曹長青評論邦訳集  張学良論


3.なぜ張学良は兵諌の挙に出たのか

『多維網』 2001年10月27日

 熱河省の失陥後、中国国民は政府を無能として激しく攻撃し、対日不抵抗主義は囂々たる世論の非難に曝された。
 王朝柱という中国の作家が書いた『張学良と蒋介石(張学良和蒋介石)』(台湾国際村文庫書店、1993年)という書籍に、王卓然という張の秘書だった人物の日記が引用されているが、そこには熱河の失陥後に行われた蒋介石・張学良間の密談が記録されている。
  それによれば、蒋介石は、以下のように張に説いている。

   我々は(曹注。蒋と張を指す)同じ小舟に乗っているようなものだが、現在の国民感情はきわめて激昂している。つまり風浪がはげしく、ひとりが船を下りなければならない状況だ。さもなければ船が沈んでしまう。情勢が落ち着いたら君もふたたび乗りこむことができるだろう。

 張はこう答えた。 「私は肉体的にも、また精神的にも問題があります。東北地方を失い、(略)このたびさらに熱河をも失ったのは、ひとえに私の責任です。辞職させていただきます」。
 そして、張はヨーロッパへ“視察旅行”に出、こうして張学良は“不抵抗将軍”という不名誉な呼称を冠せられることになった。

 (この汚名は彼の兄弟にも波及した。1996年6月1日付け『文匯読書周刊』に、劉永路という人物が張の四番目の弟である張学思関係の資料を整理して発表している。そのなかに、満州事変の際、下着に“不抵抗将軍の弟”と墨で落書きされて屈辱に耐えかねた張学思が、兄のいる北京〔訳者注。北京の当時の呼称〕順承王府へ赴き、下着の件を告げて、兄の不抵抗方針をなじったというエピソードが見える。のち張学思は、中国人民解放軍の海軍参謀長になったが、文化大革命の際に批判され、紅衛兵に暴行されて殺された。)

 事態不拡大と不抵抗は蒋介石と張学良の共同方針である。それにもかかわらず、張だけに責任が問われることになったのであるから、張の精神的苦痛は想像に難くない。
 欧州旅行から帰ってきた張学良は、西北剿共副総司令の役職を与えられて、抗日の前線へではなく共産軍の掃討を命じられた。張は日本軍と戦うことによって不抵抗将軍の汚名をはらしたかったにもかかわらず、その願いは叶えられなかったのである。さらに、張麾下の東北軍は共産軍と2度戦ってどちらも大敗し、2個師団が壊滅という惨憺たる結果になったのだが、蒋介石は兵員の補充を行わずに消滅した師団を編制から抹消した。これで張は、蒋の意図は、中央軍は温存しつつ、共産党討滅が成功すればそれでよし、失敗しても東北軍を弱体化させることができるというところにあるのではないかという疑いを抱くようになった。
 張学良は、父親の爆殺後、その後を継いで東北軍の指導者となった。張は年少のころから勉強がきらいで、阿片と女性にしか興味がなかった。彼の知的水準は、胡適はおろか、街頭で反日デモに加わっている学生にもはるかに及ばなかったであろう。そんな彼に蒋介石の深謀遠慮を察知できるはずもなかった。現に後日、蒋介石の日記を読んだ彼は、蒋が周到な準備のもとに抗日戦略を進めていたこと、張もまた蒋の戦略における重要な一翼を担わされていたことを知って愕然とするのである。

 実は、いま述べた以外にも張学良には西安事件を起こすに至る密かな動機があった。それは、兵諫によって蒋に抗日を承諾させたあと、紅軍および西北軍と連合することによって割拠状態を作り出すという目論見である。張はこれによって不抵抗将軍という汚名を挽回できるうえに、蒋と対抗できる地位に立てると踏んだのである。
 張は、周恩来と接触した際、周から張の率いる東北軍を主力に、それに西北軍を併せたうえで共産軍が協力する西北聯軍を結成すること、南京政府から独立した西北抗日連合政府を設立するという提案を受けていた。西安事件において張が蒋に要求した内容のなかに剿共の即刻停止と抗日作戦の速やかな開始のほか、西北聯軍の結成および西北抗日連合政府の設立といった政治的な項目が含まれているのはこの背景から解釈すべきである。
 張が周の提案に乗ったのには、張がすでに東北への帰還を断念していたことも理由に挙げられる。張には、この目論見が成功すればソ連からの軍事援助を受けることができるほか、西北で覇を唱えることができるという計算があったであろう。当時の東北軍約20万に、西北軍3万、紅軍の2万を合わせれば、蒋介石も軽視できない勢力になるはずだった。
 周恩来は、張に対してあらんかぎりの敬意を払った。周は張を“張将軍”と呼んだ。周は張に、西北軍と紅軍が東北軍に合流したあかつきには全軍こぞって張を西北地域の王に推戴するであろうかのような幻想を抱かせようとしたのである。 (最近の史料によれば、張学良は周との最初の会談で、“見面礼”として2万大洋〔翻訳者注。当時の1元銀貨〕と20万法幣〔訳者注。1935年以後、国民党政府が発行した紙幣〕を贈っている。この事実は、張学良が共産党の何たるかについて全く理解を欠いていたということの証左である。張には紅軍は自分たちとおなじ地方勢力のひとつというぐらいの認識しかなかった。“見面礼”は当時の馬賊間の儀礼である。)
 米国ニューヨーク州にあるロチェスター工科大学の朱永徳教授(中国史)はこの点をめぐり、西安における「西安事変60周年研究会」において発表した論文のなかで、ある問題提起を行っている。
  「張学良は当初、蒋介石が内戦を即時停止し抗日に踏み切ると約束した場合、蒋を解放するつもりでいたのだろうか。今日明かにされている史料からは当時計画されていたことは西北聯軍の結成、西北地方の大連合実現、西北抗日政府の設立だけなのである」

 張学良は父親の張作霖が設置した軍人教育施設である講武学堂を卒業するとすぐに旅団長〔訳者注。巡閲使署衛隊旅団〕に任ぜられている。わずか19歳の若さだった。しかもその年の末には陸軍少将に昇格した(どこの軍隊にこんな昇級のしかたがあるか!)。西安事変の際は張は36歳、その時には陸軍一級上将になっていた。これは蒋介石につぐ中国の最高軍事指導者の地位である。
 ニューヨークで懇談したおりに、張はみずからの性格をこう形容した。
 「東北人にはよいところも多いですが、欠点も多いです。軽率で、衝動的で、詰めが甘い。私の性格はまさしくこのとおりです。人が一度しくじるところを、私は二度しくじります」
 もし張学良がもっと知性的で、もし張学良があれほどの兵権を持たず、またもし張学良がこのような性格でなかったら、西安事件は起こらなかったといえる。反対にいえば、西安事件は、起こるべくして起こったのである。
(2001/12/9)
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