東瀛小評  


周作人と汪兆銘について大方の愛国的中国人に尋ねたい質問若干

                                2006年4月16日執筆

  魯迅の弟の周作人(1885―1967)は、戦前戦後を通じ中国における屈指の“親日派”である。それと同時に、屈指の漢奸にして“反面人物(否定的な評価を与えられる人物)”でもある。

  「このごろ中国に排日家が多くなったのは動かしがたい事実である。中国人の日本人に対する反感がとくに深いのはなぜだろう。原因はいろいろと複雑にちがいないが、思うに最も重要なのは、日本人が中国人の悪い性質をよく心得ていて、それにふさわしいやり方で片をつけようとするからである。私どもは、そんなことをするのは日本の一部の軍国主義者だということを知っている。そこで我々は、自国の掠奪階級の連中に反対するのと同じように彼らに反対するのでなければならぬ。だが排日家の多くは、あらゆる日本人を一括して排斥排斥と叫び、ひたすら国民同士の憎悪を助長する。これにははなはだ同意しかねるのだ。(略)そもそも自分の側のこととして、溜飲を下げる程度の小利のためにそんなに大きな犠牲を支払う必要があるものか――国民同士の憎悪を助長し、専横にして有耶無耶なる思想を育成し、国民の品格を失墜するほどの犠牲を」 (「排日の悪化」、1920年。木山英雄訳)

  「けだしある友人(同意を得てないからしばらく名は言わずにおく)が言ったように、和は戦よりもむつかしく、戦い敗れても民族英雄になれる(昔は自分が命を犠牲にせねばならなかったが、今は逃げる所まである)が、和が成れば万代の後まで罪人だ。それゆえ主和のほうが、よほど政治的定見と道徳的毅力を要するのである」 (「再論油炸鬼」、1936年。木山英雄訳) 。  

  愛国的な中国人に尋ねたい。 “親日派”で、漢奸で“反面人物”だからと、以上の周作人の日本人観と、それを合わせ鏡とした中国人観までを、誤りだとして否定できるか。

  汪兆銘(汪精衛。1883-1944)は、中国近現代史における最大の親日派であり、最悪の漢奸であり、言うまでもなく“反面人物”である。
  愛国的な中国人が汪兆銘を犬畜生のように罵る声はあまた聞く。しかしこれから紹介する彼の主張に対して首肯するに足る反論を聞くことはない。
 
  「中国は宋末と明末に二度国が亡びたことがあるが、その亡国の原因の中で最も大きく最も著しいものは、本音を吐かぬ点にあつた。心の中に思つてゐることと口の先にいふことが一致しないのである。そこで最も都合のいいやり方は、自分が責任を負はずに、他人の出具合を見てゐる。和を媾ずる時に当つてはやみくもに和をいひ立て、戦ひをなす時に当つてはやみくもに戦ひをいひ立てる。ところが和すれば損をし、戦へば敗れることがあるために、最も都合のいい方法は、自分だけ当り障りのないところにゐて、どうせ他人が死ねばいい、といふものである。是において、明の熊廷弼は屍首を九方に分たれ、明の袁崇煥は市場にまづ四肢を断ち次に喉をゑぐるなぶり殺しの刑に処せられたのである。悲しむべきは、彼らが生命を断たれたことに在るのではなく、かくの如く皆が本音を吐かないやり方に在るのだ。責任を負はない空気の中では、八方塞がりであり、一死もつて責を塞ぐのほかは、まつたく切り抜ける路がなかつたのである」 (「誰もが本当のことをいはねばならならぬ、誰もが責任を負はねばならぬ」、1937年8月4日。桶谷秀昭『昭和精神史』から)

  これは蘆溝橋事件勃発から1か月後に放送論文として発表されたものである(桶谷秀昭『昭和精神史』、「第十七章 汪兆銘和平運動の悲劇」による)。  
  蒋介石は、蘆溝橋事件直後の「最後関頭」という演説で、「我らは弱国であり、もしも“最後関頭”に臨むときは、ひたすら全民族の生命を棄てて国家の生存を求めるだけである」と宣言した。国家のために国民が死ぬのは当然であると言ったわけである。実際においても、蒋介石の国民党軍は、圧倒的な劣勢にある対日戦争で敗北だけは何としても回避するという立場から、黄河の堤防決壊や徹底的な焦土作戦という国民の生存環境を無視する戦術を取った。それに対し汪兆銘は真っ向から異議を唱えたのである。
 以下もその一つである。  

 「将来は重慶も成都もすべて同じ運命を辿るであらう。しかもこのやうに大々的に焼き払ふ外に、なほ遊撃隊の小規模の放火があり、かくして中国全土を瓦礫灰燼に化せしめようとしてゐる。もしも和平の見込みがないならば、全部死滅するのもまたやむを得まい。しかし、もし和平の希望があり、和平の条件が国家の独立と自由に害がないならば、何故に民衆を駆つてあくまで死滅の路を辿らしむる必要があらうか? かかる叫びは前線及び後方の民衆は口を箝せられて発することができない。しかし被占領地域における民衆はすでにかかる叫びを発してゐる。私は何のために被占領地域に足を踏み入れたか? かかる叫びに誘はれたからである。私はこの叫びを、前線、後方の、口を箝せしめられて声を発し得ないでゐるものに結びつけたいと思ふのである」 (「如何にして和平を実現するか」、1939年8月9日の放送演説。桶谷秀昭『昭和精神史』から)    

  汪兆銘首班の南京政府が発足するのは、翌1940年である。日本の傀儡政権として中国史上悪名の高い南京政府の樹立に向かった汪兆銘の心情は、ここに尽くされていると私は思っている。しかしこの心情についても、きちんとした――情理かね備わった――反論を見たことはない(注)。

 注。和久田幸助『証言 昭和史の断面 日本占領下香港で何をしたか』(岩波書店 1991年5月)より。  
 “話が脇道にそれるが、汪精衛夫人陳璧君には一面識があり、その一門の中には親しい友人もいたので、その人たちについて書き足しておきたい。(略)前記の一門の中の親しい広東人の友に、汪精衛が漢奸とののしられながら出馬した真因はなへんにあるのかを質してみたところ、
 「僕も最初は、日本の無理無体さを考えただけでも、汪先生ともあろうお人がなぜなのかと考えもし悩みもしたが、汪先生は僕を同志の一人として重慶(チョンチン)から行をともにすることを決められると、その心情をこう話してくれたんだ。『日本軍が占領しているわが国の広大な土地は、自国内では最も高い文化度と人口密度を持った省と都市を網羅していて、それら占領地の何億という中国人たちは、中国から離脱したのも同然で、責任ある中国人の統治者も持っていない。重慶もそんなことは重々承知していながら、手をこまねいているばかりだ。わたしは中国の一政治家として、そんな有様を見るにしのびない。漢奸の親玉といわれようが、なんとののしられようが、まず日本軍の手から中国人民だけでも取り戻す者が出てこなくてはいけないのだ。だから、わたしは、これが大きな賭けであることはわかっていながら、意を決して乗り出したのだ・・・』」。そう話し終って目がしらに手を当てた。  
  それから後の、死に至るまでの汪精衛の去就は、詳述するまでもあるまい。そして現在でも、彼に対する評価は、大漢奸の域から抜け出していない。だが、当時日本軍占領地に捨てられたも同然な中国人民 〔引用者注・原文傍点〕という言葉に、私の心も痛むのである”  (「占領軍芸能班長として」 同書25-26頁)

 
  大方の愛国的な中国人、知日派の中国人に尋ねたい。  
  国家よりも国民一人ひとりの生命を守るために日本と和平する道を取ったから、汪兆銘は売国奴なのか。  
  国家――というより政府というほうが正確だろうが――のために国民はみな死ねと言った蒋介石が正しかったのか。  
  抗日戦争が中国に利あらずとなっていた場合、中国人はまさに蒋介石が「最後関頭」で主張したように、最後の一人まで戦い、一人残らず死ぬべきだったのか。  
  もしそうなら、あなたたちの主張は自分たちが批判する日本の軍国主義者のそれとどこがどれほど違うのか。
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