三国と十六国の間  〜晋代の中国について〜

五丈原以後

 220年の後漢滅亡以降、60年の分裂抗争を経て、中国が再統一されたのは紀元280年である。普通、この60年間を三国時代と呼ぶ。そのなかで、通常、最大のクライマックスとされているのが、五丈原の戦い(234年)である。北伐に打って出た蜀の丞相諸葛亮孔明率いる蜀軍と、司馬仲達率いる魏軍が五丈原で対峙するが、陣中で諸葛孔明は病没する。

 日本では、三国時代とは、まず第一に蜀の興亡の歴史である。
 日本人の三国時代の知識と理解は、伝統的に、歴史資料(たとえば正史の『三国志』)や専門書からではなく、直接間接は別として羅貫中(1330? - 1400?)作の小説『三国演義』によるものである。たとえば、蜀を三国の中の正統王朝とする見方は、この『三国演義』の筆法である。
 日本の三国時代理解の独自な点は、歴史というよりは文学、さらに正確にいえば、劉備・関羽・張飛と諸葛孔明が主人公の物語として捉えているところであろう。この文の題名に挙げた五丈原の名を冠した、「星落つ秋風五丈原」という、諸葛孔明の死を傷んだ土井晩翠の有名な詩がある(明治31年作)。「星落つ」とは、孔明の死を指している。現在なら「巨星墜つ」とでもいいかえられそうな、万感を込めたこの言葉は、日本人の三国時代観を一言で言い尽くして余すところがない。いわゆる“三国志”の世界である。
 五丈原における諸葛孔明の死後、小説の『三国演義』においても、またもちろん正史の『三国志』においても、蜀は姜維という猛将が孤軍奮闘するものの、滅びへの道をたどってゆくのだが、たいていの三国時代をあつかった一般向けの出版物(とくに小説)ではこの部分は付けたりのような扱いで、五丈原以後、蜀が存在しないかのような感じさえ受ける。
 考えてみれば妙な話である。
 実際には蜀はそののち29年も存続している。建国は221年で、五丈原の役は先ほども述べたように234年だから、五丈原までより後のほうが蜀の歴史としては長いのである。五丈原の役は、蜀の歴史として見る三国時代の歴史からいっても、途中の(重要ではあるが)一事件にすぎないということになる。
 ついでにいえば、五丈原の戦いと、諸葛孔明の死は、後漢の滅亡(220年)からわずかに14年を隔てるのみで、歴史上の三国時代の終焉(280年)にはまだ半分にも達していない。三国時代全体からいえば、さらに重要度は低下する。とても、ここで時代の終わりとみなすことはできないである。専門の歴史家からみれば、五丈原をもって三国時代の終末などとするのは、迷妄もはなはだしいであろう。
 たしかに、史実としての歴史からみれば、偏跛といわれても仕方のない見方である。
 だが、歴史としてではなく、物語であるとするのであれば話は別である。
 “三国志”において、五丈原の戦いは、最後に残った物語の主人公―諸葛孔明―の最後の活躍の場面であり、死の場面でもあるという、最大のやま場である。劉備・関羽・張飛が次々と世を去ったあと、最後に五丈原で諸葛孔明が死ぬ。そして、孔明の死によって、主役はすべて退場する。ここで大団円とするのは当然であろう。

 だが、このあまりに文学的な三国時代の捉え方は、歴史としての三国時代の捉え方としても、ある意味正鵠を射ているのではないか。
 小説『三国演義』が依拠した、陳寿(233 - 297)作の正史『三国志』(3世紀末成立)は、魏を正統王朝とする立場を取っている。
 これは著者たる陳寿が魏の譲りを承けて成立した晋に仕えた人物であり、『三国志』は晋朝の時代に書かれたものであるから、自分の仕える王朝を正統とする立場からすれば当たり前といえば当たり前である(魏を偽朝とするとそれを継いだ晋も偽朝ということになってしまう)。
 それだけではなく、この判断は、現実に照らしてみても、もっともであるといえる。
 三国の中で、魏は最強の国家だった。漢の中心地帯を含む最大の版図を保ち、人口も蜀呉の二国を併せたよりも多かった。魏の人口は当時の全中国人口の5割以上を占める。国力でいえば、全体を10として、魏6、呉3、蜀1ほどであったといわれる。三国時代は、地域的にも、政治・軍事的にも魏が圧倒的な優位を持ち、魏が時代の主導権を握っていた。
 蜀と呉は、連合してなんとか魏に対抗できたのだが、それでも6対4の取り組みである。 このような不均衡な対立がなぜ60年も維持できたかといえば、当時の中国が、黄巾の乱を初めとする後漢末の戦乱によって著しく荒廃していたためである。魏は先ほども触れたように後漢の中心地域を占有していたのだが、この一帯はもっとも深刻な戦禍を蒙った地域でもあったから、他の二国に比べて内政の整頓に時間をとられ、外征に全力を振り向けることができないという事情があった。
 しかし、時間が経って魏の本来の国力が恢復してくるにつれ、蜀と呉は次第に劣勢な立場に追いつめられていくことになるのは必然の流れである。
 五丈原への出征において蜀の国力は限界に達し、以後、急激に弱体化してゆく。蜀の衰弱は、蜀と運命共同体である呉の衰弱を同時に意味した。
 こうしてみると、ここで三国の鼎立は終わったといえなくもない。すくなくとも、五丈原が三国時代の折り返し点であったのは確かなのである。五丈原を境として、三国時代は大勢が決し、以後は統一への過程にすぎなくなったと見なすこともできる。
 こうしてみると、五丈原を三国時代の終わりと見なす見方は、理由はどうあれ、真実を突いているということになる。

 五丈原までの三国時代の歴史を仮に前半と呼ぶことにして、前半が蜀、なかんづく劉備・関羽・張飛と諸葛亮孔明の物語であるとすれば、五丈原以後の物語、つまり後半の物語の主役は誰がふさわしいか。
 まず、国としては蜀や呉でないのはいうまでもない。もはや、これら両国は歴史のかなたに消えゆく存在でしかない。
 かといって、魏でもない。蜀と呉を滅ぼすのは魏ではないからである。
 五丈原以後の三国時代の歴史は、魏にとってもまた、滅亡への緩やかな下降局面である。
 紀元280年、呉を滅ぼして全中国の統一王朝となったのは、魏ではなく、晋(265年成立)である。
   晋の初代皇帝は、武帝の諡で知られる司馬炎である。冒頭で名の出た司馬仲達(諱は懿、以後司馬懿と呼ぶ)の孫にあたる。司馬懿は、“三国志”でも重要人物として登場する。晋は、この司馬氏が建てた国である。
 司馬懿(179 - 251)は、曹操がまだ後漢の一臣下であったころからの部下であるが、 諸葛孔明との五丈原での対峙を中心とする対蜀作戦の功績をバネに、魏における第一等の権力者として、自らの地歩を決定的に固めた。これ以降、魏の(すなわち全中国の)政局は、司馬懿とその子孫を中心に動くことになる。
 歴史として見た五丈原以後の三国時代は、司馬懿と息子たちが自家の王朝樹立を目指して魏を内部から食い荒らしてゆく歴史ともいえる。五丈原以後の三国時代の歴史は、晋誕生の歴史でもあるのだ。
 皇帝である曹氏はまったく虚位を擁するだけとなり、(その過程で、蜀が司馬氏の私兵同然と化した魏軍に滅ぼされる。先ほど、蜀を滅ぼしたのは魏ではないといったのはこういう意味である。呉の場合はまさしく晋が滅ぼした)、最後には、司馬懿の孫の司馬炎にいたって、禅譲の形を取って魏をも消滅させる。
 五丈原以後、三国時代後半の物語の主役となるのは、生まれようとする晋であり、その晋を生み出す司馬氏一族である。


(2000/9/1執筆、9/5補筆)
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