東瀛小評

曹長青『中国の文学者はなぜノーベル賞と縁がないのか?』読後
(その2)

中国語というユニークな言語 前編

の論文のなかで、曹氏は中国語の表記体系である漢字を指して、象形文字として言い換えたあと、象形文字には先天的な欠陥があると述べている。「中国語の使用する漢字は象形文字である。象形文字は、表音文字が持たない視覚的な印象を読者に与え、具体的な連想を起こさせる感覚的効果を有する反面、同時に抽象的思考をおおいに阻害する。」(「象形文字のもつ先天的な欠陥」)

 日本の東洋史学者岡田英弘氏は、ある著書で興味深い指摘を行っている。すなわち、漢字の辞典ではもっとも網羅的で完備したものとされている諸橋徹次編『大漢和辞典』でさえ、収録されている漢字の数は同じ字の異体字を含めて四万八千九百二字にすぎないという事実である。(『中国意外史』新書館、1997年10月、「漢字U」、189頁。)
 漢字はいうまでもなく表意文字である。表意文字であるということは、一文字がひとつの概念を示すということである。そして、文字数の少なさは、その言語を使用する人間の精神において認識される概念の少なさと同義である。
 岡田氏は、漢字がこの表意文字という記号体系であるという事実を確認したあとで、「漢字という体系には五万個たらずの概念をあらわす記号しかない」という、考えてみれば当たり前だが、驚くべき真実を指摘している。(同書、189頁。)
 すなわち漢字を使う言語、つまり中国語を母国語とする人間は、最大でも5万ほどの概念しか認識できず表現できないということになる。これはおそるべきという形容を冠してもおかしくないほどの少なさで、たとえば日本語の辞書では中辞典クラスの『大辞林』でも22万語が収録されている事実とくらべてみれば事情が鮮明に浮かび上がる。
 この世に存在する森羅万象のうち、たった五万の事物しか認識できない言語の世界像とはいかなるものであろうか。しかも、くりかえすが漢字は象形文字であるから、基本的には具体的なモノを示す字であって、抽象的なコトを意味する語は、元来きわめて少ないのである。言葉がなければ概念もない。抽象的概念がないということは抽象的思考ができないということである。曹氏の漢字は抽象的思考をおおいに阻害するという指摘はまさしく肯綮にあたっている。

 もっとも、岡田氏も続けて述べているように、複数の漢字を組みあわせて別の文字、すなわち概念の創出は、中国語の世界で盛んに行われている。複数の単語が結合して創り出された言葉の数は漢字の数をはるかに凌駕している。いま手元にある中国の中辞典クラスの国語辞典といえる『辞海』(1979年度版)の凡例を見てみると、総収録語数106,578、そのうち一字の漢字からなる語の数は14,872だから、2字以上の合成語は91,706語あるということになる。これを比率に直すと合成語の総語彙における割合約86パーセント、一字語は14パーセント、すなわち、前者は後者の6倍以上あるというわけだ。
 そしてこれらの新語は抽象的な概念を示すためのものが多い。だからこそ中国語は現代国家の国語としていまも機能しえている。(ただし漢字を使っている以上、抽象語といえども元の漢字一語一語のもつ具象性を引きずり、完全には払拭できていない。)

 ここで注意すべきは、中国語の造語能力には限界があるという事実である。これはいまのべた量的な語彙のすくなさをいっているのではなく(これも重大な問題ではあるが。『辞海』の語彙数106,578は『大辞林』収録語数の半分である)、これは質的なそれである。
 曹長青氏は、中国語はもともと「曖昧で包括的な意味を持った語彙しか持たない」がゆえに、「一般的で不正確で不明確な表現しかできない」と述べている。(「象形文字のもつ先天的な欠陥」)
 ここで私が思いつくままに実例を挙げると、たとえば“借”という字は、金でも物でもよいが、「借りる」と「貸す」の両方を意味する。このどちらが第一義でどちらが第二の意義かという区別はなく、まったく平等に両方を指し示す言葉である――というより、「貸し借り」という漠然とした意味、もしくは具体的な貸し借りる情景を表している言葉といったほうが正確であろう。もともと両者を区別していないのである。私からすれば貸すと借りるは全く違う概念のはずなのだが中国語の宇宙ではそうではないらしい。まさしく「曖昧で包括的な意味」であり、これでは「一般的で不正確で不明確な表現しかできない」。高度な経済活動のうえにすべてがなりたつ現代社会で、その基本的な貸し借りという動作を個別に特定して表現する言葉がないという事実は驚嘆に値する。(ちなみに、類似の例としては、ペレストロイカのある時期までロシア語では株券と債券が一語で表現されていた。ひとつの単語が株式を意味するほか、国債や民間私企業の社債をも指し示す語でもあったのである。つまりロシア・ソ連の人間にはこれらの区別がついていなかったらしい。私がこの事実を知ったのは1989年で、ゴルバチョフによるソ連の経済改革が推進されていた時期である。当時のはなばなしい内外の報道や世評にもかかわらず、これでまともな経済体制が作れるのかとその現実と将来に深刻な疑問と懸念を抱いたのを覚えている。)

 いくら新語を造語しても、もとになる要素の一語一語の指し示すところがはっきりとした輪郭を持つ意義をもたない以上、創り出される新語もまたぼやけた意味内容にならざるをえないであろう。
 言葉ひとつひとつの概念が曖昧で、それを正確に言い直すこともできないとなれば、いきおい、ある人間の発言や文章を受け取る人間にはその真にいわんとするところが細部にわたって理解することが難しくなる。しかも、受け手のほうの思考の道具である言語もおなじ中国語であるのだから、その理解したメッセージのあいまいさは倍増する。
 もうひとつ他の例を挙げてみる。
 “拿”という字は普通は「手に持つ」意であると辞書に載っているが、「手に取る」動作は、基本的にすべて、“拿”一語で表現する。きつく掴んでも“拿”であるし、そっと手にするのも“拿”である。とにかく手に何かを取るのはすべて“拿”といえばいい。便利な反面、これらの動作はすべて同じ概念としてしか認識されていないということでもある。
 さらに、“拿”は「手に取る」と、「手にしている」という二つの動作をどちらも意味できる。というより、この場合もさきの“借”とおなじで、「手にとって持つ」という全体の動作あるいは情景を全体的に意味しているのである。私の持っている英中辞典では“拿”の第一義の訳語として“hold, take, seize”とそれぞれ独立の単語を列挙しているが、編者も困ったであろう。英語ではこれほど別々の意味を一義のなかに含む単語はまずないからである。すくなくとも、曹長長氏が指摘するように英語では別個の動作としてそれぞれを特定して表現するために別個の単語が存在するのとは大いに異なっているのは確かである。

 つまり、中国語においては、むくつけき野郎があらあらしく喧嘩相手の胸ぐらをつかもうと、あるいは窈窕たる美女がしとやかに野の花を摘もうと、中国語では“拿”と表現するしかないわけである。中国文学における登場人物の外見的な動作行動の描写が類型的で通りいっぺんであると曹氏が慨嘆しているのも頷ける。これでは人物の性格別の挙措のかき分けはできない。

 さらにいえば、ある人が「本を手に取れ」というつもりで“拿書”(へんな中国語だが)といったのに、それを聞いた人が「本を取ってこい」と理解する事態もありえるであろう。ひとえに、“拿”ということばの意味の不明確さゆえにである。
 そのうえ、その「本を取ってこい」と言われたと、その人物が第三者に語った場合、その第三者が、この人は「本を持っていろ」といわれたのだなと解釈することもありえるから、発言あるいは文章の内容が人から人へ伝達されるあいだに、その曖昧さは倍々してゆくことになるということでもある。
 一言で言えば、中国語とは正確な情報伝達がきわめて難しい言語であるということになろう。

 いまいちど曹長青氏の言葉をかりて言えば、「曖昧で包括的な」中国語の特性は、中国や中国語圏で、現代社会の日常生活や国家の日々の運営におそるべき非能率と非効率を招いているのではないだろうか。

(つづく)


(2000/2/7)
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