東瀛小評

日経新聞のお粗末なチベット特集記事

の欄は既存のメディアの報道や姿勢について別に揚げ足取りをするつもりで設けているわけではないのだが、今回はあまりにひどいので取り上げることにする。

 9月27日(日)『日本経済新聞』5面の国際欄に「チベット問題変化の予兆」という署名つき特集記事が載っている。筆者は同新聞社の中国総局長である泉宣道という記者である。ラサ発となっている。その内容を見ると、この泉なる人物はチベット問題と中国の事情をまったく知らないか理解していないとしか考えられない。
 記事の題名と見出しに「対話へ歩み寄り模索」とあるように、中国政府とダライ・ラマの間で対話の機運が盛り上がっており、もしかしたら近いうちにチベット問題に大きな発展がみられるかもしれないという論旨である。論旨はまだいいのだが、その論拠が徹底的に誤っている。
 まず、泉記者は、観測の理由として中国側がダライ・ラマの帰国を歓迎しているからだという。その根拠として、この記事は徐明陽チベット自治区副主席の「中国政府とダライ・ラマの関係者はこのところ頻繁に連絡を取り合っている。ダライ・ラマ帰国問題が今後、具体化する可能性はある」という発言を引用しているが、中国側のダライ・ラマ帰国歓迎は今に始まったことではない。1981年の胡耀邦総書記時代に打ち出した「ダライ・ラマの帰国に関する五カ条の方針」ですでに提案されているのである。この提案をダライ・ラマは拒否した。なせならば、当時もそして現在も、ダライ・ラマは自分一人の帰国は問題ではない、十数万の亡命チベット人すべての帰国が問題なのだという立場をとっているからである。つまり、中国側の提案はこれまでの繰り返しである。これでチベット問題が解決できるならとっくの昔に解決している。
 第二に、パンチェン・ラマの転生霊童の行方を中国側が明らかにしたが、これはチベット側への友好のジェスチュアだという。パンチェン・ラマはチベットではダライ・ラマに次ぐ政治と宗教の指導者の地位にある。そしてダライ・ラマと同じく、死亡すると転生者が選出されて次代のパンチェン・ラマになる。パンチェン・ラマの後継者問題が紛糾したのは、ダライ・ラマ側が選出した転生霊童を中国側が認めなかったからである。その結果チベット側との接触を断ち切るために拉致しただけのことであって、いまさら居所がわかろうとたいした意味はない。チベット側の要求しているのは中国側によるパンチェン・ラマ後継者選びへの不干渉(ひいてはチベット人の信仰の自由)なのである。これが約束されない限り、チベット側は満足しないだろう。
 実は、ここまで述べたのは枝葉の部分である。本当に問題とすべきなのは、この記事の筆者は根本的にチベット問題を理解していないらしい点である。これがこの不正確極まる記事出現の根底にある原因である。泉記者は、チベットと中国の現状認識においてまったく知識に欠けている。
 中国は現在、どうしてもチベット問題(および台湾問題)が解決に向けて進展していると言いたい状況にある。というのは来年は中華人民共和国成立50周年で、大々的に記念行事を行うことになるため、その時に国家が分裂したままでいては、あるいは国内の不統一が露出したままでは、国の対面に関わってしまうからである。当然、党と政府そしてその拡声器である中国メディアは、国家統一に進展ありと言い張ることになる。チベットとの対話機運が盛り上がっている、とも言うであろう。最近の台湾にたいする活発な働きかけもその一環として理解すべきである。
 最近、ダライ・ラマを暗殺するよう中国政府の指令を受け、亡命を装ってインドへ送り込まれた容疑で、あるチベット人がインドで逮捕された(TIME, Asia, September 28, "Angry Spirit")。真相はまだわからないが、こんな事件がおこってはよしんば友好的雰囲気や対話が存在していたとしても、これでどこかへ吹っ飛んでしまう危険性が大きい。もし本当に中国が糸を引いていたのであれば、中国が対話を望んでいるなどとはとてもいえなくなる。
 それに、たとえダライ・ラマが現在中国との平和的な交渉を希望しているとしても、このままでは過激派チベット人がだまってはいまい。亡命チベット人の間ではダライ・ラマの中庸路線と中国国内におけるチベットの高度な自治要求に満足しない、チベットの独立のためには武装抵抗も辞さない、とする急進独立派が勢力を増している。おもにチベット青年会議(Tibetan Youth Congress)を中核とする若年層チベット人だが、彼らは次第にダライ・ラマの指導に従わなくなりつつある。9月27日には彼らはデリーにおいて、チベットから中国勢力の一掃と完全独立を叫ぶデモを行っている(AFP, September 27, "Tibetans stage pro-independence demo in Indian capital")。
 つまり、現在のところ、中国政府とダライ・ラマ(チベット亡命政府)の間には融和的な雰囲気が生まれているとは決していいがたいのである。
 これら背後の事情を知らずに、中国の報道をそのまま鵜呑みにすれば、このような記事になるのである。早さを旨とする通常の報道記事ならばまだわかるが、これは特集記事である。記事を書くうえで中国以外の報道や資料も斟酌すべきではなかったのか。もしそうしていたら、事態は好転しているなどという楽観的な結論はとても導き出せなかったはずである。それどころか、先にいったように中国の報道が事実ではなく政府の宣伝のためにある以上、そのままを伝えることは中国政府の中国国益増進のためのお先棒を担いだことになる。
 そして、チベット-中国問題に関する詳しい情報をもたない一般の人々がこのような記事を目にし、またもやその報道を鵜呑みにしてしまう点でも責任重大である。ここは日本である。読者は日本人であり、日本経済新聞は日本の新聞社である。 中国の意見をそのまま報道して何か意味があるのか。
 この記事は報道の対象となる出来事について、基本的な事実をすべて紹介していない点でお粗末であるうえに、結果として虚偽を報道しているのである。
 これでは中国の宣伝とかわらない。それともいつのまにか日経新聞は中国の宣伝媒体になったのか。
 日本人の立場からいえば、この記事の内容は無意味であり、それ以上に虚偽であるゆえに有害であるとさえいえる。

(1998/10/1)
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