曹長青評論邦訳集  東トルキスタン独立への闘い

3.中国支配のもとで滅びつつあるウイグル民族

(『台北時報』1999年10月13日)

 ウイグル人は新疆ウイグル自治区において、漢族と平和共存し幸福な生活を送っている。
 ──というのが中国政府の常套句であり、中国官製メディアのくり返すところでもある。
 だがトゥラン・ヤズガン氏(チュルク国際研究基金会主席)に言わせれば、現実は正反対である。
 イスタンブールにある事務所で同氏は筆者にこう語った。「東トルキスタンへの大量の中国人移民が始まって以降、民族間の矛盾は過去に例を見ないほど激しさを増している。自治区なるものは虚名にすぎない。実際にはウイグル人は中国によって完全に支配され、計画的な中国化が遂行されつつある。」
 共産党軍が新疆へ侵攻する以前、新疆における漢人人口は全体の5%を占めるにすぎなかった。
 しかし現在、漢族は新疆の人口1,700万人のうち、37%に達している。この急激な人口の増大は50年という時間的スパンからすれば、異常であるといっていい。
 「1995年に中国政府が新疆ウイグル自治区設置を決定した当時の政府文書によれば、ウイグル族は全人口の93%という比率を維持し、残りの7%はその他の民族(漢族、モンゴル族、カザフ族など)ということになっていた」と、アブドゥルケキム・イルトゥルビル(Abdulhekim Iltrbir)氏(東トルキスタン民族センター執行主席)は、イスタンブールにある混雑したオフィスでのインタビューで証言した。
 「それが今ではウイグル族は新疆の人口の47%にしかすぎない。そのうえに、ウイグル族の大部分は放牧地や僻地といった条件の悪い場所へ追いやられている。グルジャ(Gulja,伊寧)、アクス(Aksu,阿克蘇)、コルラ(Korla,庫爾勒)、クムル(Kumul,哈密)、ボレ(Bole,波羅)、クイトゥング(Kuytung,石河子)、ウルムチのような大都市では、人口の80%は漢族だ。首都のウルムチでは、ウイグル人は2ブロックの区画に押し込まれて生活している有様だ。」
 チベットに対するのと同様、中国政府は新疆地域へ大量の漢人を移住させている。中国からの移民の大量流入は、ウイグル人との緊張を激化させた。漢人移住者たちは地元住民との間で水や土地をめぐって争い、また職の奪い合いを繰り広げている。移民たちは新疆地域で現地民への民族差別を蔓延させた。
 1950年代の初めには、グルジャ(伊寧)の総人口に占める漢族の割合は10%に満たなかった。今日グルジャの人口は140万人だが、そのうちの100万人が漢族である。
 ウイグル人の多くは名前のみを自らの呼称にする。シャムセデン(Shamseden)氏(61歳)もそのひとりである。彼はグルジャ出身で、以前は紡績工場で働いていた。サウジアラビアへの巡礼という口実によって、シャムセデン氏は2年前に妻とともに新疆を脱出し、トルコへ亡命した。
 氏は新疆では地元の紡績工場で開業時から働いていた。氏はイスタンブールにある彼の家でこう語った。「私は当時まだ17歳だった。当初の工場規則では、漢族は雇用者の25%に限ると決められて、のこりはウイグル人に充てられるべきものとされていた。だが後になると規則が変えられた。」
 今日では事態は正反対の方向に向かっている。伊寧の紡績工場における雇用者8000 人のうち、70%を漢族が占めており、ウイグル族は30%にすぎない。
 シャムセデン氏はこの工場で33年間働いた。
 「給与の引き上げや昇進はいつも漢人ばかりだった。仕事の能力は漢語の読み書きの能力を基準にして判断されたから、漢人は優遇されていたし、その機会も多かった。」
 「工場に就職してからすぐに漢語の勉強を始めた。しかしいまだに漢語で書かれた新聞は読めない。」
 現在、中国人(漢人)は新疆で特権階級を形成し、あらゆる行政組織の実権を握っている。
 アイセム(Ayxem)女史(30歳)は、筆者と会う2ヶ月前にウルムチから脱出してきたばかりだった。新疆ウイグル自治区女性連合会の地元幹部だった彼女においてさえも、その半生は激しい差別の連続だった。
 「新疆ウイグル自治区女性連盟の幹部のうち、ウイグル人はたったの21%にすぎないのです。30ある支部の長はいうまでもなく、上級研究員もすべて漢人なのです。」
 イスタンブールに存在する新疆からの亡命者社会の誰に尋ねても、中国人(漢人)のウイグル人に対する差別の現実を、豊富な体験と実例を挙げながら事細かに物語ってくれる。
(ちなみに、ある28歳のウイグル人女性にインタビューを申し出ると、彼女は匿名扱いを希望した。理由は、中国政府が新疆に残っている彼女の親戚に報復として何をするかわからないから、というものだった。)
 以下は、ウルムチのあるテレビ局の女性記者の言葉である。
 「局では110名働いているが、ウイグル人は9人しかいません。のこりはすべて漢人です。局のトップも党書記も漢人です。新疆のそのほかの地域と同様に、これら指導的立場にある人間はみな軍人が任命されることになっていて、彼らはジャーナリズムや教育に関しては何も知りません。それどころか、編集者や記者の4分の3も彼らの上司と同じ軍人出身の人々で、しかも地元政府高官の子弟がほとんどなのです。ジャーナリズムなど勉強したこともない人々ばかりです。」
 この女性記者は新疆大学でジャーナリズムを専攻した。
 彼女の証言のいくつかを紹介する。
 「ウイグル語番組用の記事原稿をウイグル語で書くと、局長に『ウイグル語など知らないから』漢語で書き直せと命じられました。」
 「局長の検閲を経ないと原稿をウイグル語に訳せないのです。ウイグル語番組の原稿だというのに。」
 「放送局には4人の副局長がいますが、ウイグル人はひとりだけです。しかもこのウイグル人の副局長にはウイグル語ニュースの編集権も放映決定権もありません。」
 彼女の経験は、ほかの多くのウイグル人が等しく共有するところである。東トルキスタン歴史学会(the East Turkestan History Society)の中央アジア史研究員であるヌラニエ(Nuraniye)女史は、現在はアンカラに住んでいるが、もともとは新疆のカシュガル(Kasgar, 喀什)から40キロほど北にあるアルトゥシュ(Artush)の生まれである。
 「まだほんの子供のころから差別を体験してきました。私の通っていたウイグル族の小学校にはサッカーやバレーボールのための設備も施設も、それどころか運動場そのものがありませんでした。ウイグル人の児童はまず運動場をつくるために野原の石を掘り起こして運び出すところから始めなければならなかったのです。でも隣にある漢族の小学校にはありました。ウイグル人の子供たちは運動の時間が来るごとに漢族の小学校までいかなければならなかったのです。」
 「よくある話だ」とは、アブドゥルヘキム氏のコメントである。氏は、元『ウルムチ晩報』の記者である。
 アブドゥルヘキム氏は筆者に、1984年のある日、氏がカシュガル近郊のある村を取材したときの情景を語ってくれた。──ウイグル人の子供たちが一本の木の木陰で授業を受けている。学校の建物が崩れてしまったのだ。すぐ近くに漢人の学校があったが、ウイグル人の子供たちはその建物を借りて授業を行うことを許されなかった。教師にむかって、どうして学校を建て直すために資金を集めないのかときいた。返ってきた答えは、「土地がない」だった。
 新疆の土地はすべて、1954年に創設された新疆生産建設兵団の管理下に置かれている。この組織は、新疆に存在する集団農場群と辺境軍事駐屯基地群から構成される巨大組織である。抱える人員数は240万、すべて漢人で、新疆全体に生活する漢族の3分の1がこの組織に所属している。
 エコノミスト誌(The Econmist)が最近、この新疆生産建設兵団について報道したが、そのなかで、740万エーカーの土地を管理し、172の大規模農場、344の企業、500の学校、200の病院、46の研究施設を支配するこのコングロメリットを、「国家のなかの国家」と形容した。それに補足すれば、この組織はそれに加えて自身の警察と裁判所まで有しているのである。それどころか、新疆に存在する労働収容所の半分がこの新疆生産建設兵団の管轄下にあると言われている。
 「兵団のメンバーは漢人だけだ。漢人は我々の土地を奪い、我々の職を奪い、水と牧地を奪った。我々は故郷で少数民族になり、二級市民に成り下がった」と、アブドゥルヘキム氏は憤慨する。
 「いまの新疆のウイグル人はパンダのようなものだ。滅亡寸前の生き物だ。」
 これは、東トルキスタン運動亡命指導者、故イサ・ユスフ・アルプテキンの言葉である。



(邦訳:1999/11/29)
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