東瀛小評  推薦文章


林思雲 「アイリス・チャン著"The Rape of Nanking"に関する私見」
原題:「小評張純如女士的《南京暴行:被遺忘的大屠殺》」

                                     『日本華網』インターネットサイト2004年11月19日掲載
                                               
 (邦訳2004年11月23日)

  アイリス・チャン(Iris Chang/張純如)女史の著した"The Rape of Nanking"は、ベストセラーとなってはげしい“争論”を引き起こした。張女史はつい最近不幸にも死去したが、そのことでふたたびこの書籍をめぐる議論が交わされることになった。  
  この小文では同書に対する個人的な意見を数点しるしてみたい。  

  まず最初にチャンの言語に関してである。南京大虐殺は中国と日本の間に発生した事件であるから、南京大虐殺を研究しようとすれば中国語と日本語両言語に通じていなければならないことは、言うまでもない。でなければ第一次史料や関係資料が読めないからだ。ところがチャン女史は日本語を知らない。それどころか中国語も出来ない。中国語を読めないので他人に翻訳してもらわなければならなかった。日本語も中国語も理解しない外国人が、中国語や日本語で書かれた原資料や関係文書を読めないにも関わらず中国と日本の間の“歴史の真相”を明らかにする著書を書こうという、それだけで危惧を抱かせるに十分である。
  さらに気になるのは、チャン女史が当然行うべき現地調査を行っていないことだ。女史は"The Rape of Nanking"を書くにあたって、1995年7月に南京を25日間取材のために訪れた。しかし日本へは行っていない。歴史の真相を明らかにする書を書くのに、中国での取材がたったの25日だけとは短すぎるのではないだろうか。それはまだよいとしても、日本で現地調査をしていないというのは、歴史に対する責任という点から見れば、真面目さを疑われても当然だろう。  
  日本では敗戦後、おびただしい文書が公開された。南京大虐殺関連の人証や物証は、さがせば出てくるはずである。チャン女史が日本に来て探索すれば少なからぬ収穫があったはずだ。「日本の右翼が南京大虐殺の調査を妨害したのだ」という人がいるが、それならなおのこと、女史は日本へ行くべきだったろう。日本の右翼がどのように調査を妨害するか、自分の身で親しく体験して著書に書き入れるべきだったのだ。そうすれば説得力もいっそう増したはずである。
 
  そして、日本を訪れて現地調査を行わなかった、まさにそのために、女史はこの著書の日本に関する記述で初歩的な間違いを犯してしまっているのである。“学者”と名がつく者なら犯してはならない種類の間違いである。  
  同書の「序言」のなかから、現代日本に関する言及をいくつか取り上げて検討してみる。

  A.「日本ではテロの恐怖が南京大虐殺に関する公開の、あるいは学術的な討論を阻止しており、さらには人びとの事件の真相を知ることへの圧力としてはたらいている。日本では中国との戦争に関して自分の本当の意見を発表する人間は、解雇の危険にさらされている。生命すら脅かされないのだ。」  

  日本に一定の期間以上暮らしたことがある人間なら、これがまったく根拠のない発言であることがわかる。第一に、日本には“テロの恐怖”など存在しない。右翼がしばしば市街でデモンストレーションを行うが、民主主義で言論が自由な国家では当然の現象である。“テロの恐怖”などとは何の関わりもない。第二に、自分の日中戦争に関する意見を正直に口にしたために解雇すると脅迫された日本人に、私は一人も会ったことがないし、そんな話を耳にしたこともない。そしてチャン女史もまた自説を立証するための実例をひとつも挙げていない。  

  B.「このような危険に溢れる雰囲気にあって、良心的な研究者の多くが、この分野に関する研究を行う目的では日本へ調査に行こうとはしない。実際、私が南京で聞いたところでは、身の危険を案じて中国は自国の学者の日本訪問をめったに許可しないとのことだった。このような状態では、外国人が日本にある南京大虐殺の文書資料を利用したくてもきわめて困難なのである。」  

  この箇所になると、さらに意図的な虚言の疑いさえある。中国の学者が資料調査に日本へ行かないのは身の危険を案じて“中国は自国の学者の日本訪問をめったに許可しない”からだというくだりは、まるで『アラビアンナイト』でも読んでいるかのようだ。中国人でさえ信用するとは思われない。

 C.「もしドイツで歴史の授業でホロコーストを割愛しようとすれば法律に違反する行為となる。しかし日本では過去数十年間、教科書から南京大虐殺に関わる材料は根こそぎに削除されて、まったく掲載されていない。博物館からは南京大虐殺の写真が撤去され、原資料は隠滅されてしまった。大衆文化には大虐殺の痕跡は皆無である。」    

  チャン女史が日本の教科書にまったく目を通していないことは明らかである。私は数種の中学教科書を自分の目で確かめたが、そのどれも“南京事件”あるいは“南京大虐殺”は紹介されていた。従来の教科書がそうだから、右翼が教科書を改訂すべきだと主張するのである。NHKの歴史ドキュメンタリー番組『映像の世紀』にも南京大虐殺はテーマとして取り上げられている。

  D.「日本の権威ある歴史研究者である教授でさえ右翼勢力に加わって、南京大虐殺に関する報道に疑問を呈したり誹謗したりする任務を遂行し、彼らがそれを国家への忠誠のあかしと考えているのだ。」  

  “国家への忠誠のあかし”を日本史の教授が行っているなどとは、評することばもみつからない。南京大虐殺に関する報道に“疑問を呈する”のは個人の自由である。ある個人が何かについて“疑問を呈する”のがどうして非難されなければならないのか。

  E.「本書は日本人の性格特質を批判するためのものではないし、このような蛮行を行った民族の遺伝子構造を云々する意図もない。本書では、文化がなぜ人間を悪魔に変えることができるのか、人間の社会的な規制の表皮をどうやってはぎ取ることが出来るのかをたずねようとしたのであり、それと同時に、文化がその規制力をどうやって強めることができるのかを知ろうとしたものである。」

  チャン女史は「文化がなぜ人間を悪魔に変えることができるのか」と書いている。ということは日本の文化は日本人を悪魔に変えると言っているわけであろう。  
  しかしながら、チャン女史は日本文化と日本人に関してこの評を下す前に、実際に日本の土を踏んでみて、日本文化には日本人を悪魔に変えるどのような魔力があるのかを考察すべきだったのではないだろうか。中国では文化大革命時期に大量の残虐事件が発生した。女子学生が教師を殴り殺した事件もあったし、食人事件すら起こった。これらも悪魔の所業と呼べるだろう。しかしもし外国人がこれらの事件に基づいて中国文化は人間を悪魔に変える文化なのだと言えば、中国人はおそらく同意しないはずである。
 
  F.「真相を明らかにしようとする試みはいつも、日本人という民族がいかに自らの集団的健忘症を育成・助長・維持しているかという事実に突き当たる。彼らは、そんなことはことはした覚えもないとしらを切るのだ。歴史に対する彼らの回答は、本来ならば、苦痛を書き記すべき歴史書における空白なのである。日本の学校教育において日本軍が戦争中に行った悪行は教えられることはないのが現実なのだ。それどころか、彼らは歴史を注意深くカモフラージュし、神話を捏造し、戦争に踏み切った加害者でありながら日本を戦争の被害者に仕立て上げている。広島と長崎の原子爆弾の日本人にもたらした恐怖が、この神話が歴史にとって変わる助けとなった。」  

  チャン女史の“彼らは歴史を注意深くカモフラージュし、神話を捏造して、戦争に踏み切った加害者でありながら日本を戦争の被害者に仕立て上げている”という発言には、ひとつの実例も挙げられてはいない。いかに日本が歴史を“カモフラージュし”ているか、いかに“神話を捏造して”いるのかについて具体的な証拠なしにこのような断定的批判を行うのは、責任ある研究者のなすべき行為ではない。

  中国人は口げんかは得意だが議論と論理的説得はあまり得意ではない。ただの罵り合いになってしまう。チャン女史のこの書の基本的性格は、日本の右翼と罵り合いをするために書かれたものであって、南京大虐殺を否定する日本の右翼に対して“議論”あるいは“論理的説得”を行うためのものではないようである。チャン女史が中国の英雄だというなら、中国式罵詈雑言の英雄であろう。  私は南京大虐殺の存在を否定しない。中国でこの問題を真剣に研究する人間がでてくることを切に希望している。だがチャン女史のような感情的な研究方法には賛成できないのだ。                                                                                                                     
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