東瀛小評  


林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想


                                     2005年4月11日執筆

  (一)  

  福沢諭吉に「痩我慢の説」という有名な文章がある。内容は、直接的には、幕府の臣でありながら明治維新後には新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚の「二君に仕えた」行動を批判したものだが、その理由がおもしろい。   
  福沢は冒頭、「立国は私なり、公に非ざるなり」と宣言している。民族・文化・言語などに依拠して世界を分かって国家を建てることは「天然の公道にあらず」、つまり私情にもとづく行いであるから褒められたことではないのだというのが福沢の言いたいことである。だから忠君愛国といってもたかが「痩我慢」にすぎないという理屈になる。  
  文中、「自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳を称するこそ不思議なれ(現代語訳・自国の利益や栄誉ばかりを主張するありさまであり、盛大に主張すればするほど忠君の徒やら愛国者やらと呼ぶ。これを国民の最高の道徳と称するのは本当に不思議なことである)」とまで、福沢は書いている。  
  この「痩我慢の説」は明治24(1881)年に書かれて明治34(1901)年に発表されたもので、この間(1894-95年)に日清戦争があり、発表した3年後(1904年)には日本は日露戦争に突入する時期に当たっている。当時の日本人や日本社会の愛国主義的雰囲気を考えると、福沢が驚嘆すべき冷めた理性と、それから驚くべき勇気の人であったことが分かる。  
  もうひとつ、この「痩我慢の説」から分かることがある。  
  いま述べたように、この文章は最初明治24年に書かれ、明治34年に公表された。その間、10年の年月が流れているわけだが、公表にあたって福沢はいっさい加筆もしくは修正を加えていない。福沢にはこのほかにも、書いた時期からはるかのちになって発表した文章の例があって、明治10年の西南戦争直後に書かれた西郷隆盛を弁護する「丁丑公論」がそうである。「丁丑公論」が実際に公にされたのは「痩我慢の説」と同じ明治34年になってからであった(この両者は『時事新報』に相次いで発表されたあと、一冊の書籍として出版された)。これなど、実に24年も後である。「丁丑公論」でも、公表する際に福沢はまったく文面を変更していない。この二つの文章は、正面から政府を批判したもので、福沢が書いた当初の発表を見合わせたのは身の危険を考慮したためだが、それでも発表に際しては慎重であるべき内容であることは明治34年の段階でも変わらない。それを一言一句も変更しないというのは、福沢は内容に関してよほどの自信と確信を持っていたということを示しているのであろう。しかしこれらの事実が示すさらに注意すべきことは、福沢諭吉という人の思想が生涯を通じて一貫していたことである。

  「脱亜論」は、福沢のアジア(具体的には中国・朝鮮)蔑視、帝国主義思想の現れとしてなにかと評判が悪い。だが全文を、しかも虚心に読めば、林思雲氏の指摘するとおりである。  
  「脱亜論」が福沢を語る際、あるいは日本近代を語る際に大問題としてしきりに持ち出されるようになったのは割合最近のことだそうだ。平山洋氏の『福沢諭吉の真実』(文藝春秋、2004年8月)によれば、日本近代史家の遠山茂樹氏が1951年に論文「日清戦争と福沢諭吉」で取り上げたのが最初であるという。  
  すこし長いが、平山氏の引用どおりに遠山氏の主張を紹介することにする。  
  「政府当局者よりも積極的であったといわれている、福沢の対朝鮮、対中国進出論を支えていたものは、やはり彼なりの開化主義であった、(中略)強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福――これは修辞の上の誇張の言だけではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の前提となっている。曰く、『我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。・・・・・・我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり』(中略)。アジアの一員としてアジアの興隆に尽すのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義となろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も、「文明」の名においてとらえられていた(『遠山茂樹著作集』D〈一九九二・六〉三二〜三三頁)」
  おそらく以後の服部之聡、鹿野正直、飯塚浩二、竹内好といった人々による、「アジア蔑視」「帝国主義者」としての福沢のイメージは、この遠山氏の主張を原型としている――あるいはほとんど一歩も出ていない――と言っていい。近い例では、安川寿之輔氏の『福沢諭吉のアジア認識 日本近代史像をとらえ返す』(高文研、2000年12月)がその系統を受け継いでいる。  
  しかしこの福沢像には欠陥がある。彼等の結論に合わない、つまり彼らにとって都合の悪い福沢の言動を無視して成り立っているところである。  
  例えば、福沢は、日清戦争後の明治32(1899)年の「支那人親しむ可し」では、日清戦争後の日本社会と日本人に瀰漫していた清国や清国人を見くだす風潮を批判しているのである。
  「彼の国人の平生を見れば、運動遅緩にして活発の気風を欠くに似たれども、是は其国の大にして自ら動くに便ならざるが為めに外ならず。一たび動くときは案外に驚く可きものあらんなれば、決して因循姑息を以て目す可らず。況やチャンチャン、豚尾漢など他を罵詈するが如きに於ておや(現代語訳・あの国の人々の日常の振る舞いを見ると、動きが遅くて活発なな雰囲気を欠いているように見えるが、これは自国が広大で行動に不便であるためにほかならない。いったん行動すれば予想外に驚くべきところがあるはずだから、けっして因循姑息なのだと考えてはならないのである。いわんやチャンチャンとか豚の尻尾をつけた奴などと彼らを罵り嘲るなど、もってのほかである)」  
  蔑視感情を持っている人間が、他人の同種の蔑視を扇動もしくは放置はしても戒めたりするなどあるはずはない。

  福沢は「脱亜論」のなかで、朝鮮や中国を植民地にせよとひとことも言っていない。しかし遠山氏の解釈ではそうなっている。  
  また、福沢は「脱亜論」のなかで「アジアを脱し」までは確かに書いている。けれども「アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強とする小型帝国主義となろう」とはどこにも書いていない。氏の解釈ははっきり言って誤解である。  
  その理由は、これは致命的であるが、遠山氏はテキストそのものをきちんと読めていなかったのであろう。  
  私から見て、「脱亜論」の解釈の核心となるのは末尾近くの「其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ」の、なかでも「処分」をどう解釈するかである。  
  これは現代日本語の「処分」と同じと理解すると間違うのである。 そもそもこの文章は文語体(つまり古文)であるから、本来からいえば、研究者はまず口語訳してから論じるべきものであるが、遠山氏はそれをしていない。
  私の結論をいえば、この処分は「対処」「対応」、もしくは「応対」というぐらいの意味である。つまりこの一節は「中国や朝鮮と交流するやりかたも隣国だからというだけで特別な配慮にはおよばない、あたかも西洋人がこれら二国にたいして取っているやりかたで応接すべきなのだ」ということだ。つまりは歴史的な関係や、文化的な近さあるいは影響といった要素はすべて横に置いて、そういう背景を二国にたいして持たない西洋諸国のように、中国と朝鮮にたいして、いわばまったく別の国、別の民族としてつきあうようにせよ、という意味だというのが、原文に対する私の理解である。  
  遠山氏が「我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」の前の部分を「・・・・・・」と省略している点も解せない。「悪友に親しむ者は共に悪友を免れる可からず(現代語訳・悪い友だと仲良くしている者は自分も悪い人間になってしまう)」の文である。これも林氏が以前に指摘されていたことだが、この一文のあるなしで、後に続く「我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり(現代語訳・私は心の中でアジア東洋の悪友とのつきあいを絶つことにする)」のニュアンスが相当変わってくる。福沢の本来の論旨は、一緒に歩調を合わせていると共倒れになるから、もう昔のよしみをいつまでもひきずった特別の友好関係を維持しようとは思わない、日本は日本の道を行く、中国・朝鮮もどうぞみずからが良いと思う道を進んでくれ、ということである。  
  (ちなみに、これもまた林氏にその存在をご教示いただいた、江蘇省の高考(大学入試試験)歴史試験の問題にある「脱亜論」に関する設問では、遠山氏の引用部分とほぼ同じ「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。・・・・・・我れは心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」の個所が中国語訳されて引用されていた。「悪友に親しむ者は共に悪友を免れる可からず」だけが省略してあるところも同じである。両者の間には何か関係があるのだろうか。)  

  福沢諭吉の代表的な伝記である『福沢諭吉伝』(1932年)の編者石河幹明(『時事新報』の元主筆)は、現在の『福沢諭吉全集』の底本となっている大正版(1925−1926年)、昭和版(1933−1934年)の『正続福沢全集』の編纂者でもあった。  
  さきほど名の出た平山洋氏の『福沢諭吉の真実』は、強烈なアジア拡張論者、天皇崇拝者で国家主義者の石河が、自分の思想(と自分の書いていた『福沢諭吉伝』)、それから当時(とくに昭和前期)の日本の風潮に合致した福沢像をつくりだすために、本来無署名であった『時事新報』の「社説」や「漫言」から、この主張に沿うもの(じつはほとんどが石河が書いたもの)を福沢のものとして全集に収録してしまったという主張がなされている。  
  私は、氏の論理と提出された根拠(傍証となる事実関係および、文体分析の結果)を見るかぎり、平山氏のこの主張は正しいと思う。  平山氏の主張を認めることでの重要な結果は、日清戦争中の義捐金募集関連の文章はのぞき、好戦的・侵略的・民族差別的な論説はすべて福沢のものではないことになって、従来のアジア蔑視・民族差別主義者という福沢についてのイメージは根拠を失うことだ。

  福沢の最晩年の作品のひとつに、『福翁自伝』がある(明治32・1899年)。福沢の死は2年後である。  
  『福翁自伝』(明治32・1899年)の終わり近く、福沢は「日清戦争など官民一致の勝利、愉快ともありがたいとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」と述懐している。
  これは、文明国の道をえらんだ日本が昔ながらの伝統(中国文明)に拘泥し続けた清に勝つことができた喜びの表現と、いわば素直に、解釈すべきだと私は考えている。一生を通じて唱え続けてきた自説の正しさが、到底勝ちがたいと思われた大国清に勝ったことで見事に証明されたと思ったから、福沢は泣いたのであろう。(ちなみに日清戦争を「文明と野蛮の戦争」と形容した有名な『時事新報』の社説(無署名)の筆者は、福沢ではなく石河幹明だそうである。平山洋『福沢諭吉の真実』参照)   
  ついでに言うと、「通俗民権論」(明治11・1878年)で福沢は、民の権利(民権)と国の権利(国権)は本来対立するものではなく、互いに固有の領分を持ち、互いに犯さず、かつ相い補う存在であると説明した。だから、日清戦争時の日本の「官民一致」が、福沢の喜びの理由のひとつになったのだろうと解釈することもできる。  
  福沢の言う「国権」とは"ナショナリチ"のことである(「通俗国権論」第二章。明治11・1878年)が、 ここに「文明論之概略」(明治8・1875年)によってさらに敷衍するとすれば、福沢にとっての国権とは、一国の独立のことであり、(西洋)文明摂取の目的もまた、一国の独立のためだった。  
  「その(金谷注・文明の)目的とは何ぞや。内外の区別を明(あきらか)にして、我が本国の独立を保つことなり。而してこの独立を保つの法は、文明の外に求むべからず。/今の日本国人を文明に進(すすむ)るは、この国の独立を保たんがためのみ(現代語訳・文明の目的とは何か。国家の内と外の区別を明瞭にして、我が国の独立を保つことである。そしてこの独立を保つため手段は、文明のほかに求めることはできない。今日の日本国の人民を文明へ近づけようとするとするのは、この国の独立を保つためにほかならない)」 (第十章)  

  (二)  

  福沢諭吉は生涯の早い時期に当時蘭学と呼ばれていた西洋の学問を学んでいる。当時すでに1853年のペリー来航の後で、米国を初めとする西洋列強と通商条約を結んで、日本は開国したあとである。  
  長い鎖国とおもにキリスト教禁止のために、当時の日本には西洋の学問を学ぶ人間はあまりおらず、なかでも福沢のような実力のある専門家は当時日本ではきわめて数がすくなかった。あらたに西洋列強との近代的な外交の任を担うことになった幕府は福沢のような人材を必要としていた。このため、福沢は本来豊前中津藩士だったが、幕府に召し出されて外国方(外交部門)に務めることになる。彼はオランダ語のほかに英語もできたから、米国および各国との交渉や文書の翻訳作成の仕事に当たった。つまり当時の日本外交の実際の現場で働いたわけである。福沢という人は自ら「手先器用なり」といっていたように、明治第一の思想家にして教育者という大ジェネラリストであったと同時に、技術者的というかスペシャリストの性質があって、志士、つまり政治家というジェネラリストばかりの幕末・明治初めの日本の政治世界で、抽象論や粗放な現実認識にまかせての大言壮語が横行するなかでは、めずらしく外国事情に関する実際的・専門的な知識をもつ専門家として、また現実を細部まで正確に把握して思考することのできる人だった。
  たとえば、幕末に幕府が諸外国と結んだ条約は一般に輸入関税率の協定制度(自主決定権のないこと)と治外法権(領事裁判権)の二点において不平等条約だとされ、日本の独立を冒すものとして明治44(1911)年に改訂されるまでその撤廃が日本の国家あげての、いわば悲願となるのだが、まさに日本の独立を終生の悲願としていた福沢は、前者の関税についてはさておき、あとの治外法権について、べつに何の問題もないと断言している。
 「当時の日本ではまだ外国人というものを見慣れていなかったので、最初からあまり接触の機会を増やしてはいろいろ問題も起こるにちがいないから、外国人の居留地を定めたのだ。それが外国と日本双方にとって都合がよかったのである。そしてその居留地から周囲十里は自由に通行可とし、そこから外へは特別の許可なしには出られないようにしたのである。これが『条約規程』であるが、その内容はただそれだけのことである。内容を見れば一目瞭然であるが、外国人だからといって勝手に乱暴してよいとは書いていない。日本人の守るべき法律は外国人も守らねばならないのは当然のこととされていた。外国人はやってもよいが日本人には許さないというようないかなる条項も、条約の中には全然存在しない。日本人と外国人のあいだに争いごとが起こったときには、日本人が原告で外国人に罪がある場合は外国の法律で罰し、外国人が原告で日本人が被告であれば日本の法律を適用すると、取り決めているだけである。本来は西洋各国における例に従うなら、国籍を問わず現に居住する国の法律を犯せばその国の法律で罰するべきではあるのだが、日本と西洋とは風俗が全く異なっていて、同じ罪でも罰する法律があまりに違っているから、当座の措置としてそう定めたのであって、それだけのことである」   
  明治11(1878)年に出版された『通俗国権論において、彼はこう説明している。ちなみにこの書名は、一般庶民に国権=nationality=国の独立とは何かということをわかりやすく説明するための啓蒙書として書かれたものなので、「通俗」の二文字がついている。  
  べつに国辱とか国家の独立の侵犯とかの問題ではない、技術的な措置にすぎないのだ、と水をかけるような口調である。  
  ところが、福沢はこのあとのくだりで、幕末に横浜でこの十里外への許可なしの外出禁止条項に違反して騎馬で遠出した英国のリチャードソンという人物がおりから通行中だった薩摩藩の行列の前を馬に乗ったまま横切って斬り殺された事件について、「大名行列を妨害する者は無礼者として問答無用に切り捨てて良いというのが日本の国法であるから殺されて当然である。英国の強硬な抗議に負けて幕府が賠償金を支払ったほうがまちがっている」と、およそ当時の世論とは反対の、文明開化論者の福沢らしからぬ、まるで幕末の攘夷志士のような過激な意見を述べている。
  「彼の英人は日本の法も知らず風習をも心得ず、万事不案内の身を以て、鳴呼がましくも馬に乗て島津家の行列を乱りたるは、自ら求めて死地に陥たる者とこそ云ふべけれ(現代語訳・あの英国人は日本の法律も知らず風習も弁えておらず、何も知らないくせに、愚かにも馬に乗ったまま島津家の行列の邪魔をした。みずから好んで死地に赴いた者というべきである)」 (611頁)  
  一見驚きだが、ここに福沢の思想(一国の独立)に関わる重要な一端がかいま見える。  
  福沢は「通俗国権論」で、国権について、「家に家風があるように、国にも国風がある。国風は、家風がその家がありかたを決めるもので他人の差し出口を許さないように、その国が守るも変えるも自国で決めるものであって他国の指図をうけるべきではない。これを一国の権、国権というのだ。もし外部からこの権を犯そうとして我が国の邪魔をすれば、これを国権を侵す無礼と呼ぶ。無礼者は打ち払ってよい。遠慮する必要はない」とも、説明している(608頁)。つまり、独立国が当然持っている権利を守ったまでのことである、リチャードソンは国権を侵したのであるから処罰されて当然だし、また日本側は日本の法に正しく乗っ取って裁いたのだから後ろめたく思う理由は何もないというのが、福沢の立場だった。  
  よく考えればその前に展開されている福沢の論理に基けば当然の結論であって、驚くほうがおかしいであろう。

  福沢は、幕末の日本の置かれた状況について、非常に独特な認識を示している。日本が西洋列強によって分割されたり占領されたりする危険、つまり植民地化の危険はなかったというのである。リチャードソンの一件について福沢が純理論的な――あるいは強硬な――立場を堅持したことについても、この見通しに基づいたものという背景がある。  
  「欧州の実力は正に欧州の自家に費して余あることなく、東洋諸国に対しては唯此の実力の余光を用るのみ。或は真を西に用ひて影を東に示すものと云ふも可ならん。即ち彼の虚喝は此影なり(ヨーロッパの実力はヨーロッパ地域にすべて費やされてしまって残るところはなく、東洋諸国に対してはこの実力の余光を使っているだけである。本当の力を西で用いながらその影を東へ向かって投げかけていると形容しても言いかえてもいいだろう。つまりヨーロッパの虚喝はこの影である)」 (「通俗国権論」慶應義塾編纂『福沢諭吉全集』第4巻、1969年6月、637-638頁)  
  明治34(1901)年1月1日に発表した「痩我慢の説」について、様々な批評が起こった。その中の主なものは「徳富素峰と『国民新聞』からの強い批判である。内容は大略以下である。  
  「幕末・明治にかけての日本は列強に虎視眈々と狙われていた、勝海舟のような当時の幕府政権を担っていた幕臣が自発的かつ積極的に幕府の統治を終息させて平和裡に政権を京都朝廷に引き渡さなかったら、必ず日本は勤皇・佐幕の二大勢力が争う内乱となっていただろう、そうすれば必ず外国の干渉を招き、ひいては国家滅亡の危機に及んだかもしれない、であるからそれを未然に防いだ勝や榎本武揚の行動は大局的見地からみて賞賛されるものであって、福沢の言う「痩我慢」は木を見て森を見ない意見である」  
  福沢は、この批判に答えるため、再度、「痩我慢の説に対する評論について」という題で反論の文章を発表することになる。これは同年1月25日の『時事新報』に掲載された。本来口述筆記されたものだが、文体からみて、福沢が目を通して文章に手を入れているのはほぼ間違いない。当然、論旨と論調も福沢のものとして見ていい。この「痩我慢の説に対する評論について」で、いま述べた幕末観が大いに展開されている。  

  「さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼の米国の使節ペルリが渡来して開国を促したる最初の目的は、単に薪水食料を求むるの便宜を得んとするに過ぎざりしは、その要求の個条を見るも明白にして、その後タオンセント・ハリスが全権を帯びて来るに及び、始めて通商条約を結び、次で英露仏等の諸国も来たりて新条約の仲間入したれども、その目的は他に非ず、日本との交際は恰も当時の流行にして、ただその流行に連れて条約を結びたるのみ。/通商条約の利益など最初から期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子を見れば案外開けたる国にして、生糸その他の物産に乏しからず、随て案外にも外国品を需用するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意することと為りたれども、彼等の見るところはただこれ一個の貿易国としてその利益を利せんとしたるに過ぎず。素より今日のごとき国交際の関係あるに非ざれば、大抵のことは出先きの公使に一任し、本国政府においてはただ報告を聞くに止まりたるその趣は、彼の国々が従来未開国に対するの筆法に徴して想像するに足るべし(現代語訳・さて当時の外国人が日本という国をどのように見たからについてだが、そもそもペリーがやってきて開国を慫慂した最初の目的は、単に燃料と飲料水および食料を入手する便宜を獲得しようというだけに過ぎなかったことは、その要求した条目も見れば明白である。タウンゼント・ハリスが全権を帯びてやってきて、始めて通商条約を結んだのであり、ついで英国・ロシア・フランスなどの諸国もやってきて新たに条約を結ぶ相手になったのだが、これら諸国の目的はほかでもなく、日本と国交を結ぶのは当時の流行のようなもので、ただその流行に乗って条約を結んだだけなのである。/通商条約の利益などは最初から期待していなかったのだが、次第に日本のありさまを見れば案外発達した国であり、生糸その外の物産も多い、ということは外国品の購買力も案外あるのではないかと、外国人も貿易に関心を集めることになったのである。しかしながら、彼らの関心があったのは、ただ貿易国として利益を上げることだけだった。もちろん今日のような国家間関係が存在しなかったので、本国政府は大抵の事柄は駐在する公使に一任して、ただ現地からの報告を聞くだけという有様だったことは、西洋諸国がそれまで未開国に対して行ってきたやり方からして十分に想像できるだろう)」  

  「各国公使等の挙動を窺えば、国際の礼儀方式のごとき固より眼中に置かず、動もすれば脅嚇手段を用い些細のことにも声を大にして兵力に訴えて目的を達すべしと公言するなど、その乱暴狼藉驚くべきものあり。外国の事情に通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意向も云々ならんと慢に推測して恐怖を懐きたるものありしかども、その挙動は公使一個の考にして、政府の意志を代表したるものと見るべからず。すなわち彼等の目的は時機に投じて恩威並び施し、飽くまでも自国の利益を張らんとしたるその中には、公使始めこれに付随する一類の輩にも種々の人物ありて、この機会に乗じて自ら利し自家の懐を肥やさんと謀りたるものも少なからず(現代語訳・各国の公使の言動を見てみると、国際社会における礼儀作法など全く眼中になく、ともすれば脅迫威嚇の手段を用いてささいな事柄にも声を荒げて兵力に訴えて目的を達すると公言するなど、彼等の乱暴狼藉ぶりには驚くべきものがあった。外国の事情を知らない日本人はこれを見て、本国政府の意向もこのとおりなのだろうと勝手に憶測して恐怖心を抱いた者もいたが、公使たちの挙動は公使個人の考えによるものであって、政府の意志を代表したものと見るべきではなかったのである。つまり、彼等の目的は機会があればそれにつけこんで恩恵と威力をともに用い、ひたすら自国の利益を追求しようとしたのだが、その中には、公使をはじめその周囲に従う者どものにもいろいろな種類の人間がいて、この機会に私利をはかり自分の懐を肥やそうとした者も多かったのである)」   

  「すなわち彼等は長州が勝つも徳川が負くるも毫も心に関せず、心に関するはただ利益の一点にして、或は商人のごときは兵乱のために兵器を売付くるの道を得てひそかに喜びたるものありしならんといえども、その隙に乗じて政治的干渉を試みるなど企てたるものはあるべからず。(略)長州の騒動に対して痛痒相関せざりに反し、官軍の東下に引続き奥羽の戦争に付き横浜外人中に一方ならぬ恐慌を起こしたるその次第は、中国辺にいかなる騒乱あるも、ただ農作を妨ぐるのみにして、米の収穫如何は貿易上の関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地にして、もしもその地方が戦争のために荒らされて生糸の輸出断絶する時は、横浜の貿易に非常の影響を蒙らざるを得ず、すなわち外人の恐慌を催したる所以にて、彼等の利害上、内乱に干渉してますますその騒動を大ならしむるがごとき思いも寄らず、ただ一日も平和回復の早からんことを望みたるならんのみ(現代語訳・すなわち彼等は長州が勝とうが幕府が負けようがすこしも関心はなかった。関心のあるのは利益のことだけであって、あるいは商人などは戦争のおかげで兵器を売りつける機会ができてひそかに宜露込んだ者もいただろうけれども、その隙に乗じて政治的干渉を試みようなどと計画した者は決していなかった。(略)長州の騒乱に対してまったく気にもとめなかったのに反して、官軍が東へ進軍し引き続いて奥羽地方で戦争を始めたことに対しては、横浜の外国人の間にただごとならない恐慌を引き起こされたのは、中国地方ならどんな騒ぎが持ち上がっても農業が妨害されるだけであって、米の収穫の出来不出来は自分たちの貿易には関係がないが、東北地方は日本における養蚕地であって、もしもこの地方が戦争のために荒廃して生糸の輸出が途絶すれば横浜の貿易は大変な影響を受けることになるからである。これが外国人の恐慌をきたした理由であって、彼等の利害上、内乱に干渉して混乱をさらに大きくしようなどと考えるはずはなく、きっと一日も早く平和が回復されることを望んでいただろう)」  

  さらに福沢は念を押すように、明治後、たとえば西南戦争の際にも諸外国は干渉の絶好の機会であったはずだがそのそぶりも見せなかった、このこと一事でも、外国によって日本が植民地化されて亡国する状況などなかったことはあきらかだと繰り返している。  
  この時局認識が正しかったのかどうかはここでは論じない。ただ福沢の「国権」概念に、この、日本の置かれた国際環境観が大きく影響していることを説明するために煩を厭わず引用した。   
  福沢諭吉の「国権」とは一言で言って一国の独立であるが、この「独立」とは、まず第一に経済における独立であって、政治・軍事的なそれは第二である。言い換えると、福沢が生涯の目標とした日本の独立とは「経済的に西洋列強に隷属しないこと」なのである。独立の反対は普通「亡国」や「植民地化」である。しかし福沢は、西洋諸国の政治的干渉や軍事的侵略によって国家としての日本が滅びるとは、幕末から明治の彼の晩年にいたるまで、まったくといっていいほど考えたことがなかったらしい。福沢にとって「独立」の反対語は「外国(西洋列強)への経済的隷属」である。  
  「方今世界各国の交際は、兵を交えて戦うものも少なからずと雖ども、商賈工業の戦は兵の戦よりも広くして、日夜片時も休戦の暇あることなし(現代語訳・現在における世界各国の交際は、軍隊を動員して戦う場合も少なくないが、商業・興業の戦いのほうが軍隊の戦争よりも広範に見られるのであって、こちらは日夜一瞬も休戦するなどという余裕はない)」  
  「通俗国権論 二編」(明治11・1878年)のこの言葉が、福沢の国際関係観を端的に言い表しているだろう。この言葉のあとはこう続く。
  「近くは我が日本の外国交際を見よ。我に器械の用法巧ならざるあれば、敵は器械を齎らして侵入し、我に天然の産物豊なるあれば、敵は之を制作品に交易して掠去らんとし、金に余あれば銀を以て攻め来り、金銀共に乏しければ為替の相場を以て之を侵し、金に銀に毛に綿に、其貿易売買の際に寸隙を遺さず。一として戦争ならざるはなし(現代語訳・最近の我が国の外国交際を見てみればよい。我が方に性能の低い機械や道具があれば、敵は彼らの機械や道具を持ってきて侵入してくる。我が方に豊かな天然資源があれば、敵はこれらの資源を彼等の工業製品と好感して掠奪し持ち去ろうとする。我が国に金の余剰があれば、銀を携えて攻め寄せ、金銀のどちらもあまりないとなれば為替相場を用いて侵略しようとする。金であろうと銀であろうと、羊毛であろうと綿であろうと、彼らは貿易や売買において油断も隙もない。これらすべて戦争にほかならないのだ)」  
  『文明論之概略』ではさらにはっきりこう記す。
  「無産の山師が外国人の元金を用いて国中に取引を広くし、その所得をば悉皆金主の利益に帰して、商売繁盛の景気を示すものあり。るいは外国に金を借用して、その金を以て外国より物を買入れ、その物を国内に排列して、文明の観を為すものあり。石室、鉄橋、船艦、銃砲の類、これなり。我日本は文明の生国にあらずして、その寄留地というべきのみ。結局この商売の景気この文明の観は国の貧を招て、永き年月の後には、必ず自国の独立を害すべきものなり(現代語訳・財産のない山師が外国人の資本で日本国中で広く取引し、その所得をすべて資本を出した者の利益としながら、商売繁盛している例がある。あるいは外国から金を借りて、その金で外国から物資を購入し、その物資を国内に導入設置して、文明国である外見を整える例もある。石作りの家、鉄橋、船舶、軍艦、銃砲などである。これでは我が日本は文明を生みだす国ではなく、その単なる寄留地というだけにすぎない。結局は、この商売の繁盛も、この文明らしい外見も、国の貧窮を招いて、長い年月のうちには必ずや自国の独立を脅かすことになるのだ)」 (巻六「第十章 自国の独立を論ず」)  
  福沢は、だから文明(西洋の文明)を丸ごと日本に導入し、日本の旧来の文明と入れ替えなければならないと言うのである。彼は、たとえば英国が千艘の軍艦を持っているから日本は千艘の軍艦を揃えればそれで対抗できると思うのは、結局は全体を見ない言であると斬って捨てる。「文明にあらざれば独立は保つべからず」と言う。なぜか。
  「英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を所持するにあらず、千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、商人も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。(略)他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適さざれば、利器も用を為さず。(略)けだし巨砲大艦は以て巨砲大艦の敵に敵すべくして、借金の敵には敵すべからざるなり。今、日本にても、武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。あるいは我製造の術、いまだ開けざるがためなりというといえども、その製造の術のいまだ開けざるは、即ち国の文明のいまだ具足せざる証拠なれば、その具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざるべし。故に今の外国交際は、兵力を足して以て維持すべきものにあらざるなり(現代語訳・英国が千艘の軍艦を所有するのは、軍艦だけを千艘持っているわけではない。千の軍艦があれば、万の商船も存在するだろう。万の商船があるならば、十万人の船員もいるだろう。船員を養成するにはそのための学問が存在しなくてはならない。学者も多く、商人も多く、法律も整備され、商売も盛んで、人と人の交際するための事物が充分にそろっていて、それが千艘の軍艦に応じて存在する状態になって始めて千艘の軍艦が存在できるのである。(略)それ以外の物やことに比べて釣り合いがなければならないのである。この釣り合いが取れていなければ、いくら優れた機械や道具といっても役に立たないのだ。(略)そもそも巨砲や大艦は巨砲や大艦の敵には対抗できるが、借金という敵には歯が立たない。今日日本でも軍備が整えられつつあるが、大砲や軍艦は言うまでもなく、小銃や軍服まで百のうち九十九は外国の品にたよらねばならない。我が国の製造技術がまだ発達していないからだと言う人もいるが、製造技術が発達していないのはとりもなおさず我が国の文明がいまだ充実していない証拠であるから、文明の充実していない現状で、軍備だけを充実しようとしても、物事の釣り合いが取れなくて実際の役には立たないだろう。だから、目下の外国との交際というものはただ軍事力を増強するだけで維持できるものではないのである)」  
  福沢という人は、わかりやすい文章をかく人だった。その思想の明晰さによるのであろう。これ以上何かを説明する必要もないほどである。

  (三)  
 
  福沢の凄いところは――これはもう凄いとしかいいようがないのだが――、理数系の学問とその背景にある思考方式の普及が日本の“文明化”(つまり近代化のことだが)には不可欠だと見抜いていたところである。   
  「古来東洋西洋相対してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造(たいそう)な相違である。双方ともどもに道徳の教えもあり、経済の議論もあり、文に、武に、おのおの長所短所ありながら、さて国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義とを比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」 (『福翁自伝』)  
  福沢は、西洋文明の本質を、独立心のほかに数理学と捉えた。このうち福沢のいう独立とはいかなるものだったかについてはすでに触れた。ここでは後者について考えてみたい。  
  この“数理学”とは、自然科学のことである。さらにいえば、自然科学を成り立たせている科学的な方法もしくは思考を指している。つまり、  
  「(科学的方法とは)観察と推理と実験とが相まって形成されるものである」 (ファインマン/レイトン サンズ著、坪井忠二訳 『ファインマン物理学 T 力学』、岩波書店、1986年1月、17頁)  
  という考え方である。  
  あるいは、カール・R・ポッパーの言う、反証可能性をもつ思考方式といってもいいだろう。    
  「科学の方法とは、理論を反駁するかもしれない事実の探究である。これが、いわゆる理論のテスト――理論のうちに欠点が見出されないかどうかを見ること ――なのである。しかし、諸事実は、理論に基づく目で収集され、理論がこうしたテストに耐えている限りでは理論を確証するものでもあるだろうが、単に、前もって考えられていた理論の一種空虚な繰返しにすぎないというのではない。諸事実は、理論の下す予測を覆す試みに失敗した結果になっており、そのため理論にとっての有力な証言となっている時にのみ理論を確証するのである。それゆえ、私見によれば、理論をテストする可能性、従って理論の科学的性格、を構成するのは、理論を覆す可能性、換言すれば、理論の反証可能性であり、そして、理論のあらゆるテストは、理論の助けによって導出された予測を反証する試みであるという事実が、科学的方法への導きの糸を提供するのである。」 (カール・R・ポッパー著、小河原誠・内田詔夫訳 『開かれた社会とその敵 第二部』、1980年1月、未来社、242-243頁)  
  やさしくいえば、数(数字)と理(論理)と証拠(事実)に基づき、そのどれをも不可欠とする考え方ということであろう。  
  すくなくとも、福沢は、これを日本を含む東洋にない、すくなくとも乏しいものと捉えた。慧眼だと思う。

  吉田光邦氏に 『江戸の科学者たち』 (社会思想社、1995年7月)というおもしろい本がある。吉田氏は、たとえば日本における伝統的な数学である和算を取り上げてこう分析している。  
  「和算はその根本が計算術、実用だった。数式や図形の本質を考えるものではない。(略)そこでは法則というものはとらえられず、いつも特殊な例をあげることで法則を代表させようとした。(略)だから和算は芸能に近いものだった。(略)和算家はすぐれた直感によって、よく西洋数学に匹敵する公式を発見した。しかしその公式をさらに論理的に研究してゆくことにはほとんど興味をもたなかった。(略)神社や仏寺に算額を奉納したことも、芸能的な感覚からだった。(略)芸能的な性格をもっていることから、その学習や研究には非常な秘密主義がとられた。伝授料や免許状がいくつも必要であった。こうした非公開性、和算家同士の相互のコミュニケーションを欠いた状態は、その発達を著しく妨げ(略)、芸能と同じようにいろんな流派をつくりだすことになった。」 (10-11頁)  
  数学もしくはその帰納と演繹を柱とする論理思考は西洋の科学(近代的な科学といってもいいが)の基礎である。吉田氏は、「(和算家)はよく帰納法を用いる」とし、「帰納法は直感から生まれる」からだという。だが彼らは公式を見出しても「その公式をさらに論理的に研究してゆくことにはほとんど興味をもたなかった」、つまり演繹は存在しなかったと指摘しているのである。  
  しかし、日本では江戸時代の鎖国の間も、オランダと清とは通商関係を維持していて、キリスト教に関係のない内容、医学および農業など実用関連の内容だけという厳しい限定つきではあったが、オランダ語や漢訳された西洋諸科学の書籍が、ほそぼそと日本に流れ込んできていた。それらを読んで研究する人々もいた。彼等はオランダ学問をする者という意味の「蘭学者」と呼ばれた。彼等の会得した科学的思考方式が、次第に日本社会全体に広がっていくことになる。

  (四)  

  最後にちょっと周辺の話をする。
  岩倉具視は薩摩・長州・土佐・肥前4藩の武士が多い初期の明治政府高級官員の中では数少ない公家出身の政治家であるが、この人に「政体建定」という、日本の体制を論じた文章がある。
  大日本帝国憲法制定にあたって実際に作成に当たったのは伊藤博文であるけれども、伊藤は岩倉の国家観に従って、プロシアにならった君主権の強い、しかも欽定の憲法を作成したのである。明治国家の根本理念を決めたという点で、岩倉の国家観は重要である。  
  「政体建定」のなかに、こんなくだりが見られる。    
  「政体ノ事  万世一系ノ天子上ニ在テ、皇別神別蕃別ノ諸臣下ニ在リ、君臣ノ道上下ノ分既ニ定マリテ万古不易ナルハ我ガ国体ナリ、政体モ亦宜シク此ノ国体ニ基ヅキ之ヲ建テザル可カラズ(現代語訳・万世一系の天子が上に在り、皇別(皇室を祖先とする氏)・神別(皇室祖先神以外の神を祖先とする氏)・蕃別(外国人を祖先とする氏)の諸臣が下に在って、君臣の道と上下の区別がはっきりと定まっていて遙か昔からいささかも変わるところのないのが我が国の国体である。政体もまたこの国体に基づいて設けられなければならない)」
  注意すべきは、天皇親政で、きわめて強い君主権を天皇が持つ国家の建設を願っていた岩倉でさえも、国体(文化)と政体(政治機構の形態)を明確に分離して認識していたことである。  
  「国体」という言葉は曖昧な言葉で、単なる文化の意味から、「主権または統治権の所在から区別した国家体制」、つまり「政体」まで含む意味まで拡大されることもあった。(極限まで拡大されたのが昭和前期の日本であろう)。岩倉の言葉は、後者の意味として受け取れば受け取れば、日本の政体は天皇専制国家しかありえなくなるが、それでは「国体」「政体」をわざわざ区別した意味がなくなってしまう。前者の意味で岩倉は使っているのだろう。それに岩倉は、この「国体」が「万古不易」だと言っている。ということは、12世紀以降の幕府政権時代も認めていることになるから、型式として万世一系の天皇とそれ以外の国民からなる臣の区別がはっきりしていれば、実際の権力のありどころが天皇になくてもかまわないと岩倉は言外に言っているとも解釈できる。  
  それはともかく、岩倉の卓見であったのは、従来曖昧であった「国体」という言葉を文化の意味に限定し、実際の統治機構を「政体」として、いわば技術的、手続き的な問題として日本の文化の範疇から切り離したというところにある。これで、政体をどうするかで――たとえ西洋の近代国家体制を採用しても――、日本の文化の改変になるかどうかというやっかいな問題を回避することができるからだ。これで「一君万民」でさえあれば、どのような政治体制であっても許されることになったのである。

  明治維新は、理念としては王政復古であり、発足時の組織を見る限り、10世紀ぐらいまでの天皇が親政していた政治体制に戻すことが目指されたが、1,000年ちかくも昔の体制がそのまま復活できるはずのないことは、実は明治政府の要人も承知していた。幕府を倒して王政復古したのは日本を急速に西洋列強から自衛できる近代国家に生まれ変わらせるためで、それには強力な単一の中央政府が必要だったからである。封建制のもとで分裂していた日本と日本人を統合する核として天皇が必要だったのである。言い換えれば、権威は持ってもらわないと困るけれども、実際の権力は持ってもらってもいいが、それよりは政府に権限を一任してもらったほうがありがたいというのが明治初年の政府首脳の本音だったであろう。明治維新の際には明治天皇はまだ若年だったので、とくにそういった気分が強かったはずである(このことは彼等が抱いていた天皇および皇室に対する崇敬の気持ちと矛盾するものではない)。  
  実際、明治初年の2大政府首脳であった木戸孝允と大久保利通は、国体については岩倉の意見と同じでありながら、実際の国家体制である目指すべき政体に関しては、「君臣共和」の意見を持っていた。つまり天皇の専制権力の否定である。そのうち木戸は、より「臣」(国民)のほうへ権力を与えようとする傾向が強かったのに対し、大久保のほうは「君」(天皇、正確には政府だが)に強い権力を残そうというちがいがあり、現実には、その後の日本政府は急速な富国強兵のためには天皇(政府)が強い権力をもつほうが有利であるが故に、大久保の考えていた政体のほうが選択されることになった。 

  林思雲氏の近代中国における西洋文化需要の姿勢、洋務運動と中体西用論における中国人の態度を読んで、日本での受け入れかたはどうだったかを、福沢諭吉を中心にして考えてみた。両者の明暗を分ける違いがどこにあったかについての結論を出すのは、読者に任せたい。
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