曹長青評論邦訳集  東トルキスタン独立への闘い

2.八番目のチュルク国家を目指して

(『台北時報』1999年10月12日)

 ソビエト連邦の崩壊によって中央アジアのチュルク語族国家は独立を手にした。トルコを含めるとチュルク系国家は7カ国となる。総人口は約3,000万人である。これら7カ国はすべて国連への加盟を完了した。
 これらの情況は、新疆地域のウイグル人の独立への願望を目覚めさせた。
 新疆は独自の歴史を有する。この独自性が「東トルキスタン」の独立願望の基礎となっている。
 「我々が望むのは独立というよりは祖国の復興だ」と、アブドゥルヘキム氏(東トルキスタン民族センター理事長)は言う。「我々は歴史的に見て独立国家でありつづけてきた。現在は中国によって占領されているというだけにすぎない。」
 中国政府がこの種の歴史観を執拗に否定するにもかかわらず、当の中国で編纂された歴史書である『唐書』の記録は、アブドゥルヘキム氏の言うところにより近い。
 中国とおなじく、新疆もまた、数千年の時の流れの中で興亡のサイクルをくり返してきた。南北朝時代に突厥帝国が次第に成長したが、ウイグルはその突厥を破ってウイグル帝国をうち立てた。この国家は『唐書』では“九姓回鶻(回鶻=ウイグル)”という名で見える。その名称は、帝国が九つの部族によって創設された事実に基づく。
 ウイグル軍はかつて中国唐朝の皇帝を助けて安禄山と史思明の反乱(安史の乱)鎮圧に重要な役割を果たした。この史実は、東トルキスタンの人々がいまもなお誇りとするところである。同時に彼らはこの史実をもって新疆が独立国家であったのみならず、中国を援助しさえした存在であった証拠であるともするのである。
 このような経緯にもかかわらず、中国は清朝の時代になると、左宗棠将軍ひきいる清軍はウイグル人を征服した。さらにアヘン戦争から約40年経った1844年、清朝の支配者層はこの地域を中国の領土の一部であると正式に宣言した。「新たに征服された領土」を意味する新疆という呼称はまさにこの時に与えられたものなのである。
 しかしながら、ウイグル人は中国の支配に反抗し続け、1937年に彼らは新疆南部において“イスラム共和国”を樹立した。ただしこの反乱はこの地域に勢力を張っていた盛世才の軍閥によって短期間で鎮圧されている。盛世才はその後、蒋介石の国民党政権のもとで農業大臣となっている。
 その後もウイグル人は屈せず、1944年には新疆北部でふたたび蜂起した。
 そして、彼らは東トルキスタン人民共和国を樹立した。
 「わが軍はウルムチを除く新疆北部のすべてを回復した。」
 これはベラト・ハジ(Berat Haci)氏(89歳)の回想である。ハジ氏は、王震将軍(1940年代末に新疆地域へ侵攻した中国共産党軍を指揮)との交渉に関与した人物である。
 「王震は、新疆は独立国家だが、国民党を破るために中国に協力しなければならないと主張した。」ハジ氏は、イスタンブールでの筆者とのインタビューでこう語った。
 「将来的には中国は我々に自治か独立を許可するつもりだと王震はいった。『レーニンは100万人以上の人口を有するすべての民族の自決を支持している。我々は共産主義者だ、レーニンの教えには従わなければならない』、とも。」
 ウイグル人はこの約束を信じ、東トルキスタン軍は中国共産党軍の新疆進駐に同意した。ところがその後数年もたたない1950年代の中ばには、中国は、「新疆ウイグル自治区」を設置し、同時にウイグル人の不満や異見を弾圧し始めた。
 ハジ氏は言う。「そのころ新疆は10の区域に分かれていた。そのうちの8区域で8万人のウイグル人が、のこりの2区では3万人のウイグル人が逮捕された。」
 「共産党は過酷な弾圧によってウイグル人の独立への願いを粉砕したのだ。」
 アンカラにあるハジェテペ大学で歴史を教えるエルキン・エクレム(Erkin Ekrem)氏(35歳)は9年前に新疆からトルコへ移住してきた。同氏はこう語る。
 「東トルキスタン人民共和国の最高指導者5人の暗殺は共和国滅亡のきっかけになった。」
 エルキン・エクレム氏はこの時期の東トルキスタン史に関して、もっとも権威ある研究者のひとりである。アンカラにおける筆者とのインタビューにおいて、同氏はこれまでにほとんど知られていない、ある事件について触れた。
 殺された5人の東トルキスタン指導者のなかには、次の4人が含まれていた。アクマト・ジャン(Akhmat Jan)東トルキスタン人民共和国議長、デリル・カーン(Delil Khan)元帥、ヤスク・バク(Yiaskh Bakh)副元帥、そしてアブドゥカフレーム(Abdukahreem)外相である。これらの人々は北京での交渉に招かれていたが、中国側は彼らにたいし、ソ連邦領土内にあるアルマアタ(阿拉木図・現在のカザフスタン首都)に向かうよう要求した。そこから北京へ飛行機で移動する指示を出していたのだった。記録によれば、彼らを乗せた飛行機はアルマアタを飛び立った直後に墜落し、5人全員が死亡したとされる。
 「事実はスターリンが彼ら5人の指導者を誘拐し、モスクワで殺害したのである」と、エルキン氏は述べる。「5人の拷問に関与した元KGBの責任者のひとりはソビエト連邦崩壊後、あるロシアの雑誌に発表した文章で、この隠されてきた秘密を暴露した。」
 氏は続ける。「この文章はウイグル語に訳され、ウイグル人の間で広く読まれた。そこで述べられた内容をもとに、海外へ亡命した東トルキスタン人数名がモスクワへ赴き、当時クレムリンで医者として働き、この事件に関わっていた人物を捜し出した。その元医師は、5人は帝政ロシア時代の厩舎に幽閉されそこで殺害された、と語った。」
 東トルキスタン最高指導者5人の突然の死は、ウイグル人を激昂させた。
 たとえば伊寧に駐屯していたイスラム共和国砲兵隊のロクマノブ(Rokhmannov)司令官は、その地にいた漢人すべてを皆殺しにせよとの命令を下している。
 「7千人以上の漢人が軍民に関係なく殺された。その後間もなく中国軍が侵攻し、ロクマノブは3日と経たないうちに殺された。彼が率いていた兵士たちもまた、殺されるか投獄された。」ハジ氏は当時を振り返る。
 トルコ国民の多くが、新疆を彼らの民族発祥の地と考えている。これは専門の研究者だけでなく、トルコ政府においてもその立場を取る人間が多い。そして彼らはすべてウイグル人のおかれた悲惨な境遇に強い同情の念を抱いている。
 トルコ政府の高官のなかには、新疆を自分たちの“母なる土地”と呼ぶ人々さえいる。彼らは、自分たちの祖先は新疆から西へ進んでトルコへやってきた人々だと信じているのである。彼らが新疆地域を“東トルキスタン”と呼ぶのは、まさにこの理由による。
 さらに、“東トルキスタン”の人々の苦しみは、多くのチュルク系国家の間でも強い同情を引き起こした。その理由は、トルコの場合と同じである。
 東トルキスタン最高指導者5人の死の後、もうひとりの著名な指導者イサ・ユスフ・アルプテキン(Isa Yusuf Alptekin)はトルコへ亡命した。
 東トルキスタン独立運動は、トルコで広範な支持を集めた。この人物は1995年、イスタンブールにおいて94歳で死去したが、100万人のトルコ国民が彼の死を悼み、喪に服したのである。そのなかには一般大衆はもとより、政府高官もが含まれていた。
 イサ・ユスフ・アルプテキンは歴代のトルコ大統領2人の墓の隣に葬られた。
 トルコ政府はさらに、イスタンブールに彼の名を冠した公園を建設した。この公園には東トルキスタン国家の旗がはためいている。
 東トルキスタンの国旗の意匠は、トルコ国旗とよく似ている。双方とも三日月が中央に位置する。トルコは赤、東トルキスタンは青という背景の色が異なるだけである。それだけの違いにすぎない。
 トルコ人と東トルキスタン人の関係について、トゥラン・ヤズガン(Turan Yazgan)氏(イスタンブール大学教授・チュルク国際研究基金会主席)はこう語った。「我々トルコ人とウイグル人とは民族的系統を同じくしている。我々がそういうのではない、アラーがそうおっしゃったのだ。これは神の意志なのだ。世界でチュルクの民が未だに自由を手にしていない場所が2つある。ひとつはイラン北部である。そしてもうひとつは東トルキスタンだ。我々トルコ人はその地の同胞を助ける義務がある。」



(邦訳:1999/11/28)
inserted by FC2 system