東瀛小評  推薦文章


林思雲 「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」
原題:「読福沢諭吉『脱亜論』有感」

                                      『日本華網』ウェブサイト2004年12月2日ほか掲載
                                               
 (邦訳2005年4月10日)

  (一)  

  福沢諭吉の「脱亜論」は中国で広く知られている。中国では「脱亜論」に対する見方は大部分が批判であって、福沢は「アジアの隣国に対して軽蔑した態度を取り、列強を真似て侵略することを主張した」と見なされている。しかし「脱亜論」の断片を見たことがあるだけで、「脱亜論」の全文を読んだことのない人間が普通である。私がここで「脱亜論」を全訳したのはこのためであり〔訳注・2004年末に『日本華網』インターネットサイトで「脱亜論」全文の中国語訳を掲載したことを指す〕、関心のある人びとの参考にしてもらおうと思ったのである。
  「脱亜論」を翻訳する過程で多くの資料を参考にせざるを得なかった。しかしこのことはかえっていい勉強の機会になった。私が「脱亜論」を通読して得た第一の感想は、中国人は福沢諭吉のことを相当程度誤解しているというものである。なによりもまず私は、いわゆる福沢の「アジアの隣国に対して軽蔑した態度」という見方が問題だと思う。  
  その理由を述べるために、福沢が「脱亜論」を書いた背景を見なければならない。
  「脱亜論」が書かれたのは1885年である。この文章は『時事新報』(現在の『産経新聞』の前身) の社説として発表されたものであり、当初題名はなかった。「脱亜論」はのちに福沢の著作を出版する際、別人がつけた題名である。福沢がこの文章を書いたことについては、当時の日本の世論において闘わされていた思想的な論争の情況がある。日本は中国・朝鮮といった隣国の二国とどうつきあうべきかという論争である。  
  中国と日本は、冊封・朝貢関係の歴史である期間が長かった。言葉を換えれば一種の不平等な関係である。米国の砲艦が1853年に日本に侵入して日本は「日米和親条約」という不平等条約を強制的に締結せざるをえなくなった。こののち日本は英国・ロシア・フランスなどとも続けて同様の条約を結ばせられた。そして強制的に“開国” させられたあとの日本では、有識者が西洋強国の技術に学んで自強と自存を図るべしという主張が行われる。この情況は同時期の中国と非常に似ている。そして1868年の明治維新はこのような背景において起きた。  
  当時の中国、日本および朝鮮はともに西洋列強の侵略にさらされており、国家と民族の滅亡の危機に瀕していた。だから三国は西洋の侵略への“抵抗”という点においては利益を共有しているといえた。このような背景のもとに、日本では“興亜論”(のち“大亜細亜主義”も呼ばれる)を唱える人間が出現する。代表的な論客には勝海舟、植木枝盛、大井憲太郎、樽井藤吉など、当時の日本における有名な政治家や思想家が含まれている。“興亜論”は、日本とアジアは唇歯輔車の関係にあり、隣国が滅びれば日本にも危険が及ぶという認識に基づくものである。そのために彼らはアジア――中国と朝鮮が主な対象だが――の覚醒を促し、日本・中国・朝鮮が同盟を結んで三国が提携して共同で西洋列強に対抗するべきである、それが日本にとって最善の国策だと主張した。  
  中国でもアジアは連合して西洋の侵略に対抗すべしという、これと類似した思想が生まれていた。たとえば梁啓超の「亜粋主義」、章太炎〔訳注・章炳麟〕の「亜洲和親主義」、孫中山〔訳注・孫文〕の「大亜細亜主義」、李大サの「新亜細亜主義」などである。
  “興亜論”はのちになると、“大東亜共栄圏”や“新東亜秩序”のような日本の指導下で西洋列強への共同抵抗理論に変化する。しかし1880年代の“興亜論”は、日本は中国・朝鮮と平等な関係で連盟を組織して西洋に当たることを主張している。なぜなら、当時の日本はまだ国力が微弱であり、当時の大国清とはきわめて大きな落差が存在したからである。
   このような“興亜論”に対して、相反する思想を唱えたのは福沢諭吉である。それが“脱亜論”である。  
  アジアを覚醒させ共同で西洋の侵略に立ち向かうという“興亜論”の構想に、中国と朝鮮は旧套を墨守し、改進を考えず、革新を望まない。だから日本は中国と朝鮮の覚醒に希望を持つべきではないと福沢は反対した。(ただし中国・朝鮮に有識者が出現して大規模な改革維新を行うのであれば話はおのずから別になると、福沢は断っている)。福沢は、時代遅れで昔ながらの伝統に執着する中国と朝鮮は、日本にとってまったく助けにはならない、それどころかこれら時代遅れで腐敗したこれら二国の“醜”によって、日本までもが西洋人から同じように時代遅れで腐敗していると誤解される、と。福沢はこの理由によって、日本はもはやためらうことなく、中国・朝鮮二国の非文明国家(“悪友”)との交際を拒絶し、ヨーロッパの文明国家と交流すべきだと説いた。  
  福沢が中国・朝鮮二国に将来の希望はないと見なした核心の根拠は、両国が西洋文明を拒絶する態度である。中国と朝鮮は、みずからを西洋文明から隔離し、自身の独自の文明を維持しつづけようとしている。ところが日本は西洋文明に対して積極的に摂取しようとする態度を取り、みずからを西洋文明のうちに投じて、運命を共にする道を選んでいた。福沢によれば、西洋文明とは“麻疹(はしか)”のようなもので、伝染性を持つものであり、拒否すれば列強に国を分け取りにされて滅ぶのであるから、中国と朝鮮による西洋文明の拒否は到底成功しない。そして後の歴史は、中国と朝鮮について福沢の予見が正しかったことを証明した。西洋列強が植民地主義思想を改めていなかったら、中国も同じく分割されていたことはほとんど疑いないからだ。  
  私は、「脱亜論」を読んで、近代において中国が蒙ってきたさまざまな苦難や屈辱はかなりの程度、中国人がみずから“選択”した結果ではなかったかという思いを禁じ得ないのである。 
  遠く20世紀の80年代に至って、中国はやっと“対外開放”の重要性を悟り、積極的に西洋文明世界に参入しはじめた。今日では“世界につながる”が流行語である。対外開放して20年あまりで、中国の経済は驚異的な発展を見た。今日に至って中国人は、その昔の日本の急速な発展の秘訣が“対外開放”であったことを、やっと知ったのである。  
  しかし日本人は自国の富国強兵の秘訣をべつに隠していたわけではない。120年も前に、日本の福沢諭吉という思想家が、中国の停滞の原因は西洋文明を拒絶したことにある、対外開放を拒否したところにあると、すでに指摘していたのだ。悲しむべきことに、中国人は100年も経ってから西洋文明と運命を共にすることと、文明を同じくすることで苦楽を共にすることの重要性を、やっと理解したのである。もし中国が100年前に対外開放に踏み切り、世界とつながっていたら、近代中国の歴史はきっと別の様相を呈していただろう。そうすれば近代中国の屈辱と傷痕に満ちた悲惨な歴史はなかったはずで、だから私は、中国が近代に蒙ったさまざまな苦難と屈辱はかなりの程度中国人がみずから“選択”したのだと言うのである。  
  もし当時の日本における“興亜論”と“脱亜論”のどちらがより正しかったかを言うとすれば、日本の立場からすれば、“脱亜論”のほうが正しかったということになる。事実においても日本政府は脱亜入欧の発展方針を選択した。もし日本がその時“興亜論”を選択して、中国と朝鮮が覚醒し、自強するのを待って、両国と同じ塹壕に立つことにしていたら、日本の今日の発展はあったか。福沢諭吉の“脱亜論”は、未来の展望としてきわめて正確なものだった。  
  福沢の肖像が日本の最高額紙幣の上にあるのも不思議ではない。彼を批判する人間もあまり聞かない。福沢は現在の日本があることに関して、日本人がもっとも感謝して当然の人物の一人なのだから。


 (二)

  中国近代史を一言でいえば“反抗”の二字である。“抗英”、“抗日”、“抗美”、“反帝”、“反修”であり、いまでも“反日”がある。中国近代とは外国との抗争の歴史であって、中国人は近代以後一貫して“仇外〔外国を仇敵視する〕”心理にある。  
  “仇外”は当然ではある。中国は外国人に侵略され、不平等条約を強要されて署名させられたほか、中国が“仇外”になる理由があろう。だが同じように侵略を受け不平等条約を押しつけられた日本はなぜか“仇外”とはならなかった。それどころか、日本はみずからを侵略し不平等条約を押しつけた西洋列強と友好関係を結んだ。  
  このことに関して、福沢諭吉の「脱亜論」は、日本の西洋人に対する見方をよく表している。
  「然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり」という福沢の言は正しい。彼は100年以上前に西洋文明がおしとどめることのできない歴史の流れであることを見極め、その潮流を阻もうとすることやそこから身を避けようとすることは愚かであり、みずから進んでその潮流に乗るのが賢明な方策だと認識したのである。  
  だが中国は、その西洋文明の潮流に対して一貫して対抗の姿勢をとり続けた。“夷を以て夷を制す”や“中体西用”から“中国の特色を持つ社会主義”まで、すべて外国人を追い出す、あるいは閉め出して中へ入れまいとする試み続けた。つまり“排外”の二字である。アヘン戦争以後の中国人は西洋に学ぼうとしてきたが、学ぶのは“夷の技の長ぜるを師(まな)びて以て夷を制す”るためであり、西洋文明の持つ銃砲で西洋人を国内に入ってこないようにするためである。  
  中国は自身が西洋文明圏に加わることは少しも望んでいなかった。この点、“入欧”のために西洋文明圏に加わろうという日本の思考とは根本的に異なっている。  
  中国が外国人が自国へやってくるのを歓迎し外国人の投資を歓迎するようになったのは最近20年のことである。今日にいたって中国はようやく“排外”姿勢を改めた。以前の中国人は外国人を基本的に信用しなかった。外国人が中国へ来るのは“悪意”や“下心”があるに決まっているから絶対に追い出さねばならないと思い、そして外国人を追い出すことで中国人は“立ち上がる”ことになり、そしてその時にこそ中国人は幸福になれるはずだったのである。1949年以後、中国共産党によってソ連人以外の西洋人は残らず追い出されて、1960年以降はソ連人すら追い出された。文化大革命時期になると中国には中国にはほぼ一人の洋鬼子〔訳注・外国人に対する蔑称〕もいなくなり、全ての外国人を追い出すという老仏爺〔訳注・西太后の尊称〕や義和団などが長年にわたり奮闘してきた目標は達成された。
  ところが外国人を追い出して自己を西洋文明の外に置いて隔絶された中国で幸福にならないことを知って中国人は驚くことになる。反対に、もたらされたのは災難である。だから文化大革命の後、中国人は深刻に反省して、もう二度と排外はしないと決心し、今度は180度の大転換を行い、外国人を中国へ招きはじめた。まさに“既に今日を知れば、何ぞ当初を必せん〔訳注・今日のことを知っていればあの時あんなことはしなかったのに。後悔の言葉。『紅楼夢』などに見えるせりふ〕”である。福沢諭吉は100年以上も以前に、中国を「麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら・・・其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するもの」と批判した。それから100年後の今日になって、中国人は自分の体で「一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞する」の苦痛を味わってから、「西洋文明に抵抗したり拒絶したりするのは愚かである」ことをようやく悟ったのだった。  
  100年前に中国で福沢の文章が真剣に読まれていたら、100年前に対外開放していたら、100年前に自発的に外国人を招き入れていたら、今日の中国はどうなっているだろうか。いま“改革開放”政策は素晴らしいという言葉が中国人はしきりに言う。しかし100年前に“対外開放”を唱えれば漢奸として批判されたのは確実である。中国の目下の奮闘目標は2050年に中レベルの発展国の水準に到達することだ。しかしもし100年前に改革開放を行っていたら、今日の中国はきっと中レベルの発展国以上の水準に達していただろう。  
  中国人は“仇外”心理からいまだに完全に脱けだしていない。今日でも“外国はすばらしい”という人間は“漢奸”だという罵倒を浴びせられる。
 

(三)

  明治維新の日本は西洋に積極的に学んだが、当時、満清政府は頑迷固陋で西洋に学ぼうとしなかった、このことが近代中国の遅れをもたらしたという観点が、こんにちの中国で一般的となっている。しかし率直に言えば、この観点は半分の真実しか伝えていない。当時の満清政府が西洋に学んだ態度にはかなり積極的なものがあったからだ。洋務運動はその明らかな例の一つである。  
  あの当時、中国人は当初、中国が西洋に負けたのはただ兵器の質によるものにすぎず、中国という国家の体制には何も問題はないと考えていた。だから“軍事救国論”が出てきた。これが洋務運動とも呼ばれたものにほかならない。  
  「中国ノ文武制度ハ事事ニ遠ク西人ノ上ニ出デテ、独リ火器ノ万(けっし)テ及ブ能ワザルノミ。・・・・・・中国ガ自強スルヲ欲サバ、則チ外国ノ利器ヲ学習スルニ如クハ莫ク、外国ノ利器ヲ学習スルヲ欲サバ制器ノ器ヲ覓(もと)ムルニ如クハ莫シ。其ノ法ヲ師(マナ)ブモ、尽(ことごと)クハ其ノ人ヲ用イルヲ必セズ」  
  と、李鴻章は述べている(総理衙門宛書簡。同治三・1864年)  
  洋務運動は“軍事救国論”をその基礎とするものであった以上、西洋の軍事技術を習得することで自国を強化するという試みとなった。  中国で洋務運動が開始されたのは日本より早く、規模も日本と比較して大きい。  
  1863年に李鴻章は三カ所の洋砲局を上海に設置している。さらに李は1865年には英米から二つの兵器工場を買収して江南機器廠を誕生させた。清朝政府は上海の関税収入の2割(銀60余万兩)を年経費に当てることにした。この工場は銃砲および弾薬製造を主としたが、船舶を製造し、さらには翻訳館も付属して設けられていた。1866年には左宗棠が福州の馬尾において福州船政局と馬尾船廠を設立し、福建の関税収入の4割がこの費用として当てられている。馬尾船廠が製造した最初の輪船〔訳注・蒸気船〕は1869年1月10日に竣工した。北洋・南洋・広東・福建各水師〔訳注・海軍〕の擁していた88隻の軍艦のうち30隻が馬尾船廠で製造された。のち甲午海戦〔訳注・日清戦争の黄海海戦〕に参加することになる排水量1,560トンの揚武もまた馬尾船廠で作られたものだった。  
  明治維新が1868年に起こったことを考えれば、中国の洋務派が西洋の軍事技術を学んで自強運動に乗り出していたのは日本より先だっていた。中国は海軍の近代化に全力をあげた。19世紀の80年代において、日本海軍が戦艦数24、内訳でいえば3,000トン級3隻、2,000トン級2隻、総トン数3万トンであったのに対して、中国の北洋海軍は戦艦数18で内訳が7,000トン級2隻、2,000トン級5隻、総トン数3万トンである。軍艦の質からいえば中国は日本を凌駕している。なかでも7,000トン級の定遠と鎮遠は当時のアジアで最高の戦艦だったのだから。
  甲午戦争の失敗は、軍事強国を唱えた洋務運動は徹底的な失敗を告げるものだった。このことで、日本が中国を破ったのは日本が西洋式の国家体制を採用していたからであることを人びとに認識させ、“体制救国論”が声高く唱えられる結果を招く。  
  “体制救国論”は国家体制の改革によって富国強兵が実現されるという論であり、のちに戊戌変法に繋がる。もっとも戊戌変法は失敗に終わった。しかし清朝廷は1901年以降、“新政”を行って、基本的には戊戌変法の考え方を採用して国家の体制に重大な改革を加えている。  
  しかし中国では日本のような富国強兵を実現しなかった。それはなぜなのだろう。  
  甲午戦争以前の30年間、中国と日本とはともに西洋に学び、どちらも西洋の先進技術を積極的に取り入れた。だが西洋に学ぶ動機が両国では完全に異なっていたからである。  
  日本が西洋に学んだのはそれ以前の古い文明を棄てて西洋の新文明を全面的に導入するためだった。つまりいわゆる全盤西化〔訳注・全面的西洋化〕である。だが中国が西洋に学んだのは中国の中華文明を保持するためであり、富国強兵を目指したのは西洋文明からおのれを護るために自国を要塞化するためだった。
  一方で西洋文明を摂取し学習する中国は、もう一方では昔ながらの旧い中華文明を堅持しつづけようとするという矛盾した行動を取った。  
  「西人ノ国ヲ立ツルヤ、学堂ニ才ヲ育クミ、議院ニ証ヲ論ジ、君民一体トナリ、上下同心シ、実ニ務メ虚ヲ戒(つつし)ミ、謀定マリテ後チ動ク、此レ其ノ体也。輪船、火炮、洋槍、水雷、鉄路、電線、此レ其ノ用也。中国ノ其ノ体ヲ遺(す)テテ其ノ用ヲ求ムル、竭蹶〔力が足りない〕ナルハ論ズルマデモ無ク、常ニ相イ及バズ。就令(たとい)鉄艦行ヲ成シ鉄路四達スルモ、果シテ恃ムニ足ランヤ」  
  と、鄭観応が『盛世危言』(1893年)でいみじくも指摘しているようにである。  
  福沢諭吉の「脱亜論」を読んで私が激しく衝撃を受けたのは、当時の日本が西洋文明を受容したこと、そして抵抗しなかったことである。  
  福沢の「脱亜論」の思想の核心となる考え方には、すべての人間に西洋の先進文明を受容させようという面も、存在する。しかし中国は今日に至っても西洋文明に対して抵抗する態度を取っているではないか。今日の中国は自強を目指してはいるが、いまだに“中体西用”の考え方から脱していない。中華文明の基礎の上に西洋文明を学び取るという立場を崩していない。  
  日本が西洋文明を学ぶにおいては、学ぶことそれ自体が目的だった。中国が西洋文明を学んだのは一種の権宜の策あるいは手段だった。中華の文明を維持しつづけることが目的だったのである。しかし文化と政治制度はセットである。西洋国家の政治制度は西洋の文化あるいは文明の土壌に建てられているからだ。西洋の政治制度を西洋の文化から切り離して、政治制度だけを取り入れようとし、文明の文化的な土壌を無視するのが、いわゆる“中体西用”なるものの中身である。だが西洋の政治制度を中華の思想で運営しようとすれば、きわめて困難なものとなるのは必然的である。  
  中国は現在に至っても“近代化”をなしえていない。その最大の障碍の一つは、中国人が中華思想で西洋文明の利器だけを使用しようとしているところにあると、私は思っている。
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