東瀛小評

「大東亜共栄圏」の起源に関わる一事実――リゼンドル「第四覚書」の存在――


  明治時代においては体制側(藩閥の支配する中央集権の専制政府)も反体制側(民間の自由民権論者)も民族主義者、愛国者である点では一致していた。ただ前者が国家の存続に重点を置いたのに対して後者は国家の発展に重点を置いていたという差があった。この対照は明治時代の前期においてとくに顕著である。
  自由民権論者が近隣諸国の積極的な侵略や保護国化を主張したのは、それが日本の国家安全に不可欠だと考えていたからである。これは政府も基本的に同じである。政府は国家の運営の責任者として漸進的な政策をとらざるをえなかっただけである。両者は日本の自衛と独立維持のためにはアジア地域への“進出”が不可欠であるという認識を共有していた。 

  昭和の戦前から戦後期にかけての大ジャーナリストであった大宅壮一は、著書『炎は流れる』において、日本の近代の民族主義と愛国心について卓抜した分析を行っている。
 「明治以後、いや明治以前から、日本の民族主義、日本の愛国心というものには、伝統的に、アメリカの『モンロー主義』のような孤立主義は認められない。いつでも半島や大陸とのつながりにおいて出てくるのが、重要な特色となっている。個人的にも集団的にも、民族主義ないし愛国主義の感度が高くなるにつれて、半島や大陸とのつながりが強くなるのである。明治維新で国内の統一が曲がりなりにも完成したとたんに、西郷隆盛らの“征韓論”が出たりして、ふたたび内乱状態におちいったりしたのも、この日本的民族主義、愛国心と切りはなすことのできないものである」(大宅壮一『炎は流れる』4、文藝春秋新社、1964年11月、242-243頁)
 19世紀半ばの江戸時代末期、鎖国体制を解いて以後、世界の中での日本はどうあるべきか、とくにいかにして日本の独立を維持するかをめぐって幕府支持、朝廷支持、再鎖国(攘夷)支持、積極的対外外交(開国)支持の四つの要素が複雑に入り組んで日本の政治状況は混迷し、ついに朝廷支持・積極的対外外交の結びつきの勢力が勝利を収めて明治維新の成立を見る。
 この幕末時代にいろいろな対外政策案が出されているが、この時期にすでに“大東亜共栄圏”、もしくは“東亜新秩序”と同じ発想が見られるのは注目すべきであろう。
 その代表的論客の一人として、山田方谷(備中松山藩儒者。藩主で幕府老中でもあった板倉勝静の謀臣)がいる。山田は、日本がロシア・ヨーロッパ・アメリカの侵略から自衛するために、朝鮮半島と満洲を攻略して緩衝国とし、中国の必要と認められる部分を攻略したうえ、台湾を併合すべしという主張を行った。
 つまり、「満蒙は日本の生命線である」という、明治以後の日本政府によって繰りかえされることになる言葉の原型となる思想が、明治維新以前の江戸時代においてすでに認められるのである。


 
意外なことだが、大宅壮一によれば、「満蒙は日本の生命線である」という言葉そのものは、当時外務省に顧問(外務省准二等出仕)として雇われていたリゼンドルというフランス系アメリカ人(もと米国在マカオ総領事・軍人)が、明治六(1874)年初頭に、日本政府への意見書(「第四覚書」。以下「覚書」と略称)において初めて使用したものである。
 藤村道生氏の「明治初期における日清交渉の一断面(上)」という論文に、「覚書」の原文の当該部分が紹介されている(『名古屋大学文学部研究論集 史学』16、1968年3月、pp.1-8)。
  「各国之内ニ権威ヲ東方ニ逞フセント欲スルアラバ、必ズヤ北ニ於テハ朝鮮、南ニ在リテハ彭湖及台湾ノ両島ニ居留ヲ占ムルニ勝ル処アルベカラズ。(略)若支那政府ニテ牡丹人ノ日本従民ヲ害セシ一件ニ付十分満足ノ所置ヲ為サズンバ日本ヨリ速ヤカニ台湾彭湖ノ両島ヲ拠有スベシ」 
  近代日本史家毛利敏彦氏(大阪市立大名誉教授)の『台湾出兵』(中央公論社、1996年7月)にはこの個所の周囲をふくめた現代語訳がある。以下に掲げておく。
  「日本が東アジアを制覇するのに不可欠な戦略上の要地は北では朝鮮、南では台湾・澎湖島である。そこで琉球民遭難事件を利用して台湾・澎湖島を『拠有』せよ。内政が混乱している清国は日本の『拠有』を阻止できないであろうし、英露対立が激化した結果、関係国はいずれも相手陣営が台湾を占領するのをのぞまないから、列強は中立であるはずの日本の『拠有』を黙認するであろう」 (同書39-40頁)
  藤村氏の「明治初期における日清交渉の一断面(上)」は、「覚書」を読解分析してその歴史的意義を論じたものである。藤村氏いわく、「リゼンドルの意見の最大の特色は朝鮮、台湾、澎湖島の領有をパワー・ポリティクスの見地から考察し、極東における帝国主義前期の国際情勢から日本の大陸政策を論じたところにある」(『名古屋大学文学部研究論集 史学』16、1968年3月、2頁)。直接的な証拠は見いだせないが、この後の日本の大陸・アジア政策がリゼンドルの立てたプランどおりに展開していく結果をみるかぎり、この「覚書」が同年の副島種臣外務卿の北京派遣、つづく征韓論、台湾出兵、さらには壬午の変(明治十五・1882年)と続いていくそれ以後の日本の大陸・アジア政策に大きな影響を及ぼしたことは否定できないというのが藤村氏の意見である。

 
残念ながら、藤村氏の論文にも、そして毛利氏の著書にも、リゼンドルの「覚書」の全文は収録されていない。
 しかし、大宅壮一は、『炎は流れる』において、やはり原文は紹介していないながら、この「覚書」の内容を以下のように要約している。
  「日本は、北は朝鮮を領有して、ロシアの侵略をふせぎ、南は台湾を占領して、諸外国の進出を食いとめ、さらに満蒙を生命線とし、弦月型に大陸をおさえなければ、永遠の独立をたもつことはむずかしい」(『炎は流れる』3、文藝春秋新社、1964年7月、232頁)
 周辺国の略取がとりもなおさず日本の自衛・独立維持行為になるというこの地政学的安全保障観がどれほどの正当性を持っていたのかは、軍事専門家ではないこの小文の筆者にはわからない。それよりも重要なのは当時の日本人がその安全保障観を無条件に信じていた事実であろう。
 そして、この安全保障観が、西洋人でしかもリゼンドルというフランス陸軍で准将にまでなった軍事の専門家によっていわば保証されたことにより――当時の日本人は西洋人に対してはげしい恐怖と同時に文明的・人種的な劣等感を抱いていた――、さらに強固なものとなったであろうことは、想像に難くない。
  以上、ある歴史的事実に触れ、同時に個人的な感想を少し述べた。この事実の解釈は、いろいろにできるだろう。

                                                                           (2004/10/09)

  この文章は2004年11月5日、『大紀元』インターネットサイト「自由広場」において「関于“大東亜共栄圏”設想的重要文献――李仙得的《第四備忘録》」(林思雲訳)として掲載された。
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