三国と十六国の間  〜晋代の中国について〜

司馬懿と司馬氏(2)

 五丈原の役で前後に分けた三国時代をかりに前期と後期と名付けるならば、前期は曹操、後期は司馬懿の個性が時代相を決定したといえるであろう。
 二人の性格を比較してみるのも有益ではなかろうか。
 両者は、似ている点もあるが、対照的といっていいほど異なっている点もある。
 曹操は、中国では当時はおろか現在に至るまで大詩人としてかぞえられるほどの知識人であり、そのうえ学問の造詣が深かった。(『孫子』の注釈が現在まで残っている。)言動に学問による陶冶を経た品性と原則があり、それがこの人物の颯颯とした精神の格調の高さを形作っている。
 前回も述べたが、曹操は宦官の家の出である。宦官はいうまでもなく去勢した男性であり、当時(そして後世も)、人間にあらざる存在として卑しまれており、前回の用語でいえば下層階級でさえなかった。つまり曹操の出身はきわめて低い。
 それにもかかわらず、その曹操に品があり、反対にまがりなりにも貴族の家柄である司馬懿にはそれがないのは、人間の品というものは家柄や階級には関係なく、本人の意志と努力次第という好例である。


 7世紀に成立した『隋書』の「経籍志」をみると、『司馬懿集』という題で司馬懿の作った詩文を集めた書物があったらしい。ただし現在は散逸して残っていない。
 前回引いた清代の『全晋文』は、『全漢三国晋南北朝文』という、先史時代から南北朝までの中国の詩文を人物別に、作者不明の場合は無名氏作として網羅している叢書の一部である。この叢書の狩猟範囲は、清代まで中国に残っていた古今の文献すべてであり石碑にいたるまでという徹底ぶりである。だが、そのなかの司馬懿の部分を見ても、文章が断簡零墨にいたるまで網羅されているのだが、詩は一首もない。
 その理由として二つ考えられる。まず、当時の士大夫のたしなみとして作りはしたが、数がすくなかったのであろうという理由。二つ目には、詩の水準があまりに低くて後世に残らなかったという理由。
 実は、後者の可能性が相当高い。
 6世紀前半の南北朝時代に、南朝梁の鐘エという人物が『詩品』という書物を書いている。これは漢代からの鐘エの生きた梁代までの詩人を上中下の三つの評価にわけて論じた文芸批評であるが、魏時代は、曹操・曹丕・曹植ほか数人をとりあげただけで、そのあと、いきなり晋の太康年間(280-289)の詩人に飛んでいる。つまり、筆者の用語を使えば、三国時代は前期のみで、後期は無視しているのである。いうまでもなく司馬懿はこの後期のひとである。つまり、彼はまったく無視された。
「爾後、陵遅衰微して、有晋に迄る」
 としか、鐘エはこの時期について触れていない。司馬懿の詩など、鐘エにしてみれば「陵遅衰微」の駄作としか思えなかったらしい。
 ところで前言と矛盾するようであるが、じつは、司馬懿の作になる詩は一首だけのこっている。『全漢三国晋南北朝詩』の「全晋詩」の部分に、『楽府詩集』の引用として収録されている。
 この詩は、司馬懿が遼東(現在の中国東北地方)へ遠征して公孫氏政権を滅ぼした年(紀元239年)、帰還の途中で故郷の河内郡温県へ立ち寄った際のものであるとされている。


  天地開闢してより、日月重光
  際会に遭遇し、遐方に力を畢す
  将に群穢を掃して還りて故郷を過ぎんとす
  万里を粛清し八荒を総斉し
  告成ならば帰老し舞陽に罪を待たん
(おおいなる魏の御代にあって、私は偉大なる天子に仕えることをえた。はるか彼方の辺境にいる賊を討滅せよとの大命をかしこみ、私は我が主君のために自分のすべてをなげうってこの任を果たした。帰還の途中で故郷に立ち寄った。帝に御報告申し上げたあとは、封地の舞陽に引退してしずかに余生を送るつもりである。)


 つまらない詩で、余情も余韻もなにもない。これは詩としての技巧の巧拙以前の問題で、詩心に屈折がないためである。というより、そもそも詩心などというものがないといったほうが正しい。臆面もなく得意になって、平仄だけあわせて自分の自慢話を分かち書きしているだけである。表面的には謙譲の語気にあふれているが、これは臣下はこういう場合にこういう言葉づかいをするものであるという型に従っているだけであり、型どおりというところがまた陳腐で、ますますこの詩ともいえぬ詩のつまらなさをいや増している (ちょっと話をもどすが、『詩品』の筆者鐘エは、曹操にすら“下”の評価を与えた峻烈な批評家であった。その鐘エの芸術的基準からすれば、司馬懿の詩など、阿呆らしくて論じるに値しなかったであろう。)
 もっとも、この人物の性格を窺うには恰好の題材ではある。
 この詩は、一行四字の四言詩で書かれている。四言詩は、『詩経』以来の詩体で、伝統を背負った荘重さがあるものの、当時すでに古くさいとされて廃れつつあった。代わって当時盛んになりつつあったのは五言詩である。五言詩ではなく、四言詩の詩体をわざわざ選んだところに、この人物の権威好き、伝統好きが現れている。司馬懿は、おそらく五言詩は生涯作らなかったのであろう。 (ついでにいえば、前出鐘エの『詩品』に司馬懿の詩が取り上げられていないのは、この書が主に五言詩の作者を論じたせいもある。この書に司馬懿の詩が取り上げられていない原因はここにもあるが、かれだけでなく息子の司馬師、司馬昭そのほか司馬氏一門の名がまったく見えないのは、そもそも彼らが五言詩を作らなかったためであると考えるほうが自然である。ここにも権威主義と伝統好きが司馬懿個人の資質ではなく、司馬氏の家風であったらしい事情がうかがえるようである。)
 この人物の一生を通観して窺えるのは、ものに感じるというところがまったくなく、徹底的な実利主義の徒であったことである。おそらくは、この詩も、郷土の偉人として迎えられた歓迎の席で、「先生、ぜひ一首」などと懇願されて、やむなく作ったのであろう。この人物は、詩文など作って何の得があると考えるタイプの人間だった。
 有名な諸葛孔明との五丈原におけるエピソードを想起するのもよいだろう。
 陣を堅く守って出てこない魏軍に対し、孔明は司令官の司馬懿に婦人用の帽子を贈って嘲った。男なら正々堂々と戦うはずである、この軟弱さから見て貴殿は実は女にちがいない、という侮辱である。周囲は激高したはずである。だが、当の司馬懿は挑発に乗らなかったばかりでなく、平然としていた。持久戦に持ち込めば外征して食糧の乏しい蜀軍はやがて自滅するのは確実であった。だから陣地をひたすら守り、相手の疲弊を待つというのが司馬懿の方針であり、だからその方針を堅持した。怒りにまかせて出撃しても――どのみち魏軍が勝つであろうが――、一時の快を得るにすぎない、それだけである、という論理であったらしい。
 司馬懿は、前記遼東征伐の際、土地の士民を大量に虐殺して死体を一カ所に積み上げさせ、これを「京観」と名付けて自分の功績の記念碑として誇った。虐殺の可否はしばらくおくとしても、「京観」とは高い丘の意味であるが、それにしても趣味が俗悪である。こんな感性の持ち主は、どだい詩など作る柄ではない。


 苛烈さと爽快さは、曹操の性格である。
 曹操は自らの行いが正義であるという信念を持っていた。おのれが正義であり善であるとすれば、敵対する者はすべて不正義であり悪である。故に、曹操は敵対者を叩きつぶすのに容赦しなかった。彼の苛烈さはここからきている。
 そして、曹操は、漢は腐敗しきってすでに天下を治める資格を失っており、そのかわりに自分が中国に秩序と平和をもたらすのだという使命感を抱いていた。すべては天下万民のためである。この人物の生涯における公的な行動はすべてこの目的の要請から発したものであり、私利私欲から発したところがまったくといっていいほど見られない。政治家としては狡猾で権謀術数に長け、必要とあれば人を殺すこともいとわなかったにもかかわらず、その行動に爽快さを感じさせる理由はここにある。
「もし国家(後漢)に自分がいなかったら、いったいどれだけの輩が、皇帝を、あるいは王を僭称したであろう」
 建安15年(210)にある文章で曹操はみずからこう述べている(「述志令」)。3年後の建安18年には魏公に封せられ、さらにその4年後には魏王になる時期である。曹操はすでに後漢における圧倒的な実力者となっていた。後漢を倒して自らが皇帝になるのではないかという疑いが天下に強くなってきていた時期でもあるのだが、その疑いを曹操ははっきりと否定している。
 曹操は、後漢という国家がともかくもこんにちまで存続できたのは、自分がいたからだという。彼は、強い口調でいう。自分には簒奪の野望はない、自分が主をしのぐほどの武力と権力を手中にしたのは、国家(後漢)と皇帝のためだったと。
「野望を持たないというのであれば、いま抱え込んでいる軍勢や人材をすべて召しはなち、政務を国家に返還してすべてを捨てて郷里に引きこもればよいではないかと人は言うかもしれない」
 それは不可能だ、なぜか、と曹操は自問自答する。
「自分が権力を手放せば、かならず天下に乱が起こるからだ。自分が現在の地位に居続けるのは、子孫のためを考えるから(自分が皇帝になる意)ではなく、自分がいなくなれば国家が危殆に瀕するためである」
 自分しか天下の乱を収める能力のある人間がいないのだ、だから自分がせざるを得ないと曹操は断言している。
 すごい自負心ではあるが、曹操は天下に平和と統一をもたらすことが自分の責任であり、自分の責任を果たすべく働いていただけで、私的な野望のためではなかったということでもある。さらに、これは裏返せば、自分以上に責任を果たすにふさわしい人物がもしいれば、ためらうことなくいまの地位と権力を譲ると、曹操は宣言しているのである。
 曹操の爽快さは、この、たかだかとした自負心の強烈さと、私利私欲のなさに起因するのであろう。
 曹操の死後、息子の曹丕が皇帝に即位して魏王朝を創始するが、これは曹操のあずかり知らぬことであったろう。晩年、曹操は魏王となり、皇帝まであと一歩の地位となりながら、ついに簒奪を行わなっていない。この逡巡につき、古来、その気はあったが後の世で逆賊と呼ばれるのを憚ったのだろうといわれているが、詩においては壮大な理想主義でありながら現実の行動においては徹底したリアリストであったこの人物には、いたくもかゆくもない後世の批判を恐れるなどというやわなところはこれっぽっちもなかったはずである。
 曹操は、状況がかわって天下安定のためにそのほうが良いとなればそうする、しかし必要な権力と実力は魏王のままで十分手にしている、わざわざあらたに国を興して乱を招く必要がどこにある、とでも思っていたのだろう。
 この点、司馬懿は異なっている。この人物は、自分が皇帝になりたかった。そのため邪魔者を排除していった。結果としてはついにそうならなかったが、これはその前に死んだからである。寿命がつきなければ、この男(としかいいようがない)は、きっと簒奪を実行していたに違いない。
 じっさいのところ、政治家としての悪辣さや行動の苛烈さでは曹操のほうがはるかに上である。それにもかかわらず、史上、司馬懿が曹操よりもはるかに悪人としての印象を与えているのは、性格があまりにも散文的であったためと、それから爽快さがなかった、つまり陰険だったためである。

 前回も触れたが、建安6年(201)に曹操に初めて召し出されようとした際の逸話は、このふたりの性格、器量の差を明らかに示して余すところがない。
 当時、司馬懿は出身地河内郡の上計掾の職にあった。
 上計掾は、郡の太守が毎年の会計報告を朝廷に報告するための資料をとりまとめ、実際に中央政府へ出向いて報告を行う役職である。当時は全国で百あまりの郡が存在し、それのひとつひとつから派遣された上計掾が年末に司徒府の庭に集まってその年の自郡の戸口・耕地面積・財政収支・刑事・民事の重要問題について報告を行った。いわば、上計掾は、郡の代表であり、太守の代理でもあったから、実際の実務的な知識や能力を有する者であることが必須だった。任に堪え得ない者では郡太守の恥になる。どの郡太守も、選抜には細心の注意を払った。いうなれば、当時にあっては、上計掾とは最良の官僚のプールであったといえる。
 慧敏で、優れた人材を常に自分のもとに集めることに熱心だった曹操が、平素から全国の上計掾の職にある人間に目をつけていないはずはなかった。当然、彼らの生まれや平素の行状も詳しく調べていたであろう。曹操は、司馬懿について調べれば調べるほど、有能な官吏であるという感を深くしたにちがいない。第一、23歳という若さがこの実務職には異例にちかかったはずである。この一点だけでも司馬懿という人物の有能さを証拠だてていた。
 しかしながら、曹操は、司馬懿に関して次のような逸話も当然ながら耳にしていたはずである。
 楊俊という当時の人物鑑識で有名な人物が司馬懿を見て、「非常の器である」と評した。 「非常」という言葉は、『史記』をふまえている。「蓋し世に非常の人有りて、然る後に非常の事有り。非常の事有りて然る後に非常の功有り」。
「非常」とは、非凡という意味である。とくに人物の才幹を指し、人物評としては最大級の褒め言葉とされていた。つまりこの評は司馬懿の器量を最大限に賛美したものである。
(しかし)
 と、曹操は思ったであろう。
(どんな意味の非常やら)
 じつは、『史記』のこの文には続きがある。 「非常なる者は固常の異とする所なり。故に曰く、黎民焉を懼る。
(非常は通常からみれば異常である。ゆえに普通の人間は非常なる人間を恐れる。)」

 通常人が非常人を恐れるのは、既存の秩序を破り、世に波乱を巻き起こし、災いをもたらすからである。
 実は、曹操も“非常”と若いときに評されたことがある。「非常の人、超世の傑」と。 許劭という、やはり人物鑑識で有名な人物が、若年の曹操を「治世の能吏、乱世の奸雄」と形容した。この話は後世人口に膾炙した逸話となったが、曹操の場合、“非常”とは、治にいて乱を起こす類、つまりこの意味での“非常”だったわけである。曹操はまさしく「黎民焉を懼る」存在となった。
 もしかしたら、司馬懿は自分と同じ種類の非常さを持った人間なのかもしれないとかんがえたであろう。
 根拠はある。司馬懿には狼顧の相があるという。‘狼顧’とは身体を動かさずに首を回して顔を真後ろに向ける動作である。狼は胴体はそのままで背後を顧みることができるらしい。そこからこの名前が付いている。本当ならばまさしく異常である。
 ただし曹操は理性人で怪力乱神を一切信じない。こんなことが人間にできるはずがない、と頭から信用しない。問題は、このような噂が立つという背景である。これは、司馬懿の‘非常’がいかなる性質のものかを物語っているのではないか。
 曹操の欲しいのは有能ではあっても忠実な、手足となる部下であって、上を窺う姦雄ではない。
 だが、ともかくも召しだして会ってみることにした。手にあわなければ殺せばよいとでも思ったか。
 ところが、司馬懿は断った。これは前回も述べた。その理由が、曹操の出自を軽蔑してのことであるのも前述のとおりである。
 ただし、この際、表向きの理由として風痺の持病のため出仕するあたわずと答えている。風痺とは今でいうリューマチである。
 返事を受け取った曹操は、この口実を最初から信じなかった。卓越した詩人でもあったこの人物にはすぐれた人間心理の洞察力も備わっていた(この洞察力が、曹操をして人物鑑定の達人ならしめていた)。
 さらには、曹操は司馬懿の拒否の真の理由も察したかと思える。宦官の家系の人間として、生まれてこのかた世の貴顕(上流階級)から陰に陽にさまざまな差別や蔑視を受けてきた曹操は、この種の扱いには敏感であったはずである。
 陳琳の手になる、曹操を罵倒した有名な檄文は、この司馬懿と曹操のエピソードの前年に書かれたものである。これは陳琳が当時仕えていた袁紹のために草したものだが、ここの檄文では曹操の祖父にあたる曹騰が宦官であり、いかに宦官が卑しむべき存在であるかを縷々述べ、さらにその宦官の家に養子となった人物(曹嵩)を、金にあかせて政府の高官の地位についたと罵倒したうえで、だからそんな祖父や父をもつ曹操は本質的に廉恥心というものがない下劣な人間なのだと攻撃している。 「曹操は贅閹の遺醜にして本より遺徳無し、ひょう狡鋒協、乱を好み禍を楽しむ」
 この偏見は、当時の上流階級に共通するものであろう。人を本人で見ず、身分や出身で判断する。
 曹操は、司馬懿もその手の輩であることを察したであろう。
 この檄文を陳琳に書かせて天下にばらまいた袁紹は、前回のべた貴族の名門袁氏の当主であるが、この前年におこなわれた官渡の戦いで曹操に大敗して勢力は失墜した。この事実は、乱世には個人の実力がすべてであり、世襲の身分や家柄が何の意味もないということを満天下に知らしめた点で画期的な事件であったといえる。
(であるのに、こいつはいまだに自分の門地を鼻に掛けているのか) と曹操はなかばあきれて思ったであろうか。
 その程度か、と曹操は司馬懿に対する評価を一挙に下げた。
 曹操はその証拠に一度の拒絶であっさりあきらめた。これくらいの才幹の人間ならほかにもいるとも思ったらしい。
(何が非常か。ばからしい。ぜいぜい治世の能吏どまりだ。とても乱世の奸雄の柄ではない)
 曹操の心中を忖度すればこんなところであろう。
 このあと、曹操は司馬懿をそのまま放置した。危険な存在と判断したなら、招聘を断った時点で司馬懿は無事ではすまなかったはずである。殺されていたかもしれない。そうならなかったのは、そこまでの器量はないと見なされていた証拠である。
 もっとも、7年後(208年・建安13年)、司馬懿は今度は強制的に曹操の部下に加えさせられるのだが、これは戦乱がいよいよ熾烈になって人材が払底してきたため、曹操にしてみれば二流以下の人材でも不平は言っていられなくなったという事情があったらしい。
 この二回目の招聘の際に、曹操は使者に司馬懿への伝言を言い含めた。
「こんど断ったら牢屋にぶちこむぞ」
 おそれをなした司馬懿は今度は躊躇なく幕下にはせ参じるのだが、このあたりに両者の器量の大小が歴然と現れている。この程度の脅しに、屈するとは、役者がちがう、といった感じである。
 この大小は、すなわち三国時代前期と後期の時代の大小でもある。


(2000/10/27執筆、10/30補筆)
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