東瀛小評  


明治初年の征韓論と日本人の面子


                              

  明治初年の政治史を自分なりに調べていて唖然とするのは、一般に「征韓論」と総称されているこの時期の対朝鮮強硬論の原因が、朝鮮側が無礼だからということにつきることである。  
  征韓論は、1867年の明治維新直後の同年12月、明治新政府が朝鮮王朝に対して、日本で政権交代が起こったことを告げるとともにこれまで通りの友好的な関係を続けたいという旨の文書を送ったところ、文中で使われている字句がそれまでの国書形式と異なるという言う理由で朝鮮側が受け取りを拒否し、ついで使節や当時朝鮮内にいた日本人に対してさまざまな嫌がらせや迫害を行ったことから、日本側に朝鮮へ出兵して「無礼」を懲らしめるべきだという意見が澎湃と起こり、とうとう明治6(1873)年10月に、政府の閣議においてその是非が論じられたという政治状況を指している。  
  事態を煎じ詰めれば、明治初年の対朝鮮強硬論は、朝鮮から侮辱を受けて国家の誇り(具体的には自分たちの日本人としての自尊心)を傷つけられた、つまり「面子を失った」から懲らしめるべきだと日本側(主として中下級の官員や軍人)が怒ったということにつきると言ってよいと思える。  

  江戸時代には、朝鮮と日本の間では正式の国交が存在しない。両国は徳川将軍と朝鮮国王の交際という形の外交関係しか持っていなかった。  
  だから朝鮮通信使というものが将軍の代替りごとに祝賀のために日本へやってきた。日本からは同様の使節を送った例は江戸時代を通じてないのだが、これは日本の鎖国政策のためと見る方が妥当である。その証拠に、日本側――というより幕府政権――は朝鮮を軽視していたという事実はなく、通信使は、幕府と将軍が形式的に主君として仰いでいた天皇から派遣されてくる使者、つまり勅使に対するより厚い礼で遇されていた。新井白石が通信使の待遇を簡素化しようとしたのは、これでは天皇より朝鮮国王のほうが上ということになってしまい、礼を厚くすることでかえって礼を乱していると考えたからである。  
  ともあれ、徳川幕府は、朝鮮との交際や日常の関係処理には対馬藩に委任していた。対馬藩は日本本州と朝鮮の間に位置する対馬島に置かれた藩である。これは対馬が地理的に朝鮮に近接しているという理由のほかに、また歴史的にも朝鮮と関係が深いという理由もあった。対馬藩主宗氏は代々、日本の幕藩体制における一藩であると同時に、朝鮮国王から対馬の主として冊封を受けていた。これには対馬が島嶼で住民を養うにたる量の米が取れないので、朝鮮に供給を仰がねばならないという現実的な理由も一つにはあった。
  この対馬藩が朝鮮の釜山に駐在連絡事務所ともいうべきものを置いていて、そこにはごく少数の藩士と商人がいたのだが(現地では「倭館」と呼ばれていた)、明治維新直後は、国内政治の問題で手一杯の明治新政府は、幕府時代どおりに対馬藩に対朝鮮関係の事務を委任したままだった。ただ、日本で政権交代があったことはとりあえず伝えておこうという趣旨で先に挙げた国書を対馬藩から伝達させたわけである。  
  その国書を朝鮮側が受け取るのを拒否した。正確にいえば、朝鮮側も対日本関係は京城(ソウル)の中央政府が直接取り扱っているのではなく、いわゆる「倭館」の置かれている釜山の属する東莱府の管轄だったのだが、この東莱府の対日交渉担当官(訓導)が、受け取りを拒否した。  
  文書の内容は、「我皇上登極し、綱紀を更張し、万機を親裁す、大いに隣好を修めんと欲す」といった調子で、日本における政権交代の通知と、友好関係を引き続き維持したいという希望を述べた、いわば儀礼的な挨拶であって、何の変哲もないものである。すくなくとも日本側はそのつもりだった。
  ところが朝鮮側は、明治維新政府とやらが送ってきた国書にはそれまで日本の主権者として朝鮮側が認めて国書を交わしてきた「日本国大君」の名がない、かわりに「天皇」と書いてある、「天皇」とは一体何者か、「勅」という字もある、そもそも「皇」とか「勅」という語句は世界にだだ一人中国皇帝についてしか使えないはずである、礼に悖るも甚だしいという理由で受理を拒絶した。野蛮な倭人め、とまで思ったらしい。これはあとで触れるが、確証がある。  

  1971(明治4)年に廃藩置県があって、日本では藩が全廃されて郡県制の中央集権国家制度が成立し、それと前後して、対朝鮮外交も中央政府が直に管轄することになり、外務省へ事務が移管されている。明治5(1872)年9月に、「倭館」が「大日本公館」と改称されて外務省の管轄下に置かれ、その結果、それまで駐在していた旧対馬藩の藩士は退去を命じられた。かわりに赴任した外務省の官員は対馬藩の努力を受け継いで朝鮮側と接触を図ろうとするのだが、朝鮮側の態度は変わらず、反対に態度をにわかに硬化させた。官憲によって公館への生活物資の供給を阻害したり、対馬藩時代からひきつづき滞在していた商人たち(このときには当然ながら対馬以外の地域からも来ていた)の活動を妨害し始めるのである。この背景にはさまざまな事情がからんでいるようだが、ひとつには「倭館」の敷地と建物はもともと朝鮮政府の所有物であり、対馬藩に使用を許可していたにすぎないものであるのに、日本側が通知もなく勝手に使用者や使用方法を変えたということもあるらしい。  
  朝鮮側の姿勢はさらに強硬へ傾き、ついに、以下のような行動にでることになる。  
  「朝鮮東莱府は公館門前に掲示を出した。そこには、日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない、朝鮮当局は対馬商人以外に貿易を許していないのに違反した、近ごろの日本人の所為を見ると日本は『無法の国』というべきである云々。」  
  これは公館に駐在していた弘津弘信という外務省官員が明治6(1873)年5月21日および同月31日付けで外務省へ発信した報告書の一部である(現代語訳)。この報告が、中央政府の中高級官僚や明治政府を作った薩摩・長州・土佐・肥前藩の武士から成る明治政府官員と近衛軍人を怒らせ、世に言う「征韓論」が巻き起こり、ついには閣議で正式に朝鮮への出兵問題が取り上げられることになるのである。  
  弘津弘信が報告書に朝鮮側の張り出した掲示の写しを同封したので、朝鮮側が日本公館の門前に張り出した文言の内容は今日に伝わっている。  
  「彼(日本)ハ制ヲ人ニ受クルト雖モ恥ジズ、其ノ形ヲ変ジ俗ヲ易ウ、コレ則チ日本ノ人ト謂ウベカラズ、我境ニ来往スルヲ許スベカラズ。」 (もと漢文。部分)   

  外務省が最初に作成した閣議のための原案は以下の内容である。毛利敏彦氏の『明治六年政変』(中央公論社 1979年12月)が要領を得ているので、借用させていただく。  
  「朝鮮官憲が、『我ヲ目シテ無法ノ国トナシ、又ハ我ヲシテ妄錯生事後悔アルニ至ラシメヨ』などと掲示したので、『自然不慮ノ暴挙ニ及ビ、我人民如何様ノ陵辱ヲ受ケ候ヤモ測リ難キ勢イニコレアリ』、このままでは、『第一朝威ニ関シ、国辱ニ係』わるほどの深刻な事態であるから、『最早、此儘閣キ難ク』、『断然出師ノ御処分』つまり武力解決方針を決断しなければならないであろうが、『兵事ハ重大ノ儀』であるから、とりあえず居留民保護のため、『陸軍若干、軍隊幾隻』を派遣し、九州鎮台に即応態勢をとらせ、軍事力を背景に使節を派遣して、『公理公道ヲ以テ、屹度談判ニ及ブベキ』である。」(同書  110頁)  
  閣議は6月から8月まで数回開かれた。議事録が残っていないので、議論の内容がよくわからない。
  結局は、武力解決派の板垣退助を抑えて、護衛もつけず、純然たる交渉のための全権大使派遣を主張する西郷隆盛が、自らその任を買って出て一旦は決着する(ちなみに西郷隆盛は通常、「征韓論」の主唱者と見なされているが、記録に残された彼の言動を見るかぎり、その証拠となる要素は案外稀薄である)。ただ、この閣議決定は、種々の国内政治上の理由から実行が伸ばされ、10月に入ってあらためて開かれた閣議において、決定が覆される。  
  この遷延の間に、日本の朝野で「征韓論」が盛んに唱えられるのである。政府首脳の議論は、「陸軍若干、軍隊幾隻」を派遣するがそれはあくまで「公理公道ヲ以テ、屹度談判ニ及ブ」ためであって、最終的な目標は交渉によって解決するというものだった。しかし政府の中下級官員や、とくに近衛の軍人たちの論調は、ほぼ武力解決を指向している。武力解決とはすなわち、朝鮮との戦争である。    

  政府首脳の一人、長州藩出身の木戸孝允は、明治元年12月の、朝鮮による国書受理拒否の時点ですでに出兵を唱えた「征韓論」の最初の提唱者である(もっとも木戸はのちこの主張を棄て、明治6年には内治優先・反征韓論の立場を取る)。  
  木戸は、当時の日記にこう記している。  
  「使節ヲ朝鮮ニ遣シ彼ノ無礼ヲ問イ、彼モシ服セザル時ハ罪ヲ鳴ラシテ攻撃、大ニ神州ノ威ヲ伸張センコトヲ願ウ。」(明治元年十二月十四日条) 
  明治3(1870)年、対朝鮮外交を中央政府に移管する下準備のために「倭館」へ派遣された外務省官員の佐田白茅は、やはり朝鮮側から交渉はおろか接触さえ拒絶され、帰国後、大約以下のような建白書を政府に提出した。  
  「朝鮮が国書を受理しないのは皇国を辱めるものであるから、その罪を問い、軍隊を送って一挙に攻め込めば、五十日を出でずして国王を捕虜にできる。」  
  この種の発言はまだいくらもあるが、省略する。 
  後世「征韓論者」と呼ばれることになる征韓論者の発言には、ある共通点が見られる。彼らは「国威を張る」ために朝鮮へ出兵すべしと唱えるのだが、彼らの言う「国威を張る」とは、「無礼の罪を問う」、つまり相手が無礼だから懲らしめるという意味でしかないことだ。
  日本国家が朝鮮出兵を必要とする経済的・軍事的な理由を、彼らは挙げない。これは、彼らの主張が朝鮮を支配して植民地にするためとかいう現実的な国益の計算にたったものでは全くないことを示している。そして「国威を張」った後どうするというビジョンも、まったくない。一国が他の一国と戦争をしようという話であるのに、驚くべき粗放さである。  
  もっとひどいのは、彼らが基本的に、「国威を張る」ためにかかる経費や兵站の調達について何も考えていないことである。この点はさきに挙げた外務省の閣議原案でさえ同様である。軍を派遣する、あるいは九州鎮台に即応体制をとらせると書いてはいるが、事前に陸軍省、海軍省と連絡をとって可能性を打診した形跡がない。すくなくとも海軍省には、8月に一旦使節派遣が決まった後になって照会が行ったのは確実である。当時海軍省次官(長官は欠員)だった勝海舟は、「現在の時点における日本の海軍は物理的に朝鮮との戦争が行える状態にない」と返答した。(ちなみに陸軍に関していえば、征韓論論議の翌年、明治7(1874)年に行われた台湾出兵の際、静観すると日本側が観測していた清が予想に反し強硬な姿勢を取って、再び日本政府内に対清開戦論が出てくるのであるが、大久保利通内務卿に戦争準備を求められた陸軍卿の山県有朋は、目下の陸軍の状態から考えて遂行できる自信がない――要するに不可能である――と、返答している。)

  さきほど発言を引用した佐田白茅は、当時ロシアとの紛争地になっていた樺太(サハリン)を放棄してそのための開発費を充てよと、まがりなりにも案を出してはいる。しかし当時の朝鮮外交の目的は、将来ロシアがかならず日本の脅威となるという見通しに立って、それに備えるための日本の長期的な対外政策の一環でもあったことを考えれば、暴論どころか空論としかいいようがない。  
  また佐田は、朝鮮は清国を宗主国として仰いでいるから出兵すれば清が援軍を出すだろうがこれも討って清を征服せよと、こともなげに書いているのだが、それができるかどうかについての具体的証拠はまったく示していない。(さきの山県有朋の言を想起されたい。明治7年になってもできないものが、明治3年にできるはずはない。) 朝鮮国王を「五十日を出でずして捕虜にできる」という発言にも、何の根拠もない。  
  佐田の発言は、自国の国力や置かれている内外の情況に関してまったく認識しておらず、さらには朝鮮や清についての同様の認識も見られない。それらを踏まえたうえでの国力の冷静な比較もなされていない。なぜ朝鮮側がそのような態度をとるのかという点にもまったく意識が向いていないのである。この人物は外交官でありながら国家の基本戦略を理解していなかった。
  佐田白茅(1832-1907)という人物は、元来、久留米藩士で、ペリー来航以来の勤王家で攘夷主義者であるという経歴を買われて――久留米藩は佐幕的傾向が強く、佐田は投獄されたこともある――、建前上攘夷をもって成立した明治政府に就職出来た人物である。朝鮮交渉以前に外国との交渉に関わった経験はない。さらに言えば、外交官としての素質もなかったのであろう。この建白書は、要は朝鮮で自分が受けた侮辱への個人的な憤懣をぶちまけているだけのことである。擁するに、一個のサムライであり、それ以下でもそれ以上でもない。
 
  木戸といい、佐田といい、この政府の外務省閣議原案といい、当時の日本の朝鮮出兵論を見ていると、無礼と侮辱には現実的計算(利害、事の成否の可能性)を度外視して返報しようとするところ、じつにサムライ的だという感想を抱く。サムライは無礼と侮辱には容赦しないものである。面子を失うからである。  
  最後に、さきに紹介した外務省による閣議原案の一節を原文で引いておく。  
  「遂ニ今日ノ如キ侮慢軽蔑ノ至ニ立到候テハ、第一朝威ニ関シ、国辱ニ係リ、最早此儘閣(さしお)キ難ク、断然出師ノ御処分之無クテハ、相成ザル事ニ候。」 (徳富猪一郎『近世日本国民史』第86巻、時事通信社、1961年から引用)  
  「国辱」とは、国が面子を失うことであろう。  
  林語堂はMy Country and My People (1935)のなかで、「中国人の『面子』を西洋人の『名誉』と同一視することは明らかに大きな誤りである」と言っているが、日本の「面子」は、「名誉」と重なる部分が大きいようである。  
  そして、私の見るところ、この「面子」意識は満州事変や日中戦争時の軍人にもかなり受け継がれているように思えるのだが、如何であろうか。

                                                           (2004年11月30日執筆、12月5日加筆)                                
inserted by FC2 system