曹長青評論邦訳集  東トルキスタン独立への闘い

6.東トルキスタンに生き続ける植民地主義

(『台北時報』1999年10月16日)

 天高く皇帝は遠し。中国で昔からいいならわされてきた諺である。支配者から遠く離れてその目が届かなければ、好き勝手に振るまえるという意味である。
 たしかにウルムチから北京は遠い。2,000マイル離れている。だが、北京の中国政府が新疆を忘れることは決してないのである。
 清朝が新疆を占領したのは1860年であるが、それ以降、中国人はウイグル人の抵抗運動を絶えず弾圧し続けてきた。
 弾圧の被害をもっとも被ったのはウイグル人知識人層である。さらには、弾圧の結果、ウイグル語とウイグル文化は深刻な打撃を受けた。
 侵略者として新疆へ乗り込んだ中国共産党軍の王震将軍は、新疆地域のツァー(皇帝)となった。貧しい農民出身でほとんど文盲に等しいこの人物に、イスラム文化への理解などあるはずもなく、新疆で彼の採った政策は、国民党軍に対するときと同様、ひたすらの殺戮だった。
 「王震は教師のほぼ全員を逮捕して投獄した。王震が新疆を支配した期間は短かったが、そのあいだに25万のウイグル人が殺された。すこしでも教育を受けたことがあったり、中国人の支配にわずかでも不満を示したウイグル人はすべて、“分裂分子”と判定された。」
 これはアブドゥルヘキム氏(ウイグル人・作家)の証言である。
 「1970年の5月29日に、30名のウイグル知識人がウルムチ郊外の洪橋という場所で処刑された。新疆ウイグル自治区副主席のイミノブ(Iminov)も、彼が入院していた病院で秘密裏に殺されたのだ。」
 ウイグル人知識人層は、政治的な運動が惹起される際にはつねに迫害の対象となる。
 アンカラにあるハジェテペ(Hacettepe)大学の講師であるエルキン・エクレム(Erkin Ekrem)氏によれば、「1976年の粛清で30,000人ものウイグル人が投獄されたが、その大部分は知識人だった」という。
 同氏の両親は、新疆経済管理学院の教授であった。彼らはこの粛清の嵐を生きのびた人々である。
 中国は現在、多くの学問分野でのタブーを取り除いて自由な研究を許可している。だが、東トルキスタンの歴史に対しては研究者に研究の自由はなく、自由な著作の出版も依然として不可能な状態である。
 目下中国で出版されている新疆関連の書籍はその大部分が中国語でかかれたものである。 中国政府はウイグル関連の出版物については依然として厳重な統制を敷いている。中国の支配者は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で記した金言を拳拳服膺しているのだ。「過去を支配する者は現在を支配する。」
 1989年の天安門事件の直後に、中国政府はウルムチにおいてある会議を開催した。その会議には中国全土の大学から70名の歴史学教授が招聘されたのだが、その目的はトゥルガン・アルマス(Turgan Almas)というウイグル人歴史家(新疆社会科学院研究員)の著作『ウイグル(維吾爾)』を批判するところにあった。政府の意を体したこの70名の教授たちは、これはウイグル人を美化した国家分裂扇動の書であると攻撃した。当のトゥルガン・アルマス氏はこの会議に招かれず、自らを弁護する機会さえ与えられなかった。
 会議に出席した70人のほとんどは漢族である。しかしながら、この会議で、『ウイグル人』が『史記』と『新唐書』、『旧唐書』という中国(漢人)側の歴史記録にもとづいている事実には誰も触れなかった。
 通常、ウイグル人研究者がウイグルの歴史に関する著作を出版できる可能性は非常に低い。この『ウイグル』にしても、原題は『ウイグルの歴史(維吾爾歴史)』だったのだが、タイトルから“歴史”という文字を取り去ってやっと出版できたのである。
 60歳を越えた老人であるトゥルガン・アルマス氏は自宅で軟禁され、同氏の家族も警察の厳重な監視下に置かれた。
 この出来事のあとすこしして、今度はカザフ人の有名な作家であるハジ・クマル(Haji Kmar)氏が“外国のスパイ”という容疑で逮捕された。ただしこの容疑のいかなる証拠も示されなかった。
 トゥルガン・アルマス氏の場合と同じく同氏の著作は禁書とされた。
 さらには、トゥルスン・クルバン(Tursun Kurban)という、新疆大学教授で人民政治協商会議のメンバーでもある人物が発言内容が当局の忌諱に触れたかどで有罪とされている。
 1990年代になって、中国共産党民族事務委員会は新疆地域の地方誌を編纂するプロジェクトを開始したのだが、トゥルスン・クルバン氏はその最終稿とりまとめの責任者だった。手元に集まってきた調査結果や様々な統計数字にもとづき、同氏は、中国政府発表のウイグル族人口――720万人――が著しく現状と異なる事実に気が付いた。実際には、新疆におけるウイグル族人口は、都市部を除いた地域だけで1350万人に達していたのである。
 この発見に同氏は興奮し、自治区主席へ電話をかけた。この“興味深い”ニュースを伝えるためだったのだが、それからまもなく彼はある学校の図書館司書に左遷された。
 この左遷は、同氏の「発見」が新疆安定にとり危険であるという判断によるものであった事情が、のちになってあきらかになった。
 「ウイグル人には自分たちの手になる歴史書がない。」 と、アブドゥルヘキム氏は憤懣を露わに語る。
 「1980年代にはウイグル人の音楽の書籍すらなかった。長年北京の中央政府へ嘆願し続けてやっと、中国の支配者たちはわれわれが自分たちの伝統音楽について書籍を出版するのを許可した。」
 同氏はこのあと、ウイグル音楽に関する書籍22冊を共同編集して世に送り出している。
 ウイグル語は中国語と根本的に異なる言語である。ウイグル語は表音文字で、ウイグル文字は32文字からなる。そのうちの26文字は英語と同じである。
 中国政府は、1962年にウイグル族にたいし、それまでの文字を廃止してあらたなウイグル文字を制定するよう強制した。
 「新しいウイグル語では多くの言葉が中国語とおなじように発音される。」 と、アブドゥルヘキム氏はいう。「中国はわれわれの言語まで漢化しようとしているのだ。ところが、1980年代になって中国政府はこの新しいウイグル語をやめてもとのウイグル語にもどれと命令した。その結果、新言語だけを教えられた若い世代のウイグル人は読み書きができない文盲同然の存在になってしまった。」
 この突然の決定反転の裏には、新ウイグル語がトルコ語に近い事実に中国の為政者が気が付いたことがあるらしい。ウイグル人に彼らのチュルク民族としての自覚をいっそう促し彼らの独立志向を助長しかねないという懸念が働いたらしく思える。ところが、伝統的なウイグル語はアラビア語に属する。どちらにしても中国政府はウイグル人のイスラム文化圏へのつながりを断ち切ることはできないのである。
 「中国政府は長い間ウイグル人を漢化しようと全力をつくしてきました。中国人はわれわれにすべて中国風にせよと強制してきたのです。」
 これは、ヌラニエ(Nuraniye)女史(アンカラにあるチュルク歴史学会の研究員、5年前に新疆から脱出)の言葉である。
 1995年に和田市の陶磁器工場を訪れたカール・メイヤー(Karl Meyer)氏(『ニューヨーク・タイムズ』紙編集記者)は、そこで掲げられているポスターが全部中国語で書かれていることに気が付いた。和田市の総人口18万人の96%がウイグル人だというのにである。
 さらに、トルファン(Turpan, 吐魯番)近くのある鉄道の駅では、時刻表をふくめて表示のほとんどすべては中国語だった。
 これを目にしたメイヤー記者は書いている。
 「この地の多数派であるウイグル人にはさぞ不便であろう。」
 ウイグル人にとって何にもまして苦痛であるのは、中国政府が中国の国土の広大さを考慮せずに単一時間制(すなわち北京時間)を採用していることである。
 「このため、北京から2,100マイルも離れているカシュガル(中央アジア最大のオアシス都市だ)では、ほとんど正午まで真っ暗という馬鹿げた状態になっている。ホテルの支配人は午前8時に従業員の点呼を行うが、従業員はロビーの椅子で居眠っている。やむなくカシュガルの住民(90%がウイグル人)は、人と会うときには土地の昼間にあわせた“現地時間”を別に定めている。」
 メイヤー記者はこう評している。
 「新疆ではすでに過去のものとなったはずの植民地主義が、博物館に陳列されている古鐘のように、いまだに生き残っているのだ。」



(邦訳:1999/12/10)
inserted by FC2 system