東瀛小評

アジア的価値なるもの

ンドネシアのスハルト大統領退陣について、東南アジアのある国の政治家が原因は純経済的なものであるとの発言をおこなっていた。つまり、同大統領の辞任は一連の経済危機による国民の不満が激化して大統領の責任を問う声の極度に高まった結果であって、一族の汚職や利権独占といった政治体制のせいではないというわけである。インドネシアの政治体制自体には何ら問題はなく、今回のことはあくまでスハルト大統領個人の資質の問題だということらしい。
 専門的には異論があるかと思うが、インドネシアの政治体制は開発独裁型であろう。つまり国家の急速な発展のためには政府が強大な権力をもって民間を指導するというものであり、そのためには国民の個人的な権利(基本的人権やそのほかの社会的経済的政治的な権利)は制限されてもやむをえないという考え方に立つ体制であろうと私は考えている。個人の自由や諸々の権利、または民主主義が至高の価値であるというのは西欧でのみ通用する尺度に過ぎず、アジアにはアジア固有の尺度があるという主張もなされることがある。これはしばしば「アジア的価値」という言葉で表現される。
 要するに、「アジア的価値」とは個人よりも集団(国家)の利益の優先ということである。
 国家を国民全体のことであるとすれば、国民全体の生活水準が先進国においつくまでは個人の勝手は我慢してもらうというのは当然の理屈ではある。自由と人権というのは一人や少数だけがそれを享受するなら単なる勝手である。また、国民は自分の国の発展につくす義務があるし、みんなのことを考えろというのは人情から見ても当然であろう。
 しかし集団の利益とは何で、我慢するのはいつまでなのか。誰が判断するのか。それが問題である。
 「アジア的価値」を主張する(この言葉を明言するかどうかは別にして)国々では、権力が一人あるいは少数の指導者に集中している。そこでは「集団の利益」とは何であるかを判定するのは権力者だけとなる。また、自由と人権をいつ「許す」かも権力の座にある者の胸先三寸次第ということになる。要するに大衆というものは愚かだから信用できないが自分たちは違うというのであるならば、それはエリート主義であり、これはうらがえせば大衆を蔑視していると言うことである。権を握っている者が完全に公正無私であればいいというのかもしれないが、そんな人間ははたして存在するのか。
 よしんばいたとしても、独裁や少数専制ではいつのまにか自分自身の利害を集団のそれと同一視するようになるところが問題である。ここに必然的に権力の恣意的な使用やそれにまつわる汚職が発生する余地がある。問題はそこではないかとおもうのだが、どうもそうとは考えられていないらしい。
 中国の場合はもっと奇妙である。
 「中国国情特殊論」という論法を中国政府は用いる。これはさきほどの「アジア的価値」と大同小異の内容であって、中国当局は海外からの批判に対しては「内政干渉」だと反論するのが常である。それはよい。しかし、だが中国の『人権白書』の冒頭でも、人権は人類普遍の共通価値であると認めているのである。ということは、中国当局の挙動は自国の憲法や法律にすら違反しているのだ。アジアにはアジアの価値があるといいつつ個人的人権や自由を保証した憲法や法律を掲げているところがどうもわからない。
 人権や自由そして民主主義を認めるのならば、すくなくともこの点に関しては「アジア的価値」の議論は成立できなくなる。
 中国に限らず、「アジア的価値」の主張に与する国家のリーダーたちが、人権・自由・民主を認めないというのなら、いっそのこと、人間は平等ではない、権力者は何をしてもよい、集団のためには国民のひとりやふたりが死のうと生きようとたいした問題ではないとはっきりいったほうがすっきりしはしまいか。これが「アジア的価値」であると声を大にして欧米諸国に宣言してみてはどうだろう。
 いまのままでは、これらの諸国の権力者が自己の地位に居続けるためのいいわけに「アジア的価値」なるものをふりまわしているだけに見えてしまいかねない。
 そこまで徹底すればかえって尊敬されはしないかとおもうだが、どうもそこらへんの歯切れがわるい。そこまで言った政治家はいなさそうである。
 ちなみにいっておくが、私はアジアにはアジア自身の価値尺度があるという主張自体には賛成である。価値尺度とは文化のことであるから、地域や国、民俗によって文化が異なるという意味でこの主張は正しい。さらに、自由と人権と民主が人類共通の価値尺度(文化)であるという見地は歴史的にも事実的にも証明されていないからである。

(1998/6/6)
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