1994年。“China: A New History”, Harvard University Press, Enlarged Edition, July, 1998. 邦訳名『中国の歴史―古代から現代まで』、大谷敏夫、太田秀夫訳、ミネルヴァ書房 、1996年〕

 西安事変のいまひとつの結果は、蒋介石が予定より早く抗日に踏み切らざるを得なくなったことである。そのために中国人は自らの血と肉で“新たな長城”を築かねばならなくなった。
 これについて、黄仁宇は著書〔訳者注。前出『従大歴史読“蒋介石日記”』を指す〕のなかで嘆じている。
 「実質的には統一されておらず、農村を社会の根幹とする、産業の未発達な国家が、先進工業国を破った例がいまだかつてあっただろうか」  「戦争が開始されると、中国側は、飛行機の燃料をすべて輸入に頼るほかないことが明らかになった。爆撃弾も国内では製作できず、飛行機のタイヤも補給できず、飛行機があっても使用不能だった。(略)淞滬戦役の10週間で中国側は85師団(ほぼ50万人だ!)の兵力を失った。中国軍の防御線は日本海軍の軍艦砲の射程距離内にあった。(略)徐州戦役ののち、中国軍ができることは、黄河の決壊や長沙での大火災といった方法で日本軍の進軍を遅らせることだけだった(略)」
 中国軍は日本軍の飛行機やタンクや大砲に立ち向かえる武器をなにひとつ持っていなかった。兵士たちには身体に手榴弾をぶら下げてタンクの下に潜り込み自爆する戦法しか対抗手段はなかったのである。
 抗日戦は、彼我の実力の懸絶によって戦況は惨烈を極めつづける。そして中国側がその懸絶をなんとか血と汗で補おうとする悲壮さが、全期間を彩るのである。
(2001/12/22)
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