東瀛小評


近代日本の歴史を変えた失言二つ


                     2006年5月26日執筆

 その一 慶応3(1967)年12月10日、小御所会議における山内容堂の失言  

「海内平和三百年に幾し、これを維持したるは徳川氏である。徳川氏の過失は大なるものあるも、大政を朝廷に奉還し、政令の一途を計りて、国是を決定せんとす、その誠忠は大いに賞すべきものがある。かつ徳川内府は賢明の名つとに著る。よろしく朝議に参与せしめざるべからず。しかるに今これを疎外擯斥せんとするは何故ぞ、これ恐らくは幼冲の天子を擁して権柄を窃取し、自ら私せんとするものではないか」  (徳富蘇峰 『近世日本国民史 明治三傑』、講談社版、1981年5月、同書413頁から引用)  

  この発言を捉えて岩倉具視がすかさず、「御前会議の席上、幼冲の天子などと言う不敬の言語を弄するは怪しからぬ」と切り込んだため、容堂は謝罪させられた上、それまで振るっていた幕府弁護・平和的解決の弁を止めざるを得なくなった。その結果、徳川慶喜の官位返上、土地・人民の返上さもなければ武力討伐という薩長の武力倒幕路線が、明治新政府の政策として確定した。


 その二 昭和19(1944)年4月5日、重臣会議における東條英機の失言  

「国内が戦場とならんとする現在、よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向くおそれあり、陸軍がそっぽを向けば、内閣は崩壊すべし」 (読売新聞社編 『昭和史の天皇』 1、読売新聞社 1976年5月第16刷、同書304-306頁に引く『木戸幸一日記』から引用)  

  この時の重臣会議は、小磯国昭内閣の辞職をうけて、後継首班を決めるために明治宮殿の表拝謁の間において開かれた。参加者は近衛文麿(公爵)、平沼棋一郎(男爵)、広田弘毅、岡田啓介(海軍大将)、東條英機(陸軍大将)、木戸幸一(内大臣)、鈴木貫太郎(海軍大将)、若槻礼次郎(男爵)。  
  次の内閣を和平(終戦)内閣ではないかと疑い、陸軍の不賛成を盾にとってあくまで戦争継続を唱える東條の脅し(陸・海軍大臣は現役の軍人でなければならないという規則があるので陸軍が大臣候補を出さなければ組閣できず内閣が流産する)に、すかさず木戸が「陸軍がそっぽを向くとは重大発言である。なにか証拠があるのか」と突っ込み、さらに岡田啓介が、「この重大事局、大国難に当たり、いやしくも大命を拝したるものに対しそっぽを向くとは何事か」と一喝して東條の強硬論を封じ、その結果、近衛、平沼、岡田、若槻がひそかに画策していた鈴木貫太郎内閣が実現した。日本は鈴木内閣のもとポツダム宣言を受諾し連合国に対して降伏することになる。  


  むろんほかにもあろう。
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