東瀛小評

「日本の左翼と右翼」ノート

  あたりまえのことだが、“左翼”と“右翼”は対の観念であるから、片方だけでは存在しない。“左派”と“右派”も同様である。両者は盾の両面である。  
  日本では現在言われる意味では、左翼・左派(以下、左翼と統一する。右翼・右派も同じ)がまず誕生し、ついで右翼が生まれた。  
  大正時代初期から昭和初期にかけて、マルクス主義が日本の学生その他の青年層を強く捉えた。その反作用として、軍の青年将校や民間に強烈な皇室中心主義や右翼的な革命思想の持ち主が輩出してくる。  

  それ以前の日本では、こんにちの意味での左翼と右翼は存在しない。
  江戸時代の日本は封建主義体制で、大名の藩ごとが国だった。その藩内部の経済・政治政策をめぐって保守・穏健派と改革・急進派の党派はあった。しかし19世紀半ば、1853年のペリーの来航以後、当時日本を支配していた徳川幕府が鎖国体制を解き、西洋諸国と条約を締結し交渉をもつようになって、植民地化への恐怖から攘夷思想と天皇を頂点に戴く強力な中央集権国家樹立への試み(倒幕運動)が台頭してくる。天皇への忠誠と藩主(ひいては藩体制を成り立たせている幕府)への忠誠のどちらを優先するかで、保守・穏健の現状維持派(藩主への忠誠優先、幕府支持、封建体制支持)と改革・急進の過激派(皇室への忠誠優先、幕府打倒、中央集権体制樹立支持)の派閥分けが生じた。現在の用語でいえば、保守・穏健・現状維持・藩主忠誠派が右翼、急進・過激・革命・天皇忠誠派が左翼となる。ただし思想においては左翼が復古的・排外的で、右翼のほうが進歩的・開明的であったことに注意する必要がある。実際の政策においては、左翼が鎖国体制堅持だったのに対し、右翼のほうが開国支持だった。ちなみに江戸時代中期以降、朱子学および国学の普及とともに尊皇思想が全国の識字階層に浸透した結果、江戸時代の日本に反天皇思想というのは存在しなかった。幕府でさえ形式上は尊皇だったのである(将軍の地位は、形式的にだが天皇の認可を受ける必要があった)。尊皇とは天皇を求心力の核とした民族主義、愛国主義と言い換えてもよい。  
  左右どちらも民族主義、愛国主義であったことには変わりはない。幕末に急激に勢力を増す左翼は、実質的には紀元10世紀にはすでに実権を失って単なる権威だけの存在になっていた天皇をふたたび国家の主権者として中央集権の国民国家を創り出すという、復古主義に名を借りた民族主義・愛国主義の興隆とみなすべきである。そして激化した左右の争いは、その前提に立ったうえでの、西洋列強諸国の脅威を前にして植民地化を回避する自衛のために取るべき道は藩を保存したままで近代化を図る(すなわち幕藩体制支持)か、藩否定・天皇を元首とする中央集権国家化(これを勤皇という)かという、いわば手段の差をめぐる争いでしかない。

  明治維新はいわば左翼の勝利だったわけであるが、天皇親政下における国民国家をめざし中央集権体制を敷いた新政府は、実際の政策においては現実にそくして、打倒した右翼の政策を採用した。すなわち近代化である。  
  明治時代になると右翼・左翼の意味内容が変化する。明治新政府は政策的には中央集権国家化と近代化を進めた。しかし薩摩・長州などの雄藩が主導した革命であるため、これらの藩の出身者が政府・官僚組織を独占し、藩体制を廃止して近代的な中央集権国家となった明治日本において、この薩摩・長州藩の封建的な人間関係や伝統だけは政府組織の中で保存されていた。これを「藩閥」という。具体的には政府・政府関係の組織においては藩の出身による人間関係が温存されており、旧藩地域の出身者が優先的に枢要の地位につくことができた。ちなみに明治期の首相(日本の内閣制度は明治十八(1885)年に発足。首相は国民による選挙ではなく天皇による任命)14人のうち11人が薩摩あるいは長州出身者である。
 非藩閥出身者はこのような明治政府を「藩閥政府」あるいは「薩長政府」とよび、当時流入してきたイギリス・フランスなどの自由思想、民主主義思想に拠って「自由民権」をスローガンに「有司専制」に反対し、「言路洞開」をもとめて、「藩閥政府」に敵対的姿勢を取った。つまり明治期においては、旧幕府時代の封建的性質を残す「藩閥」が右翼であり、西洋の近代的政治思想に拠って「自由民権」――憲法制定、国会開設――を主張する非藩閥が左翼だったのである。ただし「藩閥政府」は国内政策的には専制主義ではあったが、国内においては進歩的な西洋化を志向し(日本語を廃止して英語を国語にしようという案さえあった)、対外政策においては自国の国力を冷静に認識し、基本的には日本の植民地化を防ぐことを主目的とした漸進的な方針を採ったのに対し、左翼はかえって過激なアジアへの勢力拡大を主張し推進した点は注意すべきである。
 だが明治二十三(1890)年に憲法が発布されて一応の民権と自由が保障されると、左翼は急速に体制側に取り込まれて衰退する。同時に一応の近代国家体制を整えた日本政府の対外政策も次第に積極的に転じてゆく。


  
第一次世界大戦後、民主主義、マルクス主義、社会主義、共産主義、無政府主義などの西欧の革新思想(革命思想)が一挙に日本に流れ込んできた。民主主義を除くこれらの思想は、国家否定、民族主義否定、愛国主義を否定する性格のものである。ここで日本の左翼は決定的にその性格を換え、今の意味における左翼となる。
 「大日本国粋会」という右翼団体が大正八(1919年)に創立されるのは象徴的である。「大日本国粋会」は、左翼勃興という当時の思想的潮流に対抗するために、当時の政府の内務大臣床波竹次郎の奔走によって設立された団体である。「大日本国粋会」の命名者は当時著名な国家主義者であった杉浦重剛、総裁は前政友会総裁・前検事総長の鈴木喜三郎であり、会員には各界のいわゆる右翼人士が参加していた。
  昭和期日本の大ジャーナリストであった大宅壮一の言葉を借りれば、「大日本国粋会」とは上に述べたような各種の「革新思想」に対抗するために“皇室中心主義”と“侠客道”が結びついた、「意気をもって立ち、任侠を本領とする集団」であったという。
  この指摘に、日本の右翼の重大な特質が潜んでいる。マルクス主義を代表とする左翼思想が当時の学生を捉えたということは、日本の知識人すなわち知=理性の部分がこちらの陣営に入ったということである。つまり右翼は残された情=非理性と意の部分が占めたということになる。ちなみに侠客とはやくざのことであり、いいかえれば暴力である。「大日本国粋会」が「意気をもって立ち、任侠を本領とする集団」だったとはきわめて暗示的である。この団体は、左翼運動を実力で粉砕する目的のもとに設立された。その実際の活動内容は、当時多発しはじめていた労働争議の現場に、資本家側から報酬をもらって介入し鎮圧するというものだった。ここで日本の右翼も現在にいたる性質を基本的に形成しおわるように見える。すなわち、皇室擁護、反共主義、民族主義、愛国主義、体制や暴力団との密接な繋がり、そして「公益」と「私益」の一体化もしくは混同、である。

 
第二次世界大戦の敗戦によって、戦後しばらくのあいだ占領軍によって右翼は抑圧され、左翼が全盛期を迎える。しかし1950年の朝鮮戦争の勃発後、占領政策が変更されて右翼は復活する。1951年のサンフランシスコ講和条約調印によって独立を回復してから後の左翼・右翼は基本的には戦前と性格は変わらない。しかし冷戦構造を背景に、あらたな性質の付加も見られる。
 左翼については、旧ソ連・中国・北朝鮮といった近隣社会主義国の代弁者となるという、行動面における特徴が付加された。換言すれば、これらいわばスポンサーの国益や対日政策の実働部隊として働くという機能を持つようになったのである。1960年から70年にかけての日米安保条約反対闘争、ベトナム戦争反対運動などはその好例である。右翼については、自国を敗北させ占領した当のアメリカ依存状態(日米安全保障条約の肯定)という、民族主義、愛国主義とは矛盾した面をもつようになった。その結果、アメリカの対日政策を是認し日本の国家政策の米国追従をそのまま肯定する状態に陥った。換言すれば、左右ともに、冷戦体制のなかで東西陣営の尖兵という性質を持つようになったといえる。日本における左右の争いは東西陣営の代理戦争となった。
 戦後日本の左翼・右翼の対立は社会主義の東側支持vs資本主義の西側支持という図式としても現れるが、左翼のいう“平和”とは社会主義国家による世界制覇のことであり、社会会主義国のやることはすべて正であるするきわめてイデオロギー的宣伝性の強いものだったため、西側の核兵器配備には反対するが東側の核兵器配備には反対しない(「労働者の核は清潔である」)、アメリカのベトナム戦争には反対するが中国のベトナム“懲罰”や旧ソ連のハンガリーやチェコスロバキアにたいする武力弾圧、アフガニスタン侵攻は支持するなどといった、あからさまな二重基準にもとづく非常識な主張を行うことになり、次第に一般大衆の支持を失っていった。さらにはさらに旧ソ連をはじめとする社会主義国のあいつぐ崩壊による冷戦構造の終結によって、マルクス主義そのものへの信頼が低下し、日本の左翼はますますその力を失っている。一方の右翼は、民族主義・愛国主義をその基本的立場とするにもかかわらずその日本の民族主義・愛国主義を否定粉砕した米国の対日観、世界観を混入させてしまったために、その元来の非合理性、野蛮性、暴力性にくわえて、自主憲法制定、自主独立、再軍備、靖国神社国家護持、愛国教育の強化、日本文化の保持などを唱えながら実際の行動においては米国の価値観や政策を支持追従するという公式見解と現実の言動の乖離を生じた。とくに冷戦終結後は米国一極化の世界構造や自国中心主義の米国の行動をまったく批判できない状態を露呈し、やはり社会的影響力を失っている。ただし日本の知識人には左翼的傾向の強い思考形式をもつ者が多く、右翼陣営は反共主義という最後にのこった大義名分で左翼知識人を攻撃することによって、かろうじて存在を保っているという情況である。

  このような欺瞞的で知的に怠惰な左右陣営の自滅的情況のなかで、日本人大衆のあいだに次第に広がりつつあるのが、政治的無関心・ニヒリズムと、それから少数ながら、既存の右翼と一線を画す民族主義・愛国主義である。後者は伝統的文化とその価値観に基づく自主的な判断を重視する姿勢から、左翼を伝統から断絶した存在として批判する一方、右翼をもアメリカの番犬と批判する。アメリカという国家についてもアメリカ式の「自由」と「民主主義」を人類普遍の価値とは見なさない。最大の特徴は、神道という多神教・自然崇拝に基づく多元的価値観の許容を日本文化の根幹ととらえ、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教といった一神教の原理主義や善悪二分論、あるいはマルクス主義といった単一イデオロギーによる全体主義を拒否する点、正義は国境(文化)を越えないとする点、太平洋戦争(大東亜戦争)については当時の帝国主義時代の弱肉強食の国際社会の状況下で日本人には祖国を護るという正義があった(他国にもそれぞれの国益からする正義があったであろうように)と主張する点、戦争自体に善悪はなしとする点、東京裁判を「勝者のリンチ」として法的・手続的・倫理的に完全に否定する点、などである。

                                                                           (2004/10/03) 
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