曹長青評論邦訳集  張学良論


2.なぜ蒋介石は抗日に同意しなかったのか

『多維網』 2001年10月26日

 東北地方を失った後、張学良の抗日の主張に蒋介石はなぜ賛同しなかったのか。
 当時の中国民衆の間の日本の侵略に対する激烈な反発にもかかわらず、蒋介石が抗日に踏み切らなかったのは不可解である。蒋の一生を通観していえるのは、彼は毛沢東とは著しく性格が異なる人物であるが、民族主義感情の強烈さでは毛沢東と軌を同じくするからだ。蒋は毛と同様、ひとつの中国に生涯固執している。そのために蒋介石は国連からの中華民国脱退すらあえてし、死ぬまで大陸反攻を諦めず、台湾独立の道に進まなかったのである。
 8年間の抗日戦の主役は毛沢東ではなく蒋介石である。主要な戦場を担当したのは国民党であり、共産党はゲリラ戦を担当したにすぎない。李谷城という香港の学者の研究によれば、この8年間における国民党の死傷者の数は340万人であるのにたいして共産党のそれは61万人であり、どちらが抗日戦の主力であったかは明白である。  中国・台湾双方の史料からうかがえるのは、蒋介石は抗日でなかったわけではなく、ただ張学良とは抗日に踏み切る時期で意見を異にしていただけであったという事実である。 “攘外必先安内”― 抗日戦の前に、まず共産軍を掃滅して中国内部を統一する ― が、蒋介石の方針だった。
 彼の方針は以下二点から理解すべきであろう。

 1.当時、中国は軍閥割拠の局面こそなんとか収拾したが、全土に中央政府の威令が届いているとは言い難かった。そして共産党は陝北地域に独立割拠していた。蒋は張学良とは違い、共産党の危険性を見抜いていた。消滅させなければ彼らは抗日戦を絶好のチャンスとして勢力を伸ばすであろう、そうすればのちのち大変な災いのもとになると、蒋は考えていた。(後の歴史はまさしく蒋の見通しの誤っていなかったことを証明した!)
 紅軍と共産党に対し、蒋介石は前後5回の掃討作戦を実施した。4回は失敗したが5回目は成功し、紅軍は“2万5000里の長征”と言う名前の大潰走を行わざるをえなくなったのである。陝北に撤退した紅軍はわずか数万に減少していた。
 蒋にしてみれば、共産党にあとすこしでとどめを刺せるというところだったのである。

 2.当時の中国は到底日本に敵う状態ではなく、国力を養うために時間を稼ぐ必要があった。歴史学者黄仁宇の著書『従大歴史読“蒋介石日記”』〔訳者注。邦訳名『蒋介石―マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』北村稔・永井英美・細井和彦訳、1997年12月、東方書店〕によれば、「(当時の蒋介石は)彼我の実力の差を熟知しており、軽率な戦争への突入は自殺行為であることをよく承知していた」。 全面的な抗日運動への発展を出来るだけ回避して時間を稼ぎ、その間に産業および軍事力を強化し、日本との戦争が可能な国力を養成するというのが、彼の対日戦略だった。
 1934年に蒋介石は国防設計委員会を資源委員会に改組し、自らの率いる軍事委員会直属の組織としている。また彼は、湖南、四川、湖北ほかのいわゆる大後方地域に、軍需工場や重工業施設を設置した。西安事変の際に張学良が手に入れた蒋の日記の中にいま述べた国防計画が記されているのである(この日記を読んだことが張学良が改心する一因になった)。

  西安事件の1年前の蒋は、“和平がまだ絶望的となったわけではなく、和平政策は絶対に放棄してはならない。まだ最後の関頭には至っていない” と述べている。
 蒋介石は、なぜ自らの真意を明かさなかったのであろうか。
 918事変の後、日本国内では中国侵略に関して意見の衝突が見られた。たとえば、日本政府が国際連盟に提出した対華五項目は、“日本臣民が満洲で行う一切の平和な活動を有効に保護し、満洲における日本条約上の利益を尊重する”こと、“(日本が)中国の土地の保全を尊重する”ことを主な内容とするものである。理不尽な要求ではあるが、しかし中国が日本と話し合う席につくことにより、日本の全面的な中国侵略を遅らせ、その間に実力を養える好機でもあった。
 だが蒋介石がここで本心を公言すれば、それは、中国が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、その結果、日本の対華強行派は本格的な中国侵略の開始を早める結果を招くのは明かである。だから当時の中国人には蒋はこの本心を知らしめなかったのであろう。

 中国人は激すると理性的判断ができなくなる傾向がある。“刀や銃も体を傷つけることはない”などと本気で信じていた義和団が好例である。
 日本の東北侵略に中国人は激昂し、大学の学生や知識人はしきりにデモを行っていたが、そんな中、冷静さを保っていたのは、胡適および彼の弟子たち(たとえば傅斯年)である。
 胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとはかぎらない」かゆえに“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。かつてベルギーがドイツの占領を許し、フランスが2州をプロシアに割譲したのはすべてこれ権宜の計である、この故智にならい、我が勢力を回復してのち取り返せばよいのであると。
 しかし胡適の意見は多数の聞き入れるところとはならなかった。彼は‘漢奸’‘売国奴’呼ばわりされた。
 和平工作が破綻して日本が全面的な中国侵略を開始すると、胡適は全土全国民あげての血戦を主張した。さらに胡適は政府の役職につかないという自らの戒律を破り、蒋介石の要請によって米国へ中国大使として赴き、米国の支援を得るべく努力している。
 胡適はのちに当時を回顧してこうしるしている。「『権威や武力に屈服せず、富や財宝にも目を奪われず、貧窮にも志を揺るがすことない』という古い格言があるが、ここに‘時流に阿らず’も付け加えるべきである」


(2001/11/28)
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