三国と十六国の間  〜晋代の中国について〜

司馬懿と司馬氏(1)

 五丈原の役以後の三国時代後期、すなわち晋の成立の過程は、司馬懿とその意志を忠実に受け継いだ息子たちが、政治的対立者をつぎつぎと迫害抹殺していった歴史である。純粋な権力闘争であり、何の理想も大義名分もない。実に暗い時代である。

 この時期の世相の暗さには、司馬懿の性格が大きく影を落としている。
 司馬懿には、たとえば曹操のような、天下はいかにあるべきかという高邁な経綸思想や万民のために天下を救済しようという使命感がなかった。あったのは自分が皇帝になりたいという我欲だけである。皇帝になって権力を手にし、天下の富を自家のものにするという純粋に個人的な野望しかなかった。しかもそれを隠そうともしなかった。
 要するに、三国時代後期は、ひとりの男(とその一族)の、むき出しの私利私欲によって動かされていたのであり、そんな人物が国家の権力の中心にいては時代は暗くならざるをえないであろう。
 天下を私物化しようとする彼らにとって、敵とは、「天下は一人や一家の私物ではない」という意見を抱いていた人間である。そして、野望達成のために司馬氏がとった手段は謀略と暗殺であった。敵を倒すのに兵戈にうったえるよりも、陰謀で陥れるやりかたをもっぱらとした。やりかたが実に陰湿である。
 いま述べている時期よりもすこしあとのことだが、晋のある皇帝が即位後まもなく晋朝成立の歴史を左右から初めて聞き、「そんな成り立ちの国が長く続くはずがない」と涙を流したという話が残っている。

 『晋書』の巻一、帝紀一に司馬懿の伝が立てられている(高祖宣帝紀)。
 司馬懿は晋の建国後に宣帝という皇帝号を追贈されている。彼の伝記が晋朝の歴代皇帝の伝記部分に入っているのは当然なのだが、そのなかで、司馬懿の性格は、「忌なれども外寛」(本当は人を憎む感情が強い性格だったが外面は寛大な風を装っていた)」と記されている。
 「猜忌にして権変多し」とも書かれている。他人の才能や勢力を嫉妬し憎み、さらにはその場の状況にあわせて身の処し方を変え、権謀術数を弄するのを常としたという意味である。
 ひとことでいえば、陰険な性格だということである。
 それにしてもひどい評である。
 普通、中国の王朝編纂の歴史書(正史)では皇帝の伝記というものは大なり小なり体裁良く書かれるもので、ここまで悪くいわれるのはめずらしい。
 ある王朝が前朝の歴史書を編む場合、いまの王朝の治世を賛美するため、比較の対象として前代の皇帝とその治世ぶりをおとしめることはある。だが、あまり前朝に否定的な評価を与えると、その王朝を承けて後を継いだ自分まで否定することになりかねないから、批判は一定の限度内にとどまる。これは、その限度を超えている。
(もっとも、前朝を武力で滅ぼして取って代わった場合はべつである。自らの正当性を主張する必要があるため、前朝がいかに悪い王朝であったかを強調する必要が生じるからである。
 しかし、『晋書』の場合、編纂されたのは、幾王朝もあと、300年後の唐になってからだからこの必要はなかった。さらにいえは、この『晋書』は複数の著者の共同作品であり、また、史料の博捜では後世定評がある。さらには、最後に時の皇帝の検閲裁可を経ている。一個人が歴史書を編纂する場合、偏った主観による評価が下される可能性があるが、『晋書』ではその可能性はない。)
 司馬懿の陰険さは、誰が見ても弁護のしようがなかったのであろう。

 司馬懿の一生の行蔵を見ていると、陰険さのほかに、どうしようもない卑しさというものが臭っている。
 司馬懿が中途で死んだあと、息子の司馬師・司馬昭は、父の簒奪路線を忠実に継承した。司馬師も司馬昭も若死にしたので、簒奪の事業は孫の司馬炎にいたってようやく完成するのだが、言動の卑しさは彼ら全てに共通している。
 通常、司馬氏は「河内の司馬氏」と当時うたわれた貴族の名門であるとされている。だが、この卑しさはどうにも累代の貴族のものではない。

 司馬懿の司馬氏について、唐代の8世紀にできた、当時の中国の姓氏の百科全書である『元和姓纂』にはこうある。(ほぼ同じ系図が『晋書』にも掲載されている。)
 司馬氏は、帝高陽(=センギョク)の子である重黎を始祖とし、唐、虞、夏、殷の古代王朝時代には祝融の職を勤め、その後、周の時代に司馬の官職を与えられて姓としたのがそもそもの由来である。こののち数流に分かれ、司馬懿の司馬氏は、秦滅亡直後(紀元前3世紀)に司馬キョウという人物が項羽によって殷の地(現在の河南省の黄河北岸地域。河内郡)に封ぜられて以来、司馬懿の生きた三国時代まで、前漢・後漢時代の400年間を河内郡温県孝敬里を本貫として一帯に勢力を扶植し続いてきた。
 後漢時代(紀元2世紀初め)に羌族の反乱平定で名を馳せた将軍司馬鈞をだし、以後は一貫して文官として、司馬懿にいたるまでの代々は予章太守(曾祖父司馬量)、潁川太守(祖父司馬儁)、京兆尹(父司馬防)と、地方民政長官の役職を担当してきた。司馬防には8人の息子があり、司馬懿はその次男である。
 このとおりだとすれば、まさに名家中の名家であろう。
 しかし、この『元和姓纂』や『晋書』の家系図には疑わしいところが多い。
 まず、中国の正史の筆頭である『史記』が「五帝本紀」で黄帝を中国人の祖先とし、彼から中国の歴史が始まることとしたのだが、センギョクは、黄帝の次の中国の支配者となっている。だが、センギョクの頃は天と地が梯子でつながっていたというのであるから、これはあきらかに事実ではない。神話である。神話を信ずるわけにはいかない。唐、虞の王朝も実在したものではない。夏もいまだ存在が確認されていない王朝である。以後歴史時代である殷、周代にいたっても、代々の当主の名前もない。信憑性に欠ける。
 秦代になって司馬キョウが河内に封ぜられたというくだりから説明がやや具体的になる。
 確かに、『史記』の項羽本紀には司馬キョウの名と同様の記事が見えるから、これ自体は確かに事実であろう。(ちなみに、はるかに時代は下るが清代の『全晋文』の司馬懿の項では、系譜を司馬キョウから始めている。)
 ただし、『元和姓纂』や『晋書』の系譜では司馬キョウが司馬懿の河内司馬氏の直接の先祖であるといいながら、司馬キョウから以後、何代もの間、子孫の名も事績も伝わっていないのは奇妙であるうえ、約300年後の後漢になって突然、8世の孫として司馬鈞の名が出て来、それまでとは対照的に、司馬鈞以後、司馬懿までの5代に関しての箇所がきわめて詳細であるのはどういうわけか。
 本当のところは、司馬懿の司馬氏の祖先として確実にたどりうるのは司馬鈞までではないか。
 だとすれば、三国時代までの司馬氏は、本当はせいぜい百年そこそこの歴史しかない、後漢の中期以後にせり上がってきた成りあがりの家であったということになる。

 司馬氏は、当時の言葉でいえば、「世二千石(よよにせんせき)」といわれた郡太守クラスの地位を最高到達官職とする、中堅官吏の家柄である。庶民や単に荘園の多さを誇り奴婢を多数抱える勢力のあるだけの無官の土豪劣紳ではなく、朝廷から与えられた官職を持っている。さらにはその官職も低くない以上、いちおう貴族のうちにははいる。
 だが、その官職は地方のもので、中央政府に地位を得たことはないから名門貴族とはいえない。
 たとえば当時の貴族のなかでも名家中の名家とされた弘農の楊氏などは、そのゆえんは4代にわたって宰相―中央政府の最高職―を出した点にあった。あるいは汝南の袁氏についていえば、4代にわたって一族から5人の宰相を出したという理由で、名家中の名家なのであった。
 これら上流の貴族からみれば、司馬氏などはいわば下郎同然であったかと思われる。
 その証拠に、司馬氏の通婚範囲はどうも、郡内の同格の家柄に限られていたらしい。これは、河内郡のそとでは貴族として認められていなかったことを示す。
 当時の貴族の身分意識は強烈で、官職や家柄が格下の相手とは、平素一切のつきあいをせず、たとえば宴会でたまたま同席しても存在を口をきかなかったらしいし、それどころかわが身が穢れるといわんばかりに座を遠ざけたりした。
 代々の司馬氏は、上流貴族からこの種の扱いを受け続けてきたはずである。

 後漢から三国時代にかけての社会構成をことさらに現代風に言い直せば、全国クラスの名声と勢力を持つ貴族は上流階級、庶民や地方豪族は下層階級であろう。そして、司馬氏のような地方官僚は中流階級である。現在でもそうであるように、上流でもなく、下層でもない中途半端な階層に位置していた。
 代々の司馬氏は、現代でもそうであるように、中流の地位にある人間によくある、権威を否定するのではなく、それに従いその中で上にあこがれ目指す、強烈な上昇志向を抱いていたかと思われる。
 こう考えてみると、司馬懿(および息子たち)の行動に納得のいくことが多い。
 司馬懿、司馬師、司馬昭の生涯を通観すれば、なりふり構わぬ立身出世の軌跡ともいえる。

 中産階級の特色のひとつに、反対に自分より身分が下の者に対してはげしい蔑視の感情を抱くという性向がある。上から見下される境遇で、傷ついた自尊心の回復を求めてであろう。一種の防衛反応として、過剰な良家意識もまま見られる。司馬氏の家風として、このふたつが見事に現れている。
 有名な、司馬懿曹操に仕えた際の逸話がある。
 司馬懿は、正式に曹操に仕えたのは建安13年(208年)だが、その前の建安6年(201年)、まだ曹操が後漢の司空であった時期に、一度曹操に招聘されたことがある。ところが、司馬懿はこれを断った。
 『晋書』の「高祖宣帝紀」は、このおりの司馬懿の心境をこう説明している。
「漢の運は方に微えんとするも、曹氏に節を屈するを欲せず」
 つまりは、滅びようとしている漢には我が身が危なくて仕えられないし、さりとて曹氏ごとき下司な家の者に頭を下げられるかと思ったというのである。よく知られているように、曹操は宦官の家の出身であった。これが拒否の理由である。

 のち晋の初代皇帝となった司馬炎(司馬懿の孫)についてもよく似た話があって、ある勅書のなかで、「わが一族は代々書生の家である」と誇らしげに述べている。
 当時の書生とは、現在の言葉でいう学者であり、知識人ということである。だが、当時、学問は特定の家に代々伝えられるいわゆる家学であり、その家に生まれればだれでも“書生”であった。家学は先祖伝来の学問(当時の学問とは儒教教典の解釈学であるから、その解釈の内容)をそのまま子々孫々に伝えるだけであるから、あらたな発展は基本的に皆無である。そのため後漢末期には学問が硬直化した。さらには本来個人の学識で決定されるべき学者が世襲の地位になっていたため、当然のことながら無学無知の“書生”が輩出し、学問自体の水準も低下した。学問どころか、文盲の書生までいたらしい。(のちのち触れてゆくことになるが、司馬氏自体がその典型であることが晋朝の歴史のなかで明らかになる)。
 後漢末に、この家学独占による学問の知的閉塞状態に憤慨した在野の学者が、新たな学問的潮流を起こす。鄭玄(紀元127 - 200)はその代表的な存在である。鄭玄は2世紀から3世紀初めの人である。
 それから半世紀以上を経た司馬炎の時代、すでに世襲の“書生”はその固陋さと知的創造性のなさを阿諛される対象であり、すくなくとも尊敬される存在ではなくなっていた。ところが、この司馬炎の言葉は、わが家はそこいらで独学している人間(たとえば鄭玄のような)ではなく、先祖代々の書生の家なのだと自慢しているのである。今述べた当時の世相を考えると、これがなぜ自慢になるのか理解に苦しむのだが、学問ではなく、家学という伝統的権威を拠り所に我が家の由緒正しさを誇るところに、司馬炎の真意はあったらしい。


(2000/9/30)
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