東瀛小評

YOUR COUNTRY AND YOUR PEOPLE

陽総領事館事件は、どうやら中国のほうが旗色がよくなっている。
 ディベートでは第三者の審判が双方の言い分を聴いて勝ち負けを判定するが、現実の議論は2者間だけの言い合いになることがほとんどである。だから、声の大きい方、あるいは力の強いほうが理非曲直に関わらず言い分を通すことになりがちである。
 日本は、中国と論争する場合、他の国あるいは国際機関を審判として引き込まないと勝ち目はないということだ。

 日本側は、中国の武警=人民武装警察が公館不可侵の外交特権を犯して他国の領事館敷地内に侵入したという、「外交関係に関するウィーン条約」違反行為にあくまで固執しなければならないはずだが、いつのまにか議論の筋がずれている。これがこの事件における最重要の論点のはずだ。中国側は、当初、国際法違反ではないと主張した(注1)。この点を等閑に付しておくと、今後、極端な話をすれば、中国側の一方的な‘必要な措置’という判断で中国の警察もしくは軍を日本領土内へ送り込んでもよいということになり、日本はその事態を受け入れなければならなくなりかねないのである(注2)。断固として、この線は譲るべきではないであろう

注1。「領事関係に関するウィーン条約」の第五十九条に、「(領事機関の公館の保護)接受国は、名誉領事官を長とする領事機関の公館を侵入又は損壊から保護するため及び当該領事機関の安寧の妨害又は当該領事機関の威厳の侵害を防止するため必要な措置をとる。」とあり、おそらく中国側はこの条文を念頭において武警による領事館敷地内への侵入を国際法違反ではないと主張したのであろう(私自身は中国側がこの条によると明言した発言をしらない)。もしそうならば、議論はこの条文の解釈をめぐるところへ煮詰まっていくはずであった。

注2。人民武装警察は1955年に公安部の指揮に属する組織として創設されたが、1983年の改組で地方軍の大半が編入された。さらに1989年の天安門事件(第2次)のあと中央軍事委員会の指揮も受けるようになった。つまり警察でもあり、軍隊でもあるのである。

 この不可侵権の侵害については、中国武警の行動は弁解のしようもない国際法違反である。面子が丸つぶれになるから中国政府は絶対に自分たちの誤りを認められない。この点を無視して、事件における日本側の怠慢と失策(これも深刻であり、たしかに事態を悪化させた)へ話題をすり替えようとしているのはこのためであろう。
 日本側は、相手が取り合わなくてもかまわず、何度でもこの点を主張すべきなのである。それがもしできないとすれば、日本の総領事館の側での失策や怠慢(たとえば難民を追い返す方針であったことや、領事館の不可侵性がおかされることへの無頓着さのなせるわざだろう)もまた明かになってしまうのを恐れているからであろう。この推測が正しければ、日本側は外務省職員数人の保身のために国益を損ね、そのうえもしかしたら将来の国家保障を危機に瀕させかねないことをしていることになるのであり、まさに、関係者すべては、‘国賊’、‘売国奴’と呼ぶのがふさわしい。
 中国側が正面から謝罪することはおそらくあり得ない。
 だから、日本政府は、中国側のほうの主張のおかしさを、詳細な事実と間然するところのない論理をもって、国際世論にはっきりしらしめるあらゆる手段を講じるべきである。つまり対外宣伝を十全におこなえということだ。
 いまからでもいいから世界を審判者としてまきこむのである。

 ところで、日本にたいする中国政府と中国人の理も非もない強硬な態度については、日本が中国を侵略したという歴史的事実も背景として軽視してはならないのもまた確かであろう。
 だから許容せよといっているのではない。
 おおかたの日本人にとってはたんなる‘事実’だが、中国人にとっては現在でもなまなましい‘体験’なのであるということに、目を向けたいのである。
 ここに日本人と中国人が戦争を語るときの出発点の決定的な差がある。加害者と被害者の差といってもいい。中国人の対日本観、対日本人観はすべて、この体験のうえに組み立てられていることを、日本人は、瞬時といえどもわすれてはならないと思う。
 以下のふたつの話は、私の経験談である。私は、日本人として、あるいは人間として、ときに中国と中国人を激しく批判するが、同時にいつもこの経験を念頭に置いているつもりだ。

 もう何年も前のことだが、中国の山東地方を2週間ほど訪れたことがある。その際、北から南下して山中のある村落にはいるところで、案内役としてついていてくれた中国人の青年が、「ここから先は日本語を使わないでください」といった。「北京語だけで話して」。
 「ここは、日中戦争中、日本軍が中国側とはげしく交戦したところです。日本軍と戦った人々が住んでいます。その人達は、日本語を聞いただけではげしい拒否反応を示します。日本人だとわかれば大変なことになります。前回私が日本の方を案内して来たときには、鋤や鎌を振り上げた村の人々に取り囲まれました。私が楯になり、彼等を護りながら、この人達は旅行者で日本の兵隊ではないと繰り返してなんとかその場をおさめましたが」
 「その日本人旅行客は、お年寄りだったのですか」
 「そうです。しかし、村人には年齢など関係ありません。日本人だというだけで彼等は戦争を思い出すのです」
 「このあたりには日本人はよく来るのですか」
 「いいえ。日本人が日中戦争後ここにくるのは、たぶんあなたで2度目でしょう。山東省は、改革開放に踏み出すのが遅れました。南部の沿海地方に比べれば発展が遅れています。旅行客は滅多にきません。このあたりは、とくにそうです。テレビもありません。このような田舎では人々は昔どおりの意識で昔通りの生活を続けています。日本軍と戦った人々は、自分の失った手や足を見せながら日本軍がなにをしたかを子供や孫に語り聞かせ、子供や孫はそれを毎日聞いて育ちます。その体験が、日本軍に殺された家族の記憶とともに、まるで自身の体験のように若い世代に受け継がれていくのです」
 彼は、父親の命令で大学で日本語を専攻した。父親はこういったそうだ。「日本は中国の敵だ。だから、彼等のことをよく知るためにお前は日本語を学べ」。

 これも数年前のことだ。
 北京で、ある日本人青年と偶然知り合った。彼は父親の仕事の関係で中国で高校までを終えた。日本に戻って大学を卒業したあとは、ある旅行会社に就職し、私が彼と会ったときは、中国旅行の添乗員として北京に来ていた。
 「北京から出る山西省行き長距離列車はどうして夜行ばかりなんですかと、このあいだお客さんに聞かれたですよ」
 彼は言った。
 「線路沿いに核サイロがあって見せるわけにはいかないからなんて言ってもしょうがないですしね」
 私たちはホテルのロビーでコーヒーを飲んでいた。
 「そもそも鉄道というもの自体が、軍事施設ですからね」
 私の言葉に、彼は大きく頷いた。
 「お客様だからこんなこといったらなんだけど、駅や列車でよく平気で写真を撮れるなと思いますよ。ちょっと昔なら公安に引っ張られていてもおかしくない。ああいう若い人たちは何も知らないからだろうけど。このあいだ、ある大学の中国文学科の学生たちをつれて廬溝橋へいったら、『ここ何?』と訊かれました。中国文学科の学生がですよ。廬溝橋事件も知らない」
 それまで穏やかだった青年の顔に皮肉と苛立ちの混じった表情が浮かんだ。
 「日本でなら無邪気だなですみますよ。でも中国ではそれだけで、ああ日本人は中国を侵略したことを反省していない証拠だと取られてしまう。彼等が知らないのは日本の支配者が歴史を教えないからで、過去を隠蔽するのは、日本がまた中国を侵略するつもりだからだ、となる」
 「それは無茶な言い分だ。学生たちが不勉強で無知なだけでしょう」
 「それは理屈です」
 彼は憤然としていった。
 「理屈はたしかにそうですが、いいですか、たとえばこのあたりの中国人は、親戚のだれかはかならず日本人にひどい目に遭わされているか、殺されるかしているんですよ。それをじかに見て、知っている、そんな人たちに理屈が通じますか」
 まさにそのとおりである。私は、自分を恥じた。
 「そのとおりです。僕が無神経だった」
 「いいんです。僕も、中国で生活しなければわからなかったでしょうから」
 彼は平静な顔に戻った。
 「それでも謝りますよ。気がつかなかったは言い訳にならない」
 しばらく、ふたりしてコーヒーを飲んでいたが、彼がふと口をひらいた。
 「僕がこのことを痛感したささやかな体験ですが、よろしければお話します」
 「お願いします」
 私は、頭を下げた。
 「僕は、中国でいるあいだに、学校で中国人の友達がたくさんできました。でもいくら仲がよくなっても、みなどこかよそよそしいところがありました。ある日、その友達のひとりの家に遊びにいったとき、母親に言われましたよ。『あなたはとてもいい子で大好きです。でも、あなたを見ると、私は父が日本兵に剣で刺し殺されたあの情景を思い出してしまう。あなたは若くて、戦争の時には生まれてさえいなかった。あの戦争とは何の関係もないし責任もないことも分かっている。でも私は、‘日本人’という言葉を聞いただけで身体が震えてくるのだ』とね。僕はすぐ帰りました」
 彼はこういって話を結んだ。
 「彼とはその後も友達でした。でも家に行くことはもうなかった」


(2002/5/23)
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