東瀛小評  推薦文章


林思雲 「趙紫陽は中国共産党内の民主派か」
原題:「趙紫陽是中共党内的“民主派”〔口馬〕?)」

                                     『日本華網』インターネットサイト2005年1月21日掲載
                                               
 (邦訳2005年1月24日)

  先日の趙紫陽同志の死去は、人々に前の世紀に首都北京で起こったあの悲惨な事件〔金谷注・1989年6月4日の天安門事件〕をあらためて思い起こさせた。胡耀邦と趙紫陽の二人はかつて、中国共産党の改革開放政策におけるもっとも急進的な人物だった。そして胡耀邦同志が15年前に死去した時は喧々囂々とした騒ぎとなり、ついには全国的な学生運動を引き起こしたのだが、15年後の趙紫陽同志の死に世情は冷淡である。誰もこの政治的人物について関心がないかのように見える。  
  多くの人間が胡耀邦と趙紫陽が政権を担当していた前世紀八十年代の緩和された政治的雰囲気を懐かしむ。これらの人々は当時の中国共産党は政治改革を行う決心をしていたと考えている。そして“六四事件”〔金谷注・天安門事件のこと〕によってこの政治改革は中絶してしまったと見なす。しかし歴史はそれほど簡単なものではないだろう。1970年代後期から1980年代にかけての中国共産党による政治体制改革は、動機も推進力の源も外部の民衆からの圧力によるものでは決してないからだ。党内部の圧力によるものだったのである。
  中国共産党は中国国民党とは異なり、創設当初から党内部の民主主義を相当程度重視していた。個人による独裁に反対していたのである。国民党の場合、加入する際に孫中山〔金谷注・孫文〕個人に絶対的忠誠を誓うとともに拇印を押さねばならなかった。個人的独裁の色彩が濃かったのである。しかし中国共産党は違っていた。党の創設者である陳独秀が意図した中国共産党の体制は、国民党のように党魁制〔金谷注・党首制のことだが悪いニュアンスがある〕とするのではなく、より民主的な委員制を採用するというものだった。委員制においては、共産党の集団指導組織としての中央委員会を設置し、複数の人間が党の重大問題を協議して決定し、中国共産党の指導工作について集団で責任を負うのである。中央委員会の委員はすべて党員から選挙で選ばれ、さらに委員間の選挙によって一名の書記が選出される。書記は委員会開催時における討論議題および決議記録に関し責任を負う(そして書記は他の委員から超越するいかなる特権も持たない)。中国共産党の体制は形式上は今日に至るまで、陳独秀の採用した委員制を取っている。陳独秀の中国共産党に対する貢献の一つである。  
  陳独秀は、中国の他の政党が党魁制を取って種々の弊害を引き起こしていることを批判していた。陳は、委員制による集団指導によって党内の民主主義が確立され、党首の個人的独裁が根絶され、ひいては官僚主義の害毒も消滅させられると考えていた。陳独秀は第一次国共合作の際、孫中山に、孫個人への忠誠の宣誓と拇印押捺の手続きを廃止すべきであり、それが共産党員が国民党に加入するための第一条件だと述べている。孫中山はこののち宣誓と拇印制度を廃止した。共産党は国民党の民主化を推進したと言っていい。  
  陳独秀は中国共産党の創設者であるが、社会主義や共産主義の思想を中国で最初に称揚した人物ではない。19世紀後半に西洋諸国で広がった社会主義・共産主義の学説は、その影響力を次第に拡大していくが、当時の中国は思想的にきわめて閉鎖的で西洋における社会主義もしくは共産主義運動に対する関心を持つ人間は非常に少なかった。日本は明治維新の後、西洋の思想を積極的に取り入れた。その中には社会主義と共産主義も当然のことだが含まれている。日本では1898年に片山潜や幸徳秋水ほかによって社会主義研究会が設立されており、その主たる目的は社会主義の原理を深く探究して日本社会における応用の可能性を探ることだった。彼らはさらに、1901年に日本における最初の社会主義政党である社会民主党を創立している。しかしこれは政府によって直ちに解散させられた。
 それにもかかわらず、社会主義と共産主義の思想は日本に急速に広まった。1903年に堺利彦が創刊した『平民新聞』は、創刊号に「共産党宣言」を掲載して社会主義・共産主義思想を積極的に鼓吹した。当時の日本には一万人近い中国人留学生がいたが、彼等が社会主義・共産主義の思想を日本から中国へと紹介したのである。だから、中国で頻繁に使用される語彙であるところの“社会主義”や“共産主義”は、どちらももとをたどれば日本語なのだ。1907年には、劉師培と張継が日本で社会主義講習会を組織して、社会主義思想のより本格的な紹介活動を開始している。
  1911年の辛亥革命の直後、江亢虎ほかが中国最初の社会主義政党の中国社会党を創設している。中国社会党は一時は20万人以上に党勢を拡大するが、のち袁世凱によって解散させられた。中国社会党は、宣伝・啓蒙・教育といった手段によって人民を教化することを旨としていたので、直接的な政治運動には参加せず、政権奪取を企図しなかった。そのために中国における政治の世界にはそれほどの影響を与えていない。1915年に陳独秀が上海で創刊した雑誌『新青年』が、中国における社会主義・共産主義思想宣伝の主要な陣地となった。  
  中国共産党では設立当初、その任務をめぐっての論争が生じた。李大サは中国は共産主義を実行するには時期尚早だと見なし、故に共産党は以前の中国社会党と同じく、政治活動には直接参加せず、宣伝・啓蒙・教育を主要な任務とすべきだとした。それに対して陳独秀は、中国共産党は政権奪取を目的とすべきで(議会選挙による平和的手段による政権奪取のことを指す)、共産党員が政治活動に参加しないのならば党を作る必要はないと主張した。結果は陳独秀の主張が通った。これも陳の共産党に対する主要な貢献の一つといえるだろう。もし中国共産党が李大サの意見を採用していれば、現在の共産政権はありえなかったはずだからである。  
  中国共産党はその委員制のもとに、長期にわたって集団指導体制を取った。それまで“総書記”だった党の最高指導者の名称が中央委員会“主席”に改められたのは 1943年以後であり、毛沢東が主席になる。名称だけ見ても、“主席”は“総書記”に比べれば個人独裁的なニュアンスがある。しかし1982年に中国共産党は名称を総書記に戻した。このことには個人独裁に反対するという含意がある。
  毛沢東は総書記の名称を主席と変え、さらには自身が主席の座に就いた。しかしその後相当の期間にわたり党内では個人独裁体制を敷いていない。中国共産党は基本的に集団指導体制でありつづけた。党の内部では民主的な雰囲気や手続きが存続していた。建国初期の共産党会議で毛沢東と朱徳二人の肖像が掲げられていたことで、共産党において集団指導の情況が存在していたことを知ることができる。国民党の会議では、孫中山と蒋介石の肖像を両名が生きている間に同時に掲げることは決してなかった。  
  1950年代に入っても中国共産党はまだ基本的に集団指導の伝統を保持している。毛沢東と劉少奇の肖像が共に掲げられており、党内では毛沢東の個人独裁に反対する勢力が強力だった。党内の自勢力だけでは反対派を打倒できなくない毛沢東は、やむなく非常手段に訴えて、群衆を動員し、紅衛兵を動かした。つまり党外の勢力によって党内の敵を打倒したのである。  
  文化大革命の10年間、毛沢東はまさに完璧な独裁者となった。彼に反対した(あるいは過去に反対したことのある)党の高級幹部は残らず凄まじい迫害を受け、家族までもがその犠牲となった。共産党の高級幹部たちは毛沢東の死後、彼等自身が個人独裁の直接の被害者であるがゆえに、個人独裁に反対する必要性を深刻に認識したのだった。君主に仕えるのは虎に仕えるようなもので、うっかりと最高指導者の機嫌を少しでも損ねれば一家全滅の危険にさらされることをである。だから彼等は第二の毛沢東式の個人独裁が出現する危険を根絶するために、中国共産党が政治体制改革を行って集団指導体制を確立することを強く要求したのである。  
  中国共産党内部における個人独裁反対の声を背景として、1980年代初頭に大胆な政治体制改革が実施される。一個人が党、政府、軍の最高職位を独占できる状態を廃止する一方で(胡耀邦、趙紫陽、ケ小平が党、政府、軍の最高指導者の地位を分担した)、過ちを犯した幹部にいわば“逃げ道”を与えて、迫害を受けなくてすむようにした。華国鋒は過ちを犯した最初の高級幹部であるが、迫害されていない。この後、天安門事件によって趙紫陽が“過ちを犯して”辞職したときも直接的な迫害は受けなかった。党の政治体制改革のおかげである。  
  1980年代初めの政治体制改革で、共産党が集団指導体制に回帰した後、ケ小平が事実上の最高指導者となった。しかしケは独裁者としての恣意的な権力は持っていなかった。共産党は基本的に集団指導の状態にあったのからである。そしてケ小平の構想では共産党の政治体制改革はここまでであった。つまり集団指導体制の中央政府ができればそこで改革は終わるべきものだった。ケ小平の支持したのは“小民主”(共産党の上層部に限定された民主主義)であり、彼はそれ以下の郷鎮組織や個人レベルにまで民主主義を与えるつもりはなかった。だから“大民主”(人民大衆の民主主義)に反対したのである。  
  現在まで、中国共産党内部の“小民主”(あるいはエリートの民主主義)は良好に実行されている。政権奪取後に様々な災難に見舞われた中国共産党が災いを福に転じて得た宝である。しかし共産党は自ら以外の“大民主”(あるいは大衆の民主主義)には反対の姿勢を鮮明にしている。中国共産党のヴィジョンでは、一握りのエリートが集団で指導し、膨大な民衆を統治するのであって、これは人によってはエリート主義、もしくは権威主義と呼ぶものである。  
  中国共産党は一党独裁を主張するが、個人独裁は決して主張しない。ケ小平の死後は集団指導の色彩をますます強めている。だから現在の胡錦濤総書記にもし独裁者となる野心があったとしても、実現は非常に困難であろう。   
  ところで政治改革には一定の“慣性”がつきものである。中国共産党の政治体制改革にもこの“慣性”が見られる。党上層部の民主化に伴って、地方や個人からも民主化を求める声が上がってきた。その当時は“資産階級の自由化”と称された地方や個人の民主化への要求を前に、胡耀邦や趙紫陽は同情的な態度を取った。彼等は権力を部分的に地方や個人へ与えるべきだと主張した。だが彼等は真の大衆の民主を実現せよと主張したわけではない。彼等の主張したのは共産党指導下における“開明的専制”である。
  趙紫陽は中国共産党内部の民主派だったと主張する人がいる。しかしこの“民主”が何を意味するのかがはっきりしない。趙紫陽が個人独裁に反対し、共産党上層部だけのエリートの民主を支持したという点から言えば、趙紫陽は確かに“中国共産党の民主派”と呼ぶことができる。しかし実際には中国共産党の大多数の人間が個人独裁に反対しているのであり、エリートの民主主義を支持しているのであって、たとえば江沢民が引退させられたことからも、党内部で個人独裁に反対する勢力が強大であることがわかる。そして、大衆の民主の角度から見れば、趙紫陽を民主派と呼ぶのは実態にそぐわない誇張である。趙紫陽は“開明派”と呼ぶのがより適切だ。  
  中国共産党が1980年代に行った政治体制改革の目的は、集団指導のエリート民主体制を建設することだった。そして、現在ではこの目標は基本的に実現されている。つまり政治体制改革はすでに終了しているのであって、さらなる政治体制の改革は、まず当分行われない。                                                                                                                     
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