曹長青評論邦訳集  張学良論


1.なぜ張学良は日本の東北三省侵略に抵抗しなかったのか

『多維網』 2001年10月25日

 1991年の5月に張学良は50年におよぶ軟禁状態を解かれて米国行を許可された。このおり、李勇・徐松林・劉賓雁および私を含む8名は、ニューヨーク在住の東北人が同郷の先輩を訪ねるという名目で、米国滞在中の張に面会することができた。
 我々との150分の面会時間のあいだに、張学良は我々の年来のさまざまな疑問に答えてくれた ― ときには本人はそれとは意図しないうちに ― のである。
 日本の東北三省〔訳者注。奉天省(現在の遼寧省)・吉林省・黒竜江省。いわゆる満洲の地〕侵略になぜ東北軍が抵抗しなかったかについて、通説では蒋介石が張に自筆の命令書を下して無抵抗を命じていたからだといわれている。この点に関して、「命令書はあったのですか」と私がたずねると、張学良はこう答えた。
 「不抵抗は、私が自発的に決めたことです。当時の私は日本軍は中国全土を占領することは不可能だという判断をくだしていました。私はできるだけ日本人を刺激せず、彼らに事態を拡大する口実を与えるのをできるだけ避けようと思い、東北軍は、“殴られても手を上げず、罵られても言い返さず”という姿勢を取ったのです。しかし“殺されても血を流さず”はできません。彼らが全中国を征服しようと襲いかかってくれば、命をかけて戦うつもりでした」
 1990年の12月9日に台湾で行われた、張の数十年におよぶ軟禁生活における始めてのメディア(日本NHKテレビ)とのインタビューで、彼はこう語っている。
 「当時の中国中央にいたのは蒋介石ではなく孫科でした(筆者注。この時期蒋介石は下野していた。当時の国民政府主席は林森、行政院長は孫科である)〔訳者注。孫科が行政院長の職にあったのは1931年12月から1ヶ月〕。国民政府の中央が出した指令は“相応処理〔訳者注。状況に応じて適宜に処理せよという意味〕”でした。抵抗するなという命令は私が下したものです。私の判断は誤りでした。私がこのような命令を下したのは、事態を拡大させないためでしたが、事実は逆になってしまいました」
  〔訳者注。NHK取材班 臼井勝美著『張学良の昭和史最後の証言』(角川書店 1991年8月)123 - 126頁に対応する箇所がある〕  張学良がこの点に関して詳しい説明を避けるのは、彼が情勢認識を誤ったのを恥じているからだけではないはずだ。東北軍にはもともと日本軍に対抗できるような実力はなかった点も理由としてあるだろう。東北軍は、もし日本軍に抵抗していたら壊滅させられていたにちがいない。中国の軍閥指導者は、率いる軍隊の実力あっての存在だった。この点、張学良も例外ではない。東北軍なしには張学良という存在はありえなかったからである。
 当時の東北地方は森林に覆われ馬賊が猖獗を極める土地であった。張作霖率いる東北軍は、そのなかの最大の存在であるにすぎない。その他の群小の馬賊集団からすれば近代的な軍隊だったかもしれないが、整備が充実し訓練度も高い日本軍の前では所詮は馬賊でしかなかった。
 これ以前、東北軍は鉄道の利権を争ってソ連軍と戦火を交えたが惨敗し、その結果屈辱的な内容の条約を結ばされる羽目に陥っている〔訳者注。1928年末、中ソ共同管理下にあった東支鉄道の権利を張学良が強制回収したことを原因として、翌29年8月に東北軍とソ連極東軍が軍事衝突した事件を指す。戦闘はソ連軍優位のうちに推移し、同年12月、ハバロフスク議定書が調印された〕。この事件は東北軍が張り子の虎であるという現実を日本軍に披露してしまうことになった。1933年3月の熱河省の戦闘では、日本側はわずか18騎の騎兵を先頭に、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることもなく承徳〔訳者注。熱河省の省都〕を占領している。東北軍の実力が実際はどの程度であったか、ひいては張学良の指揮官としての能力がいかほどのものであったかを伺うことができる事件である。
 後に漢奸〔訳者注。売国奴の意〕と呼ばれることになる汪精衛〔訳者注。汪兆銘。精衛は字〕は、918事変〔訳者注。満州事変のこと。1931年9月18日の柳条湖事件にはじまるので中国ではこう呼ばれる〕の際には抗日を主張している。孫科の後を承けて行政院長となった汪〔訳者注。就任は1932年1月〕は、張学良にしばしば軍隊を出動させて抵抗するように電報で慫慂するとともに、「昨年は瀋陽を放棄し、さらには錦州を失い、三千万の人民と数十万の土地を敵の手に陥らしめた」と張を叱責している。しかし張は食糧や資金不足を理由に行動に移るのを拒否した。同時に張は、貴君には東北軍を指揮する権限はないと返答して汪を激怒させ、のち汪が辞職する結果を招いている。 張学良が阿片中毒であることは、日本軍の熱河侵攻以前から周知の事実だった〔訳者注。熱河は当時存在した省の名称。現在の河北・遼寧・内モンゴル自治区のそれぞれ一部にあたる地域〕。また彼は女色に溺れる遊冶郎としても有名であり、その張に華北地域の抗日戦など統括指揮できるはずがないとは、当時の心ある人間がひとしく認めていたところである。宋哲元、商震、ほう〔まだれに龍〕炳などといった国民政府の軍人や政治家の重鎮は、蒋介石がみずから北上して抗日活動を指揮するよう求めている。そしてこれは当時の中国の知識人の意見でもあった。胡適、丁文江、翁文こう〔さんずいに〕などもまた、蒋がみずから華北へ出向いて日本軍に対抗するよう要請する電報を蒋介石に発しているのである。この電文で彼らは張学良ではその任にたえないと主張し、さらには熱河省が日本軍の手に落ちれば政府はその責任を問われるであろうと指摘したうえで、蒋自身が現地でみずから防衛作戦を指揮するよう求めていた。
 この要請に接した蒋介石は、折り返し打った電報で明日出発すると答えている。しかし熱河省が日本軍によって占領されたのはまさにその日の夜であった。
 「日本軍は6個師団を動員するものと予想していた。そのためには日本は国内のみならず台湾(筆者注。当時は日本の領土だった)からも兵員を動員しなければならないが、そん情報は全くなかったので、私は日本軍の動きをたんなる脅しに過ぎないと判断していたのだ。日本軍のほうが私より湯玉麟〔訳者注。当時の熱河省主席〕や張学良の軍の内情をよく知っていた」
 のち、蒋はこう反省している。
 熱河の失陥は張学良の責任であると、胡適は『独立評論』で発表した「全国震驚之後」という文章で張を激しく指弾した。
 「張学良の体力、精神、知識、訓練は、かかる重大にして緊急なる局面に処するには全然不足せるものなり」
 張学良軍は30万の兵員を擁しながらわずか数万の日本軍にやすやすと熱河を明け渡したのであるから、胡適が激怒するのも無理はない。
 丁文江もまた『独立評論』に「張学良への公開書信」を寄せ、みずから前線へ出て督戦することもしない張には指揮官としての能力なしと批判した。さらにその無能なる張が地位を手放そうとはしないために東北地方の人民は塗炭の苦しみに喘いでいると非難し、張こそは国家を危殆に陥れる者であるとまで言い切っている。 今回の私たちとの会見で、蒋介石の命令はなかったと張学良は証言した。

 私は、蒋介石は張学良の不抵抗方針を黙認していたのだと考えている。当時の蒋は、中国と日本の軍事的な実力が懸隔しているとの認識に立って、日本に対しては忍耐と譲歩を基本として、事態を拡大させず時間をかせぐ政策を取っていた。国民政府が軍事力を温存でき、さらには長期的な戦略にしたがって行動することを可能にする点から言えば、張学良の不抵抗主義はそこから外れるものではない。東北地方での日本に対する不抵抗については、張学良と蒋介石の間には意見の対立はなかったことになるからだ。
 ゆえに、張の対日不抵抗主義は張の独自の決定だったのか、あるいは蒋介石の命令があったのかという歴史研究者間でのやかましい議論はあまり意味がないというのが、私の意見である。

(2001/11/27)
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