東瀛小評

水に落ちるべき犬はよろしく突き落とし、しかるのちに叩くべし

迅の言葉に「水に落ちた犬は叩くべし」というのがある。
 いま手元に本文がないので記憶に頼るが、“犬”というのは頑迷固陋で愚か、しかも自分ではその愚かさに気がついていない人間のことである。たしか、魯迅は、そのような人間は落ちるべくして水に落ちる、つまり自ら災難を招くのだが、それでも自分の愚かさに気がつかない、だから憐憫をかける必要などなく、気がつくまで叩かれなければならないといっていた。
 いうまでもなく表題はこの魯迅の言葉をもじったものである。私は一歩すすめて、「水に落ちるべき犬はよろしく突き落とし、しかるのちに叩くべし」と言うことにする。
 いずれ落ちるのであれば、一秒でも早く突き落として叩きに叩き、否が応でも愚昧の目を覚まさせてやる方が当人のためではなかろうか。

 野狐禅という言葉がある。生かじりの禅、中途半端な悟りというほどの意味のようである。仏教は門外漢ながら、悟りとはこの世は一切空であり諸行無常を認識することであろうと、理解している。
 さらに、どうあがいてもこの世はおそかれはやかれ滅びるという終末思想による諦観も、人によってはそれに加わるであろう。
 この見方からすれば、どうせ滅びるのだからだから何をしても無駄であり、またすべては運命であらかじめ決まっているのだから何もしないほうがましということになる。さらに一歩を進めれば、何もしないのが正しいという結論になり、そしてその認識に到達した自分は誰よりも優れた存在なのだという優越感が生まれる。これを野狐禅というらしい。(ついでながら仏教のみにかぎらず、自分は真理を知っている、それがゆえに自分は他人に優越した存在であると自惚れる、こういう増上慢もまた野狐禅的心境といってもよいだろう。何らかの過激な思想に染まった人間は、野狐禅的心境に陥る例が多い。さしづめマルキストがその代表的例である。21世紀の現在、彼らは水に落ちたどころかさんざん叩きのめされてとうに溺死している存在なのだが、自分が叩かれたことはおろか、すでに死んでいることすら気がついていない人々がいる。これは特に大学教官や高校教師あたりに多い。)

 野狐禅は、怠け者や臆病者、無能な人間にとっては実に都合が良い。自分の怠惰と無能を堂々と正当化できるからである。それどころか、自分こそが真理を体得した存在であるという優越感に浸りつつ、懐手のまま、日々を精一杯生きる人々を馬鹿にして雲の上の高みから見下せるとなれば、まことに結構な理論である。
 しかしこの理論が、つらい毎日を生きてすこしでもよりよい明日のために努力しているひとびとに何の慰めになるのか。たとえばチェチェン人に「どうせ人類全体がいずれは滅びるのだから同じ事だ。チェチェンはロシアに征服されてしまえ。ロシア人に大人しく虐殺されよ」といってどれほどの効果があるか。
 小林秀雄ではないが、こんな理屈では子供の喧嘩の仲裁すらむずかしかろうというほかはない。

 こういう人間は、自分がその場におかれても同じことを言えるか。たとえばチェチェン人に生まれたら? いやいまのままでも良い、たとえば自分が他人に殺されそうになっても他人に説くのとおなじく「運命だからしかたがない」で平然としていられるか。そんなことはあるまい。
 つまりは自分が安穏な環境でぬくぬくと生きているからこのようなごたくがならべられるわけである。だが、それだけではない。
 この種の人間は、自分はいやだが他人ならよいという、自己中心的な性格なのである。
 そして自己中心的性格者の常として、想像力が欠落している。他人の立場に身を置いて考えてみる、自分の身に当てはめてみる、ということができない。他者の痛みがわからない、自分しか見えず、自分のことしか考えられない人間なのである。だから臆面もなく自分を他人より優れた存在なのだと思えるのであり、平気で他人を塵芥のように見なすことができるのである。いったい何様であるか。

 なぜこの種の人間に、自分しかないのか。それは、彼らに他者とのつながりがないからである。なぜそうなのかは簡単で、彼らは他者が怖いのだ。他者と接すれば、外界へ引き出され、白日の下で自分が現実においてはただの怠け者でひょっとしたら無能きわまりないつまらない存在であることをいやでも思い知らされ、その現実を受け入れざるをえなくなるからである。だから彼らは自己愛の洞窟から出てこない。要するに彼らは現実を認めなくないがために、自らの世界に閉じこもって、そこで自己弁護のために外界を否定しているだけの卑怯者なのである。
 卑怯者である証拠の一つとしては、彼らは絶対に論争しようとしない。自分の考えに自信があるなら堂々と反対者と論議し、論破すればよいのである。だがそれができない。当然であろう。論争などしたら矛盾とご都合主義だらけの彼らのたわごとなど、みるみるうちに破られてしまうからである。
 だから彼らはこういって逃げる。「それは君の意見だ」、「どう思おうと私の自由だろう」である。たしかにそうである。しかし、最初に一方的に意見を押しつけてくるのは、決まって彼らのほうではないのか。

 自分たちの意見なるものがとても客観的な審査に耐えられるものではないことを彼らも意識下ではわかっている。それが証拠に彼らは人前ではなんと卑屈であることか、あるいはその反動としてなんと不必要に攻撃的であることか。

 こういう輩は周囲がいくら暖かく包んでも、決して外へは出てこない。しかも自分の非を認めるような勇気などない。そのままで静かにしていればいいのだが、えてしてこの種の輩は社会のなかでは他人に甘え、迷惑をかける(しかも自分ではそれに気がついていない!)。
 であるから、結局は一刻も早く水の中に突き落としていやというほど叩きのめされなければならないという結論になるのである。

(2000/4/18)
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